第63話 禁忌の開匣、不屈の決心
「クックックッ……」
大鎌鼬の裂けた口から、濁った不気味な嘲笑が漏れ出た。
その爪先が指し示す古びた木箱――禁忌の『玉手箱』の隙間から、ドロリとした濃密で禍々しい妖気の黒煙が噴き上がっていく。
「なんなの……その禍々しい力は……っ!?」
千鶴は息を呑み、思わず半歩後ずさった。
皮膚を直接刺すような刺すような冷気と悪寒。空間全体を狂気で満たしていく不吉な気配に、千鶴の額から冷たい一筋の汗が零れ落ちる。
「やめるんじゃ! その呪具の力は仲間へ向けるもんじゃないぞっ!!」
遠巻きに見守る御館が、血相を変えて悲痛な怒号を上げた。
「うるせぇ……っ! この小娘が悪いんだ……俺様をここまでコケにしやがって!」
大鎌鼬は血の混ざった唾を吐き捨てると、千鶴を憎悪に満ちた眼光で激しく睨みつけた。
「ち────づ────る────」
「いかん! 今すぐ逃げるんじゃ、千鶴っ!!」
御館の絶叫と同時に、玉手箱の内部から一本目の漆黒の手が音もなく滑り出してきた。
「なっ……これ……っ!?」
千鶴は咄嗟に純銀の錫杖を薙ぎ払い、伸びる黒い手を払いのけようとした。
しかし、銀の先端は手応えもなく虚空をすり抜ける。
そのまま実体を持たぬ黒い手が、千鶴の左肩を力なく掴み取った。
「……っ!?」
千鶴は身構えたが、衝撃も激痛も一切ない。
まるで霧か影に触れられたかのような、奇妙な手応えのなさであった。
「なんなの……これ……っ?」
「退くのじゃ、千鶴! その呪箱から伸ばされる三本の手に一度捕まれば、二度と出られぬ暗黒の底へ引きずり込まれるぞっ!!」
御館が広間に響き渡る声で警告を発する。
「ち────────づ────────る────────」
大鎌鼬がねっとりと粘りつく声で千鶴の名を呪文のように唱える。
その呼びかけに応じるように、二本目の黒い手が一気に箱から伸び出た。
「くっ……!」
千鶴の瑠璃色の瞳が、神聖な光を放つ。
覚醒した眼光が世界を引き延ばし、迫り来る黒い手の軌道を一瞬で読み切った。紙一重の見切りで、千鶴はその手を可憐にかわしてみせる。
――だが、その一瞬の隙。
死角となる背後から、風を切る異様な風刃が迫っていた。
「しまっ……!?」
ハッと振り返った瞬間、大鎌鼬が全力で投擲した凶悪な鎌が視界を埋め尽くした。
ヒュンッ!!
「ぐあぁっ……!?」
鋭利な刃が千鶴の肩口を深く穿つ。
激痛とともに千鶴の華奢な身体が弾き飛ばされ、白い装束が鮮血によって朱く染まっていく。
「千鶴っ!!」
御館の叫びがこだまする。
しかし、吹き飛ばされた千鶴を空中で待ち構えていたのは、先ほどかわしたはずの二本目の黒い手であった。
体勢を崩した千鶴の身体を、その手が容赦なく捉える。
「くっ……このままじゃ……っ!」
千鶴は痛みに美貌を歪めた。
肩を動かすたびに焼きつくような痛みが走り、右手の錫杖を握る力すら削がれていく。
もし、このまま最後となる三本目の手に捕まれば、待っているのは箱の底への永遠の封印。
それだけは、何があっても避けねばならなかった。
千鶴は血の滲む唇をぎゅっと噛み締め、不屈の決意を込めて目を極限まで細めた。
「クックックッ……ついに諦めたようだな!」
大鎌鼬は勝利を確信し、高らかに嘲笑った。
だが、痛みに耐える千鶴の瞳の奥には、なおも苛烈な戦意の炎が燃え盛っていた。
千鶴は掴まれた身体を凄絶な気迫で無理やり引き絞ると、大鎌鼬へ向けて猛然と踏み出した!
「なっ……!?」
「やめろぉぉぉっ!! 死ぬ気か千鶴ぅぅぁっ!!」
御館の悲痛な絶叫が響き渡る。
肩の傷口から激しく血が滴り落ち、石畳を赤く散らす。
それでも、千鶴の足取りは一歩足りとも揺るがなかった。
「ち────づ────る────っ!!」
大鎌鼬が狂気とともに叫ぶ。
玉手箱から、最後となる三本目の黒い手が爆発的に伸びた。
千鶴の顔面を握り潰さんばかりに、一直線に迫り来る。
だが、千鶴は足を止めない。
黒い手が鼻先へ触れる、まさにその一瞬――。
千鶴は首をわずかに捻り、その手をかわしてみせた。
「なんだとぉっ!?」
大鎌鼬の驚愕の声。
空を切った黒い手はすぐさま反転し、千鶴の無防備な背中へと襲いかかろうとする。
しかし、千鶴の狙いは最初からそこにあった。
単に手をかわすことではない。間合いを詰め、根源である玉手箱をその手から奪い去ること。
それこそが、命を賭した千鶴の決死の反撃であった。
「そこよっ────!!」
千鶴は痛む肩の悲鳴を気合で押し殺し、全身の残霊を純銀の錫杖へ集中させた。
背後に黒い手が迫る、その刹那――。
錫杖の先端が、大鎌鼬の手元を正確無比に一閃した!
パシィィィンッ────!!
「ぐっ……!?」
手首を激しく打たれ、玉手箱が大鎌鼬の掌から弾き飛ばされて宙高く舞い上がった。
千鶴はその放物線を見定めながら、素早く錫杖を引き戻す。
玉手箱が大鎌鼬の手を離れた瞬間、千鶴を縛り上げていた三本の黒い手が、霧のごとく儚くかき消えていった。
「ば……馬鹿な……っ!?」
大鎌鼬が愕然と立ち尽くす。
自由を取り戻した千鶴は、激痛に肩をすくませながらも、素早く懐から一枚の呪符を取り出した。
「眠りなさい」
凛とした声とともに、大鎌鼬の胸元へ呪符を深く押し当てる。
「封っ────!!」
術式が黄金の光となって一気に弾けた。
「ぐ……お、おのれぇぇ……っ!」
大鎌鼬は抗おうと爪を立てたが、全身の妖力を削ぎ落とされ、そのままどさりと床へ崩れ落ちた。
「はぁっ……はぁっ……っ」
千鶴は荒い息を吐き出した。
勝ったのだ。
だが、肩の創傷は深く、流れ出る鮮血が止まらない。腕を動かすたびに酷い激痛が突き刺さる。
それでも千鶴は、空から落ちてくる玉手箱を見上げた。
「……よっと」
痛む左肩をかばいながら、空いた右手を優雅に伸ばす。
パシッ。
吸い込まれるように箱を受け止めると、千鶴は小さく息を吐き、膝をつく大鎌鼬の前へと静かに歩み寄った。
そして、その足元へそっと箱を置く。
「はい。お返しするわね」
千鶴は可憐に微笑んでみせた。
「き……貴様ぁ……っ!」
大鎌鼬は屈辱に溢れた目で彼女を強く睨みつけた。
「いつか……いつか絶対にぶち殺してやるからな……っ!」
「ふふっ。またお手合わせしましょう」
千鶴はそう言って結界の術式を静かに解除した。
大鎌鼬は恨みがましく千鶴を睨み続けていたが、やがてふらふらと身を起こすと、玉手箱を大事そうに抱え、他の大妖たちの群れの中へと逃げるように戻っていった。
「お前というやつは……どこまで無茶をすれば気が済むのだ……」
御館が呆れたように深い溜め息をつく。
「ふふふ……」
千鶴は小さく笑みをこぼした。
だが、その微笑みも長くは続かなかった。
途端に強烈な痛みが押し寄せ、千鶴は顔を歪めて傷口を深く押さえた。指の隙間から、温かい赤が溢れ出ていく……だが、徐々に傷口は消えていった。
「お前……その力はまさかアイツらと同じ、あの吸血鬼の……」
御館は呟くが首を振り
「そんなのどうでも良いか……お前はお前なのだからな」
そう微笑み呟いた
そして――。
「あっ……優哉っ!!」
千鶴はハッと弾かれたように顔を上げた。
そうだ。
「優哉……っ!!」
千鶴は痛む肩を押さえ、血を流しながら、彼のもとへと一目散に駆け出した。




