第62話 心の渦動、解放される箱の影
「おい……優哉っ! しっかりしろ! 優哉ぁぁぁっ!!」
封狐は必死の叫びを上げて、突伏した青年の肩を揺さぶった。
しかし、優哉の肉体は冷たい石畳の上に倒れ伏したまま、指先ひとつピクリとも動かない。
「優哉ぁぁぁぁっ────────!!!!」
その無惨な惨状を目にした千鶴の口から、魂を削るような悲痛な絶叫が放たれた。
だが、死闘の渦中――その一瞬の隙を、殺気に滾る大鎌鼬が見逃すはずもなかった。
「戦場の只中で余所見とは……いい度胸だな人間ぁぁっ!!」
大鎌鼬は両腕の研ぎ澄まされた死鎌を空高く振り上げ、千鶴の頭上へ向けて容赦なく振り下ろした。
空を切り裂く死の刃が迫る。
しかし、千鶴は振り返りすらもしなかった。
「……邪魔よ」
氷のごとき低い呟きが落とされた、まさにその瞬間。
千鶴の身体の最深部で、封印されし強大な妖力が爆発的に脈打った。体内に巡る血の一滴一滴が意思を持ったかのように跳ね踊り、圧倒的な神通力が全身を奔流となって駆け巡る。
カンッ! カンッ────────!!!!
甲高い金属の交錯音が二度、広間の静寂を粉砕して響き渡った。
「なっ……っ!?」
大鎌鼬の放った決殺の鎌が、千鶴の背後から伸びた目に見えぬ神威の力によって左右へと無惨に弾き飛ばされたのだ。
力を打ち消され、完全に体勢を崩して無防備になった大鎌鼬の顎。
そこへ、背を向けたままの千鶴が放った純銀の錫杖が、風を裂いて唸りを上げた!
ガコッ────────!!!!
「ぐはぁっ……!?」
鈍く凄惨な打撃音とともに、大鎌鼬の巨体が重力を無視して宙へと跳ね浮いた。
口から吐血を散らしながら、重い音を立てて床へと叩きつけられる。
広間に絶句した静寂が戻る。
千鶴はようやくゆっくりと振り返り、打ち伏せられた大鎌鼬を冷徹な瑠璃色の瞳で見下ろした。
「……ごめんなさいね」
一言だけ言い残すと、千鶴はすぐさま倒れ伏す優哉のもとへと視線を戻した。
今は何よりも、あの青年の命を救うことが最優先であった。
一方、その頃――。
優哉の肉体を離れ、魂が引きずり込まれた心の最深部。
そこは、世界を飲み込まんとする激流のごとき荒れ狂う暴虐の力が渦巻く、暗黒の深淵であった。
「ぐわぁぁぁぁぁっ────────!!!!」
優哉の魂は、荒れ狂う凄まじい濁流に揉まれ、今にも四散して崩壊しかけていた。
「な、何なんだ……この胸を焼き千切るような力は……っ!? こんな狂った力、本当に人間が扱えるものなのかっ!?」
必死に歯を喰いしばって耐えていた優哉だったが、あまりの苦痛に絶望の弱音が漏れ出る。
その時であった。
「情けないわね……お坊や」
背後の暗闇から、艶めかしく嘲笑う女の毒声が響いた。
「……っ!?」
優哉が弾かれたように振り返ると、そこには先ほど戦っていたはずの炎の女妖魔が、優雅に揺らめきながら佇んでいた。
「お前……っ! なぜここにいるんだっ!?」
女妖は愉悦に満ちた笑みを深める。
「なぜって……あなたのその若い身体を乗っ取って奪おうと思ったからよ」
そして、嵐のごとく荒狂う力の潮流を見渡し、心底つまらなさそうに肩をすくめてみせた。
「でも、見下げたものね。せっかく手に入れた極上の力だというのに、あなた自身が拒絶して壊れてしまいそうじゃない」
「くそぉぉぉぉっ……!」
優哉は魂の拳を強く握り締めた。
「やっぱり……俺みたいなただの人間には、最初から無理だったのか……!?」
「あなた、本当にお馬鹿さんなの?」
女妖は呆れ果てたように吐き捨てた。
「……何だと?」
「こんな化け物じみた狂瀾の激流に、あなたみたいなちっぽけで脆い人間が正面から力ずくで逆らえるわけがないでしょう?」
「……っ」
優哉は絶句した。
荒れ狂う妖力の濁流は、どれほど魂を踏ん張らせても押し返せるものではない。力で強引にねじ伏せようと抗えば抗うほど、己の魂の根幹が激流に削り取られ、自滅していくのだ。
(……そうか)
優哉は奥歯を強く噛み鳴らした。
(俺は……この力に勝ち、ねじ伏せようとしていたのか)
千鶴の隣に並び立ちたい。
彼女を守れる絶対の強さが欲しい。
その激しい焦燥ばかりが先走り、力そのものと一つになり受け入れるという当たり前の術を失念していたのだ。
(逆らうんじゃない……この流れを受け入れ、己の一部にするんだっ!)
優哉は、暴流に対する一切の抵抗を捨て去った。
全身の強張りを解き、荒れ狂う激流の奔流の中へ、身を委ねるように深く沈み込んでいく。
次の瞬間――!
優哉の魂は怒涛の渦の中へと呑み込まれ、途方もない速度で流されていった。
「うおぉぉぉぉっ────────!!!!」
だが、奇跡的なことに、今度は魂が砕け散ることはなかった。
激流に揉まれ、身を流されながらも、優哉の魂は少しずつ、力の一番深い中心軸へと引き寄せられていく。
そして――。
ピタリ。
まるで全世界の時が停止したかのように、荒れ狂っていた力の奔流が嘘のように凪いだ。
優哉の魂は、無限のエネルギーが眠る静寂の中心点に浮かんでいた。
その全周には、先ほどまで世界を壊さんばかりに暴れていた膨大な神威が満ち満ちている。
もはや押し潰される苦痛は存在しない。
力は優哉の魂の周りを優しく取り囲み、あたたかな鼓動となって脈打っていた。
「……やった……のか……?」
優哉は呆然と、己の魂の手を見つめた。
その全貌を見届けていた女妖が、クスクスと不気味に喉を鳴らし始める。
「クックックッ……まったく、手のかかる坊やねぇ」
女妖はゆっくりと優哉の魂へと忍び寄る。
「けれど……これで器の準備は完璧に整ったわ」
その瞳に、邪悪な欲望の火が不気味に燃え上がる。
「その澄んだ魂も、整った力も……丸ごと私が奪ってあげるわっ!!」
「なっ……!?」
女妖が優哉へ手をかざした。
次の瞬間、紅蓮の爆炎が優哉の魂を呑み込み、焼き尽くさんばかりに包み込む。
「ふふふふふっ……アッハッハッハッ!!」
炎の向こう側から、女妖の狂気に満ちた高笑いが響き渡った。
「これで、その途方もない力も、あなたの身体も……すべて私の思い通りになるのよっ!!」
地獄の底から湧き上がるような狂乱の笑い声が、優哉の心の深淵にいつまでも恐ろしくこだましていた。
「……優哉っ!」
千鶴は倒れ伏す優哉のもとへと駆け寄ろうと足を踏み出した。
その時であった。
「貴様……よくも舐めた真似をしてくれたな……っ!!」
背後から、血を吐き捨てるようなドス黒い怨念の声が響いた。
千鶴は足をとめ、静かに振り返る。
そこには、顎から鮮血を滴らせた大鎌鼬が、執念の炎を燃やして立ち上がっていた。
先ほどの一撃で絶命したかに見えた巨体が、激怒に身を震わせながら起き上がってきたのだ。
「まだ立つ気なの……?」
千鶴が瑠璃色の目を冷ややかに細める。
「ふざけやがって……たかが人間の小娘の分際で……っ!!」
大鎌鼬はギラつく歯を剥き出しにして唸ると、喉の奥から激しく咳き込み、何かを石畳の上へ吐き出した。
ゴトッ……。
地に落ちたのは、掌に収まるほどの小さな四角い木箱であった。
古びた木肌の表面には、禍々しく異様な古代の紋様がびっしりと刻み込まれている。
それを目にした瞬間、遠巻きに見守っていた御館の巨顔が一変した。
「そ、それは……禁忌の『玉手箱』だとっ!?」
御館が思わず慄然とした声を上げる。
大鎌鼬はその怪しい箱を拾い上げると、千鶴に向けて邪悪な冷笑を浮かべた。
「そうだ……。俺をここまで侮辱したんだ。相応の絶望と惨死を味わってもらうぞ……っ!!」
その爪の中で、古びた玉手箱が生き物のように不気味に蠢き、打ち震えた。
千鶴は純銀の錫杖を強く握り直す。
先ほどの戦いとは明らかに質の異なる、禍々しい死の予感が、千鶴の背筋を冷たく駆け抜けていった。




