第61話 覚悟の杯、紅蓮の宿世
「悪いけれど、次が控えているの……手加減はしないわ」
千鶴が凛とした声でそう告げた瞬間、その艶やかな黒髪が波打つように美しく眩い白銀へと変貌を遂げ、瞳には澄み渡る瑠璃色の輝きが宿った。
全身から爆発的に溢れ出す圧倒的な神威に、広間を埋め尽くしていた妖魔たちが一斉にどよめく。
「なっ……千鶴、その力は、まさか!?」
御館が驚愕のあまり、雷鳴のような声を上げた。
「ええ……クラマの神通力よ。……借り物だけどね」
千鶴は可憐に微笑むと、純銀の錫杖を隙なく構えた。
まさに、その瞬間――!
大鎌鼬の巨躯が、すでに目前まで肉薄していた。
「死ねやぁぁっ!!」
空を裂き、空気を灼く大鎌が、千鶴の脳天めがけて容赦なく振り下ろされる。
カンッ────────!!!!
甲高い金属の衝突音が、広間の梁を揺らして激しく響き渡った。
「不意打ちとは、ずいぶんな挨拶だわね」
千鶴は交差させた錫杖の柄で、鋭い二本の鎌の交差点を寸分狂わず受け止めていた。
「ほざけぇっ!!」
大鎌鼬は腕力を爆発させ、強引に鎌を横一閃に振り抜く。
千鶴は舞うように身を翻し、迫る死の刃を紙一重の踏み込みでかわしてみせた。
カンッ! キンッ! カンッ!
不規則に刃が交錯するたび、火花が激しく散り、澄んだ金属音が広間を震わせる。
大鎌鼬の連撃は凄まじかった。左右から波状攻撃のごとく迫る二本の死鎌が、千鶴の退路を次々と奪い、退路を断っていく。
しかし、千鶴も一歩も引かなかった。
覚醒した瑠璃色の瞳は大鎌鼬の筋肉の収縮すら見切り、極上の作法で繰り出される錫杖が的確に刃を弾き返していく。
その死闘はもはや芸術の域に達し、集まった大妖たちすら一瞬たりとも目を離せぬ緊迫感に包まれていた。
一方、その頃――。
「可愛がってあげるわ……お坊や」
身に紅蓮の炎を揺らめかせた女妖は、妖しい不気味な笑みを浮かべ、ユラリユラリと死神のように優哉へ近づいていた。
優哉は即座に懐から数枚の呪符を取り出す。
「……ナメるなよっ!!」
呪符を投擲し、鋭い気合とともに叫んだ。
「炎刃っ!!」
呪符が空中で弾け、灼熱の刃となって女妖の胸元へ疾走する。
だが、女妖は避ける素振りすら見せなかった。
炎の刃がその豊かな肢体を直撃した瞬間、熱量は吸い込まれるように女妖の肌へと溶けて消えた。
「ぬるいわね……火力が弱すぎるんじゃないかしら?」
女妖はつまらなそうに呟くと、細い片手を優哉へと向けた。
その掌の前に、渦を巻く巨大な炎の球体が瞬時に生成される。
「じゃあ、これはどうかしら?」
解き放たれた極大の炎弾が、まっすぐに優哉へと向かって着弾する。
「封っ!!」
優哉は呪符を重ね、急ぎ結界の術を展開した。
しかし――。
ドォォォンッ────────!!!!
「ぐあぁぁぁっ!?」
炎弾が秘めた威力を、優哉は完全に見誤っていた。
術の結界を一瞬で破砕され、威力を殺しきれなかった優哉の身体が弾丸のごとく吹き飛び、背後の重厚な壁へと激しく叩きつけられる。
「かはっ……っ!!」
肺の中の空気が強制的に押し出され、視界が激しく旋回する。
意識が急速に薄れかけていく。
「ちょっとぉぉぉ! 私の身体になるんだから、ちゃんと避けなさいよっ!」
女妖が地足を踏み鳴らし、苛立たしげに叫んだ。
「優哉っ!!」
優哉の危機を目にした千鶴が、思わず悲痛な声を上げる。
だが、そのほんの一瞬の隙を、死闘を繰り広げる大鎌鼬が見逃すはずもなかった。
「戦いの最中に泥を塗るとは、ずいぶんなめられたもんだなっ!!」
千鶴の華奢な喉元へ、死の旋風を纏った大鎌が迫る。
「くっ……!」
千鶴は咄嗟に身を捻り、錫杖の柄で直撃を防いだ。
しかし殺しきれなかった凄まじい衝撃に押され、千鶴の華奢な身体は激しく弾き飛ばされる。
「千鶴様っ!」
優哉が悲鳴を上げる。
千鶴は体勢を立て直し、砂埃の中で血の滲む唇をぎゅっと噛み締めた。
(駄目……このままでは、二人とも叩き潰される……!)
その時であった。
『千鶴、落ち着いて』
澄んだ穏やかな声とともに、千鶴の肩から小さな光が舞い降りた。封狐であった。
『僕が優哉を守る。だから千鶴は、目の前の相手だけに集中して』
「封狐……お願いねっ!」
千鶴は一瞬だけ力強く頷くと、再び殺気を滾らせる大鎌鼬へと視線を戻した。
「さあ……続きを始めましょうか」
瑠璃色の瞳が、陽の光を穿つほどに鋭く光り輝く。
「もう、ほんっとに鬱陶しいわねっ!!」
炎の女妖は苛立ちを隠そうともせず、先ほどを遥かに凌駕する爆炎の巨球を作り出した。
渦巻く紅蓮が膨れ上がり、広間の大気を灼熱で焦がしていく。
「ちょっとくらい丸焦げになっても、文句は言わせないわよっ!」
女妖が腕を豪快に振り下ろす。
巨大な爆炎の超弾が、横たわる優哉めがけて猛然と解き放たれた。
『させないよっ!』
封狐が優哉の前に素早く滑り込み、小さな両手を広げた。
次の瞬間、バチンッ!!と弾けるような重厚な音が響き渡る。
透明な光の結界盾が、迫る爆炎を正面から完璧に遮断した。
炎は盾の表面で狂ったように渦を巻いたが、やがて威力を削がれ、霧散するように消滅していった。
「……ムカつく子狐ね」
女妖の顔から薄笑いが消え去った。
「丸焦げにして喰らってあげたら、美味しいかしら?」
その全身から、殺意を孕んだ圧倒的な火柱が噴き上がる。
封狐は後ろの優哉を振り返った。
『優哉、ここは僕に任せて!』
「駄目だっ!!」
優哉が痛む胸を押さえ、血を吐きながら声を張り上げた。
「それじゃあ……それじゃあ駄目なんだよっ!!」
『何を言っているんだよ!? 千鶴にお前を守るように言われているんだっ!』
封狐が焦燥感を募らせて叫ぶ。
「僕は……っ」
優哉は砕けた壁に手をかけ、ガタガタと震える脚に必死で力を込めた。
「僕ひとりであのババアくらい倒せなきゃ……僕がここへ来た意味が無いんだっ……!!」
血の滲むほど拳を固く握り締める。
千鶴の隣に立つ。
その誓いを果たすために、命を賭してここまで来たのだ。ただ守られるだけの足手まといのままでは、何一つ変えられない。
その固い不屈の覚悟が、優哉の魂の底で紅蓮の如く燃え上がっていた。
封狐はしばし無言で優哉の瞳を見つめていたが、やがて凄絶な真剣さを宿して問いかけた。
『……優哉。人間をやめる覚悟はある?』
「……何だって……?」
『聞いてるんだよ。人間であることを捨て去る覚悟があるのかって!』
封狐の叫びが広間に重く響いた。
優哉は目を見開いた。だが、戸惑ったのはほんの一瞬に過ぎなかった。
「……力を、得られるんだな?」
優哉は力強く顔を上げた。
「その力で……千鶴様の隣に並び立って戦えるのなら……こんな人間の身体なんて、いくらでも捨ててやるっ!!」
その声には、一切の迷いも恐怖もなかった。
『激痛と拒絶反応に耐えきれず、そのまま命を落とすかもしれないぞ』
封狐が念を押す。
優哉は、口元に凄絶な笑みを浮かべてみせた。
「このまま無力な役立たずのままでいるくらいなら……死んだ方が何倍もマシだっ!!」
『……そう』
封狐は静かに頷いた。
その二人のやり取りを遠巻きに見ていた炎の女妖が、心底うんざりしたように深く溜め息をつく。
「……いつまでコソコソ喋っているのよ。さっさと死んで、その身体を私によこしなさいっ!」
「「うるさい、ばばあ────っ!!」」
優哉と封狐の声が、寸分狂わず見事に重なった。
「なっ……誰が、ばばあですってぇぇっ!?」
女妖の青筋が額に浮き出る。
その一瞬の隙を見逃さず、封狐は己の尾へと手を滑らせた。
『優哉、これを飲み込んで!』
そう言って差し出したのは、封狐の尾の毛から精製された、眩く輝く小さな神光の結晶であった。
「これは……?」
『僕の妖力の一端だよ。人間の肉体で受け止めるにはあまりにも強大すぎる毒薬のような力だけど……君が望むなら、道は拓ける!』
優哉は輝く結晶を見つめた。
そして――何一つためらうことなく、それを口の中へと放り込んだ。
ごくり。
喉奥へと飲み込んだ、まさに次の瞬間――!
「ぐっ……あぁぁぁぁぁぁぁっ────────!!!!」
全身の血管を灼熱の油が駆け巡るような絶大な激痛に、優哉はその場に崩れ落ち、膝をついた。
身体の細胞の奥底から、骨肉を作り替える激しい脈動が暴れ出している。
封狐の異質の力が、人間である優哉の肉体を理不尽に破壊し、再構築しようとしていた。
「愚かな男ねぇ……」
炎の女妖は哀れむように笑った。
「そんなに苦しいなら、さっさと楽にしてあげるわっ!」
女妖の口元が限界まで大きく裂け開かれる。
次の瞬間、世界を焼き尽くすほどの爆炎の奔流が、もがく優哉へと押し寄せた。
『やらせないよっ!』
封狐が間一髪で優哉の前へと躍り出て、全身の神気を削って炎を受け止める。
ドゴォンと凄まじい音を立てて爆炎が弾け、封狐の小さな体が光の渦の中に包まれた。
「もう……本当に面倒くさいわねっ!…あなたの身体、貰うわよ」
女妖は忌々しそうに舌打ちすると、さらに追撃の炎を練り上げようとした。
しかし――。
ふらり。
突如として、女妖の身体が不自然に傾いた。
「……え……?」
次の瞬間、糸の切れた傀儡のごとく、その場へどさりと崩れ落ちたのだ。
ドサッ。
『……な、何だ……!?』
封狐は身を構え、警戒の眼差しで倒れた女妖を見つめた。
すると、倒れた肉体から、半透明の歪な炎がゆらゆらと宙へ立ち上っていくのが見えた。
『しまっ……!?』
封狐が戦慄の声を上げた。
半透明の炎は自らの意思を持つかのように怪しく揺らめくと、苦悶に身を捩る優哉の身体へと吸い込まれるように突進していったのだ。
『優哉、ダメだっ! そいつの魂を受け入れるなっ!!』
封狐が叫ぶ。
だが、すべては遅すぎた。
半透明の炎は優哉の胸の中へと滑り込み、完全にその姿を消し去った。
そして――。
優哉の全身から、血のように赤々とした狂乱の炎が一瞬だけ噴き上がった。
封狐は息を呑み、絶句する。
『……まさか……あの女妖、優哉の魂を喰らうつもりなのか……っ!?』
優哉は突伏したまま、ピクリとも動かない。
その肉体の最深部で、人間を超越した“何か”が、静かに産声を上げようとしていた。




