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黒刀と瑠璃眼の少女  作者: あると


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第60話 幻影の足音、大妖集結の夜

「風磨……?」

気がつくと、千鶴は住み慣れた八神家の門前に突っ立っていた。

そのすぐ目の前に、忘れるはずもない見慣れた弟の顔がある。

「風磨……? 風磨なの……?」

千鶴は信じられないものを見るように瑠璃色の目を限界まで見開き、慌てて駆け寄ると、両手で弟の頬をぺたぺたと触り確かめた。

「姉上……何をしているんですか? 気持ち悪いんですけど」

風磨は本気で迷惑そうに千鶴の手を払い除けた。

その温もり、その冷ややかな声――千鶴の目から涙が一気に溢れ出した。

「えっ……姉上!?」

突然泣き崩れた姉に、風磨はぎょっとして表情を一変させる。

「す、すみません……姉上。手を振り払ったのが、そんなに痛かったですか?」

心配そうに顔を覗き込んでくる風磨。

千鶴はその姿を滲む視界で見つめながら、胸の中で小さく呟いた。

(よかった……あの惨劇は、すべて悪夢だったのね……)

「違うの……あなたが……死んじゃったと思って……っ」

「はぁ? 勝手に殺さないでくださいよ」

風磨は呆れたように深々とため息をつくと、いつもの意地の悪い笑顔を浮かべた。

「まったく、朝から何を馬鹿なことを言っているんですか。ほら、馬車を手配しておきましたよ。行きましょう」

「……どこへ?」

「東の街ですよ。もう、しっかりしてくださいよ姉上?」

風磨が不思議そうに首を傾げた、その瞬間――千鶴の表情が凍りついた。

「……あなたは、ここで待っていなさい」

千鶴の目から可憐さが消え、真剣な眼差しが弟を射抜く。

「嫌ですよ。路銀も馬車も、ぜんぶ私が手配したんですから」

風磨はそれだけ言い残すと、馬車へ向かって走り出した。

「待ちなさい、風磨っ!!」

千鶴も叫び、追いかけようと踏み出した。

だが――足がピクリとも動かない。

「え……?」

次の瞬間、千鶴の身体は前かがみに地面へ倒れ込んだ。

「な、何なの……っ!?」

足元へ視線を落とした千鶴は、息を呑んだ。

冷たい土の底から、粘つくような無数の黒い手が伸びていたのだ。

その怨念の手が、千鶴の足首を固くしっかりと掴み刺さっている。

「何これ……!? 離しなさいっ!!」

千鶴は必死に脚を振り払おうと暴れた。

しかし、一本だった黒い手は二本、三本、幾百と爆発的に増殖し、彼女の脚から体へと這い上がって絡みついていく。

「待ちなさい……風磨っ!!」

風磨は振り返ることもなく、遠ざかっていく。

「待って……風磨! お願いだから、行かないでぇぇぇっ!!」

千鶴は必死に手を伸ばした。

だが、その指先が弟の背中に届くことは決してない。

やがて風磨の姿は、冷たく眩い光の奔流へと呑み込まれていった。

光は一瞬で広がり、千鶴の視界を真っ白な絶望で染め上げていく。

「風磨ぁぁぁぁぁっ────────!!!!」

悲痛な叫びが、虚無の空間に虚しく響き渡った。


「風磨ぁぁぁぁぁっ────!!!!」

千鶴は悲鳴を上げて跳ね起きた。

目の前に広がっていたのは、見慣れぬ重厚な木目の天井であった。

「……そう、だったわ……」

荒い呼吸を必死に整えながら、千鶴は力なく呟いた。

「昨日……御館様と沙羅様のお屋敷に泊めていただいたのだったわね……」

夢だった。

風磨は……もう、この世のどこにもいない。

その冷酷な現実が、容赦なく鋭い刃となって千鶴の胸を抉った。

「……っ」

千鶴は両手で顔を覆い隠した。

押し殺した激しい嗚咽が、静寂の残る部屋に小さく漏れ出る。

どれほどの刻が過ぎただろうか。

やがて千鶴はゆっくりと顔を上げ、部屋の鏡の前へと向かった。

鏡に映っていたのは、泣き腫らした瞳と、見る影もなく憔悴した己の顔。

「……ひどい顔ね」

千鶴は自嘲気味に呟いた。

そして――。

パンッ────!!

自らの両頬を、容赦なく強く叩いた。

「……しっかりしなさい、八神千鶴」

拭った手に涙の痕を残し、まっすぐ鏡の中の己を見つめ据える。

悲しみが消えたわけではない。弟を失った激痛が癒えたわけでもない。

それでも――立ち止まるわけにはいかなかった。

囚われたクラマを救い出すために。

そして、すべての死の元凶である皇綺羅とカミーラを絶つために。

千鶴は身支度を厳かに整えると、静かに部屋を後にした。


廊下へ出た千鶴の耳に、突如として激しい刃物の打撃音が飛び込んできた。

「何をしているの!?」

慌てて駆け寄ると、広い庭に面した大広間の前で、優哉が数人の威圧的な烏天狗たちと激しく刀を交えていた。

千鶴が声を張り上げると、優哉はピタリと刀を止め、いつもの爽やかな笑顔を向けた。

「おはようございます、千鶴様。そんな大きな声を出されて、どうされたのですか?」

「どうしたもこうしたもないでしょう!? あなたたち、本気で手合いをして争っていたじゃないの!」

「何を言っておられるのですか?」

優哉は不思議そうに小首を傾げた。

「御館様にお願いをして、手解きをしていただいていたのですよ」

「……え?」

千鶴は汗を流す烏天狗たちと優哉の顔を交互に見比べた。

どうやら本当に、命懸けの修行をしていただけのようだった。

「……そう。よかったわ」

安堵の溜め息をつく千鶴に、奥から現れた御館が豪快に高笑いした。

「ガハハハ! なかなか筋が良いぞ、この男は! 人間の若造にしては骨がある!」

「……体は、もう大丈夫なのか?」

御館は笑いを収めると、千鶴の憔悴した顔を案じるように低く尋ねた。

「昨夜屋敷に着いた途端、糸が切れたように倒れてしまったから驚いたぞ。よほど過酷な疲弊が溜まっていたのだろうな」

「……お気遣い、ありがとうございました」

千鶴は深々と頭を下げた。

そんな彼女へ、沙羅が温かな料理の香りを纏わせて声をかける。

「さあ、そろそろ朝食にいたしましょう。詳しいお話は、召し上がりながらでもできますから」


朝食の席で、千鶴は東の街道街で起きた惨劇のすべてを静かに語った。

カミーラの不気味な強襲。

風磨の無念の死。

そして、皇綺羅が推し進める冷酷で巨大な野望。

話を聞き終えた御館の面容は、刻一刻と鬼のごとき険しさを増していった。

御館もまた、東の海岸で遭遇した座礁船の異変について語った。

赤黒い光を放つ異形の目。

命の生気を吸い尽くす不可解な呪詛。

そして、血に狂った死者たちの暴動。

二つの惨劇を結ぶ糸は、あまりにも明白であった。

「……やはり、すべての惨劇の根脈は、カミーラと皇綺羅にあるのですね」

千鶴が固い決意とともに呟く。

「間違いなかろう」

御館は重々しく首を頷かせた。

「奴らは人間のみならず、我ら妖魔の命すら玩具として踏みにじろうとしておる。このまま野放しにすれば、天下は取り返しのつかぬ暗黒へ落ちるぞ」

千鶴は顔を上げた。

「……クラマは、どうなったのですか?」

その問いに、御館は即座には答えず、重い沈黙を置いた。

「詳細は解らん……。だが、あの二人がクラマを捕らえた可能性は極めて高い」

「そんな……っ」

千鶴の顔から血の気が引いた。

クラマまで失うわけには絶対にいかない。もう二度と、大切な存在を目の前で奪わせはしない。

その不屈の光を宿した瞳を見透かしたように、御館が重々しく口を開いた。

「これよりワシは、ワシの召集に応じる大妖どもを全土から呼び集める。そして、綺羅とカミーラを根こそぎ叩き潰すつもりだ」

御館は千鶴の瞳をまっすぐに見据えた。

「おぬしたちは、どうする?」

「私たちも……連れて行ってください」

千鶴は一切の躊躇もなく即答した。

「クラマを救いたいのです。あの子を……何があっても取り戻したい」

その澄んだ声には、鉄のごとき固い誓いが宿っていた。

御館は満足げに口元を豪快に歪めた。

「ガハハハ! そう答えると信じておったぞ!」


それから幾刻かの刻が流れた夕刻――。

御館の屋敷に構えられた巨大な大広間には、全土から駆けつけた数百を超える異形の大妖たちが隙間なく集結していた。

天井の梁を激しく揺らすほどの濃密な妖気が渦を巻き、生半可な者であれば息を吸うことすら叶わぬ重圧が満ち満ちている。

身の丈を越す巨大な角を持つ狼。

鋭利な狂牙を剥き出しにする獣の大妖。

美しい人間の姿を模した妖花。

そのいずれもが、山ひとつを一夜で平らげるほどの途方もない神通力を秘めていた。

やがて、御館が重厚な歩調で群衆の前に進み出た。

手にした巨大な大団扇を掲げ、雷鳴のごとき大音声で叫ぶ。

「よくぞ集まってくれた、兵どもよ!!」

数百の怪異たちが、一斉に御館へとギラつく視線を向ける。

「我らが妖魔の王・クラマが……悪しき人間どもの手によって不当に捕らえられた!!」

その一言が落ちた瞬間、広間の空気が爆発するように激変した。

「我とともに立ち上がり、立ち塞がる者どもを根こそぎ叩き潰す者はいるか────っ!?」

「「「オオオオオオオオオッ────────!!!!」」」

天地を揺るがす地鳴りのような雄叫びが、屋敷の土台ごと揺らした。

「我らに仇なせばどうなるか……あの愚かな人間どもに、骨の髄まで叩き込んでやれっ!!」

「ぶっ潰せぇぇぇぇっ!!」

「人間どもに、我ら妖魔の恐怖を刻んでやる!!」

苛烈な殺気と怒号が飛び交い、充満する妖気がさらに数倍へと膨れ上がる。

まさに、その時であった。

「ところで……御館様」

咆哮する群衆をかき分け、ひときわ不気味な巨躯を誇る大鎌鼬(おおかまいたち)がゆらりと前へ進み出た。

その両腕には、鋼すら容易く断ち切る鋭い湾曲した大鎌が光っている。

そのギラついた瞳は、御館の隣に佇む千鶴と優哉を不快そうに値踏みしていた。

「そちらのちっぽけな人間どもは一体何者です? まさか……出陣の景気づけの生贄ですかねぇ?」

大鎌鼬は千鶴を見下ろし、鼻で侮蔑の息を吐き捨てた。

「特にその女……妙に鼻につく妖気を放っている。人間の身でありながら、いったい何をしにここへ足を踏み入れたのです?」

「千鶴はワシらの尊き仲間じゃ」

御館が低く威厳に満ちた声で答える。

「皆に正式に紹介するつもりであったのだが――」

「フフフ……ハハハハハハっ!!」

大鎌鼬は凶悪な口元を歪め、嘲笑を広間に響かせた。

「これは傑作だ! まさか御館様ともあろうお方が……人間の犬にまで成り下がるとはなっ! 弱くてズル賢い人間どもの味方をするなど、笑止千万!!」

「なんだとお前はっ!?」

御館の巨顔が激怒に染まる。

しかし、その前に千鶴が一歩、静かに前へ進み出た。

「よいのです、御館様」

千鶴は静かに制すると、大鎌鼬の鋭い眼光を正面から見据えた。

「……私が人間だから、弱いとおっしゃるのですか?」

「当然だろうが」

大鎌鼬は両腕の大鎌をシャキリと鳴らし、不敵に笑った。

「人間など、我ら大妖の足元にも及ばぬ儚い存在。違いますかねぇ?」

「……なるほど」

千鶴の口元に、冷ややかな薄笑いが浮かんだ。

「それなら……今ここで試してみましょうか。あなたのおっしゃる通り、私が本当に『弱い人間』なのかどうかを」

明確な挑戦の言葉に、大鎌鼬の細い目が危険な殺気とともに細められた。

「面白い……その威勢、いつまで持つかな!!」

大鎌が左右に大きく開かれ、凶悪な真空の旋風が巻き起こる。

まさにその時――。

「ふふ、じゃあ私は……そちらの可愛らしいお坊やを美味しくいただこうかしら?」

燃え盛る紅蓮の炎を纏った艶麗な女妖が、揺らめく火の粉とともに進み出た。

炎の揺らめきの向こう側で、女妖は優哉の胸元を細い指先で指差す。

「あなた、なかなか良い顔をしているじゃない。どこまで私を楽しませてくれるのかしら?」

「優哉に手出しはさせないわ」

千鶴が即座に割り込もうとする。

「あなたの相手も、私がまとめて――」

「千鶴様」

優哉が静かに、千鶴の前へと足を踏み出した。

その整った顔立ちには、かつての頼りなさは微塵もなく、強い覚悟が宿っている。

「私は……あなたの隣でともに戦うために、ここまでついてきたのです」

優哉は紅蓮の女妖を真っ直ぐに見据えた。

「この相手は、私に任せてください」

「優哉……」

千鶴は青年の横顔を見つめた。

かつて守られる存在でしかなかった優哉が、いまや自らの意志で戦場に立ち、盾となろうとしている。

その瞳に宿る本物の決意を、無下につっぱねることはできなかった。

「……分かったわ。けれど……絶対に無茶はしないで」

「はい。お約束いたします」

優哉は力強く頷いた。

千鶴は再び、殺気を孕む大鎌鼬へと向き直る。

その一方で、紅蓮の女妖は優哉の覚悟を嘲笑うように艶やかに唇を吊り上げた。

「ふふふ……よろしくね、お坊や」

女の全周で、紅蓮の炎が爆発的に燃え上がった。

大広間に集まった数百の異形たちが、唾を呑んで二組の決闘を見守る。

囚われし九尾の王・クラマを取り戻すための壮絶なる前哨戦が、いま幕を開けようとしていた。

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