第59話 鞍馬の誤執、無垢なる救済と夫婦の破綻
「アラタ……! クラマ……! どこにいるのじゃ、返事をせよっ!!」
鞍馬山へ疾風のごとく舞い戻った御館と沙羅は、山頂の館へ足を踏み入れるなり、張り裂けんばかりの声で二人の名を叫んだ。
「アラタ……っ!」
沙羅が焦燥に駆られ叫んだ、その時――。
静まり返った館の奥から、ちいさな影がひょこっと顔を出した。
「あ……!」
アラタであった。
無傷のアラタは沙羅の姿をその目に捉えると、パッと表情を輝かせ、嬉しそうに小さな足をバタつかせて駆け寄ってくる。
「アラタ……っ!」
沙羅はたまらず駆け寄り、愛おしそうにその小さな身体を強く抱きしめた。
「無事であったか……無事であったのだな……!」
御館も安堵の溜め息を深く吐き出し、胸を撫で下ろした。
だが――。
「……?」
御館は違和感を覚え、即座に鋭い視線で館の全域を見回した。
かつてこの鞍馬山を圧倒していた、あの巨大で威厳に満ちた妖気が――どこを探しても微塵も感じられないのだ。
「何故じゃ……?」
御館の太い眉が固く釣り上がる。
「何故、クラマの気配が……どこにも無いのだ!?」
その怒号に導かれるように、奥の暗がりから一人の烏天狗が恐縮した様子で姿を現した。
「御館様、沙羅様……よくぞご無事でお戻りで……」
「クラマはどうしたっ!? どこへ行ったのだ!!」
御館が胸倉を掴まんばかりの勢いで詰め寄る。烏天狗は申し訳なさそうに深々と頭を下げた。
「クラマ様は……千鶴様の身を案じられ、お一人で京の都へ向かわれました……」
「なに……っ!?」
「それ以降の消息は……我らにも、まったく掴めておりませぬ……」
「なんということだ……っ!」
御館の顔色が青ざめる。
「すぐに京へ折り返し、クラマを救出しに行くぞっ!!」
怒声とともに踵を返し、再び山を下りようとする御館。
だが――。
「頭を冷やしなさいなっ!!」
沙羅の鼓膜を破るような一喝が、山頂に響き渡った。
「なぜ止めるっ!?」
「あのクラマ様ほどの大妖すら消えるほどの異変が、都で起きているのですよ!?」
沙羅は凍てつくような冷静な眼差しで御館を射抜く。
「今、あなた一人が後先考えずに跳び込んでいったところで……返り討ちに遭って犬死にするのが目に見えています!」
「なら黙ってクラマを見殺しにしろと言うのかっ!?」
御館が血走った目で怒鳴り返す。
「あなたまで倒れたら、誰が残された妖魔たちを束ね、この混迷を収めるのですかっ!!」
「……っ」
「今は怒りに任せて動く時ではありません。一度体制を立て直すのが先決です」
沙羅は静かに、しかし断固とした口調で告げた。
「……一度、我らの烏山へ戻りましょう」
御館は血が出るほど強く拳を握り締め、ギシリと歯を噛み鳴らした。
「…………くそっ、分かった……!」
悔しさを吐き捨てるように呟いた。
一方、その頃――。
急ぎ脚で山を登り終えた千鶴たちは、ようやく鞍馬山の境内に辿り着いていた。
「クラマ……っ!」
千鶴は乱れる髪も気にせず、必死に山道を駆け上がる。
優哉も息を荒げながら、命懸けでその後ろを追いかける。
「はぁ……はぁ……っ! 千鶴……様……っ!」
しかし、疲弊した優哉の脚力では次第に距離が開いていく。
足音の途切れに気づいた千鶴が、ハッと足を止めた。
「優哉……」
「千鶴様は……私のことは気にせず、先にクラマ様の元へお向かいください……っ!」
優哉は膝に手をつき、切れ切れの息で叫ぶ。
「私は……後から必ず追いつきますから……っ!」
「……分かったわ」
千鶴は固く頷く。
「無理はしないで、気をつけてね」
そう言い残すと、千鶴は再び風のように山頂を目指して駆け出した。
だが、山頂へ近づくにつれ、空気の肌触りが一変する。あまりにも強大で不穏な妖気が充満していた。
「……何なの……この圧迫感は……っ!?」
千鶴が山頂の開けた境内へと飛び出す。
そして――。
「……っ!?」
目の前には、見上げるほどの圧倒的な存在感を放つ二人の大天狗が立ちはだかっていた。
クラマの館を防衛するかのように、巨大な妖気を滾らせて千鶴を威嚇している。
「あなたたちは……誰……!?」
千鶴は純銀の錫杖を構え、警戒を深めながら尋ねた。
「クラマは……クラマはどこにいるのっ!?」
御館の巨躯が動く。千鶴の姿を睨み据えたその瞬間、千鶴に宿る不気味な赤黒い瞳に気づいた。
「……目眩ましの上、忍び寄るとはな」
御館の眼光が殺意とともに鋭く細められる。
「あの異形の血を纏いし化け物の刺客か……っ!!」
「違いますっ!!」
千鶴が叫ぶ。
だが、クラマの不在で心の余裕を失っていた御館は、聞く耳を持たなかった。
手にした巨大な大扇子を容赦なく振り下ろす!
ヒュバッ――!!
「――っ!?」
切り裂く真空の鎌風が奔流となって走り、千鶴の肩口を容赦なく深く切り裂いた。
「……くっ!」
鮮血が舞い、千鶴の衣を濡らす。
それでも千鶴は一歩も引かず、攻撃の構えすら取らなかった。
「お願い……クラマに……会わせてください……っ」
千鶴は絞り出すような声で哀願すると、御館の前へとゆっくり歩み寄り――そのまま地へ深く膝をつき、額を石畳へ擦り付けた。
「お願いします……っ!」
「何が見え透いたお芝居を……!」
御館の怒号が響く。
「そういえば……あの化け物どもは、多少斬りつけた程度では死にはせんのだったな」
御館は巨大な鉄棍を引き抜き、重々しく構えた。
「ならば――木端微塵に砕いてやるわっ!!」
振り上げられる一腕。
――ブォォォォォッ!!
暴風が吹き荒れ、千鶴の頭上へ向けて凶悪な鉄棍が振り下ろされる。
だが――。
千鶴は目を閉じることも、避けることもしなかった。
ドッ……!
寸前のところで、凄まじい風圧とともに鉄棍が千鶴の頭上わずか数センチのところでピタリと停止した。
「……なぜ避けん」
御館が低く問い詰める。
千鶴は深く伏せたまま、震える声で静かに答えた。
「……言葉では届かなくとも……こうして命を差し出すことで、あなたに信じてほしいからです……」
「……っ」
御館が息を呑んだ、その時であった。
「アラタッ!?」
沙羅の叫び声が境内に響き渡る。
沙羅の腕をすり抜けたアラタが、小さな足を全力で動かし、千鶴に向かって一目散に走っていたのだ。
「アラタ、駄目よ! 離れなさいっ!!」
しかし――。
アラタは迷いなく千鶴の胸元へと飛び込み、その華奢な身体へ無邪気にぎゅっと抱きついた。
「……!」
御館が目を見開く。
「な……何だと……!?」
千鶴はそっと顔を上げ、自らの胸の中で小さく息づくアラタを見つめた。
「アラタ……?」
そして――。
「……ごめんなさい……っ」
張り詰めていた感情が決壊し、堪えていた大粒の涙が、千鶴の頬を滝のように伝い落ちた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……アラタ……っ!!」
千鶴は愛おしそうに、そして赦しを乞うようにアラタの小さな身体をぎゅっと抱きしめた。
無垢な幼子が見せたその絶対的な信頼と、少女の偽りのない悲痛な哭泣。それを見た御館は、己の過ちにようやく思い至った。
「……すまぬ」
御館は静かに鉄棍を収め、頭を掻いた。
「どうやら……わしらの勘違いだったようだな」
その瞬間――。
――ドゴッ!!
「痛ぁっ!?」
凄まじい衝撃音が響き、御館が頭を押さえて悶絶した。
沙羅が拳を激しく振り下ろしたのだ。
「本当にあなたという人は……ッ!!」
沙羅が角を生やしたかのような鬼の形相で御館を睨みつける。
「相手の事情も聞かず、後先考えずに命を奪おうとするなんて!」
「痛たた……お、お前だって最初は止める素振りを見せなんだろうがっ!?」
「はぁ~……?」
沙羅が極上の、しかし目が一切笑っていない微笑みを浮かべて御館を威圧する。
「……あ、いや……」
冷や汗を滝のように流した御館は、即座に姿勢を正した。
「わしが悪かった。全面的に申し訳ございませんでした」
「千鶴さまぁぁぁぁっ!!」
その重苦しくも間抜けな静寂を切り裂き、山道の下から叫び声が響き渡った。
「……む?」
全員が振り返る。
肩で猛烈な息を吐きながら、血相を変えた優哉がようやく山頂へと滑り込んできた。
「はぁ……はぁ……追いつき……っ!?」
そして、目の前に立ち聳える威圧感満載の二大天狗の姿を視界に収めた瞬間――。
「うわぁぁっ!?」
驚愕のあまり派手に足をもつれさせ、崖下へ転がり落ちかけそうになる。
「お、おい! 危ないぞっ!!」
御館が慌てて手を伸ばし、襟首を掴んで強引に引っ張り上げた。優哉は何とか命拾いをして胸を押さえる。
「……そやつの仲間か?」
御館が首をかしげ、千鶴に尋ねた。
「はい……」
千鶴は涙を拭い、頷いた。
「彼は……私の仲間の優哉です」
「ほう……」
御館は優哉を見つめた。
「では、改めて聞くが……お前たちの名は何というのだ?」
「私は……八神千鶴と申します」
「……ちづる……?」
御館の目玉が飛び出んばかりに見開かれた。
「お、お前が……あのクラマが口を開けば自慢しておった、あの『千鶴』なのかっ!?」
「え……?」
千鶴がポカンと目を丸くする。
「そうか……そういうことだったのか……」
御館はドッと冷や汗を吹き出させ、胸を押さえて大きく息を吐き捨てた。
その隣で、沙羅が頭を抱えて深く深呼吸をする。
「もし……この千鶴さんに万が一のことがあったら……」
沙羅は地獄の底から引きずり出すような声で、御館をチラリと睨みつけた。
「クラマ様に殺されるところでしたわね?」
「…………」
御館の顔面がみるみるうちに土色へと変わっていく。
「……さ、さすがにそれは……シャレにならんぞ……」
――ゴツンッ!!
「痛ぁぁぁっ!?」
本日二度目の激痛が御館の頭頂部を襲った。
「本当に……あなたって人はぁぁっ!!」
「す、すまん! 勘弁してくれ沙羅ぁぁっ!!」
静まり返っていた鞍馬山の山頂に、大天狗・御館の情けない悲鳴が空しく響き渡るのだった。




