第57話 潰えぬ怒号、散り逝く尾獣と漆黒の楔
「こわい……こわいわぁ」
カミーラは、まるで心底怯えているかのような大袈裟な芝居で身を震わせ、口元を嘲笑に歪めた。
「でもね……そんなに威勢が良くて大丈夫かしら?」
カミーラの冷酷な視線が、クラマの足元へと落とされる。
「その震える足が……すでに答えを出しているみたいけれど?」
「……っ!」
クラマは奥歯が噛み砕けんばかりに歯を食いしばる。
しかし、限界を疾うに迎えたその肉体は、魂の叫びに反して無情にも言うことを聞かなかった。
「くっ……ぁ……っ!」
激しい眩暈とともに、クラマの膝が力なく重い音を立てて冷たい石畳へついた。
『黒狐……っ!』
クラマが心の中で叫ぶ。
その意に応じ、どろりとした黒い妖気が集束し、クラマの華奢な身体を漆黒の壮麗な鎧で包み込もうとする。
だが――。
その鎧は形を留めることすら叶わず、泥のように儚く崩れ落ちて消えた。
『クラマ、そのボロボロの状態じゃもう無理だよ……!』
黒狐の切迫した声が脳裏に響く。
『そんな体じゃ、ろくに力も練り上げられないよ!』
雷狐もまた、泣き出しそうな声でクラマの暴走を止めようと叫んだ。
「……黙れ……っ!」
クラマは震える腿に全身の威信を込め、強引に力を叩き込む。
そして――長く鋭い爪をシャキリと伸ばした。
「わらわは……まだ敗けてなどおらぬ……っ!」
揺れる視界の中、ふらつきながらもクラマは再び立ち上がった。
一歩。
また一歩。
地を踏みしめ、クラマは死神のように佇むカミーラへ向けてじりじりと肉薄していく。
カミーラは逃げようともせず、ただ愉悦に溢れた笑みを浮かべ、あざ笑うようにクラマの惨めな足取りを見つめていた。
「……何が可笑しいんじゃあぁぁっ!!」
クラマの怒号が轟く。
「うおおおおおっ!!」
全霊を絞り出し、渾身の爪をカミーラへ向けて振り下ろした!
――バキィッ!!
重厚な打撃音が響き渡る。
しかし、吹き飛ばされたのはカミーラではなく――クラマの身体であった。
壁へと激しく叩きつけられ、粉塵が舞い散る。
「あれ?」
粉煙の向こうから、聞き覚えのある不快で下品な声が響いた。
「クラマ、久しぶりじゃないか」
クラマが苦痛に顔を歪めながら頭を上げる。
そこに立ち塞がっていたのは――異形の妖魔・野槌であった。
「あの時と違って……随分と弱そうじゃないか!」
「お前……っ」
クラマは荒い息を吐き出しながら、血走った眼で睨みつける。
「……あの時の……ガキか……っ」
「あははははっ!!」
野槌が狂気を含んだ大笑いを上げる。
「そうだよっ!!」
グニャリと歪んだ触手のような巨腕が、空高く振り上げられた。
「さあ――あの時みたいに、偉そうに反撃してみなよぁ!!」
容赦なく繰り出される巨腕の連続叩きつけ。
クラマは必死にかわそうとするが、鉛のように重い足は追いつかない。
「ぐっ……ぁっ!」
壁際へと無残に追い詰められていく。
「あははははっ! どうしたんだよ!? 九尾の王なんだろっ!?」
その圧倒的な暴力の渦中――クラマの右手だけに、奇跡的に黒狐の鎧が再顕現した。
「……っ!」
漆黒の妖気が、爪の先へと苛烈に凝縮していく。
「なっ――!?」
――ザシュッ!!
空を断ち切る鋭利な旋風。
放たれた乾坤一擲の爪撃が、野槌の巨大な触手を一閃の下に切断した!
「ぎゃああああああっ!?」
噴き出す体液とともに惨叫を上げたのは野槌であった。
野槌は信じられないといった驚愕と激怒の表情でクラマを激しく見据える。
「き、さまぁぁ……っ!」
怒りに狂い、残った触手を再び怒涛のごとく構える。
「ぶち殺してやるっ!!」
「やめなさい」
カミーラが氷のように冷ややかな声で制した。
「なんでだよっ!?」
野槌が苛立ちを露わにして叫ぶ。
「こいつを……こいつを殺させてくれよ!!」
「あなたが、この化け物に恨みがあると言うからわざわざ呼んであげたのよ」
カミーラの声の温度が、極限まで下がる。
「けれど……私の静止を聞けないというのなら――」
その顔から笑みが一切消え去った。
「あなたを殺すわよ?」
「……っ!!」
野槌は息を呑み、絶句した。
「……分かったよ」
野槌は狂乱の瞳でクラマを睨みつけると、吐き捨てるように言い放った。
「じゃあね、クラマ! 」
そう残し、野槌は暗闇の奥深くへと逃げるように消え去っていった。
クラマは再びカミーラへと向き直り、鋭い爪を構える。
だが――。
右腕を覆っていた最後の黒狐の鎧が、限界を越えてサラサラと砂のように崩れ落ちていった。
「……っ!?」
過酷な疲弊に、クラマの身体が大きく揺らぐ。
カミーラはその弱り切った姿を愛おしそうに見つめ、薄く微笑んだ。
「ふふふ……」
そして、静かに背後の皇綺羅へと振り返る。
「そろそろ……すべての仕上げに入りましょうか」
「ああ」
綺羅は冷淡に頷いた。
「正尚!」
その名を綺羅が呼んだ、まさにその瞬間――。
クラマの背後の暗闇から、複数の威圧的な人影が滑り出してきた。
「……っ!?」
クラマが跳ね起きるように振り返る。
そこに立っていたのは――楠家の当主、楠正尚。
その手には、禍々しい漆黒の光沢を放つ不吉な黒刀が握られていた。
そして彼の背後には、異様な妖気を発する九つの黒玉を携えた配下たちが静かに佇んでいた。
「何をするつもりじゃ……っ!?」
クラマは牙を剥き、全身の警戒を高める。
だが――すべては遅すぎた。
正尚が無言のまま、手に持った黒刀を力任せに振り下ろした。
――ズバッ!!
「――っ!?」
クラマの背後にたなびく誇り高き八本の尾が、激しく揺らぎ、悲鳴を上げた。
「ぐぁぁぁぁぁぁっ!!」
クラマの裂けんばかりの絶叫が響き渡る。
すると――八本の尾から、それぞれ異なる属性を秘めた強大な妖気が暴風となって噴き出した。
そして溢れ出た八つの光は、意志を持つ八体の尾獣たちへと姿を変えて離脱していく。
『クラマ……っ!』
『助けて……クラマ……!』
引き裂かれた尾獣たちは、苦悶と絶望に満ちた眼差しでクラマを見つめる。
「やめろ……っ! やめてくれぇっ!」
クラマは千切れそうな心で、必死に彼らへ向けて手を伸ばした。
「お前たちに……手を出すなアアッ!!」
しかしクラマの叫びも虚しく、八体の尾獣たちは吸い寄せられるように、配下たちが持つ禍々しい玉の中へと次々と封印されていく。
「やめろおおおおおっ!!」
最後の尾獣が玉の中へと消え去った。
八つの秘玉は凶威の光を宿し、空高く舞い上がって各地に散っていった。
「お前たち……お前たちぃ……っ!」
クラマの絶望の慟哭だけが、無情にも広間に虚しくこだまする。
そして楠正尚は、無感情な瞳で黒刀をクラマの目の前の石畳へと突き立てた。
――ズンッ!!
大地が重く震動する。
黒刀の突き立てられた亀裂を中心に、地獄の 底から伸びる無数の黒い腕が爆発的に噴き出してきた。
「な……っ!?」
黒い腕が一斉にクラマの華奢な身体へと群がり、強固に縛り上げていく。
「離せ……っ! 離さぬかぁぁっ!!」
必死にもがき、牙を剥くクラマ。
しかし、尾獣を奪われ精根尽き果てた今のクラマには、その怨念の鎖を振り払う力など何一つ残されていなかった。
「おまえら……! 覚えておけよ……っ!」
黒い腕が波のように押し寄せ、クラマの身体を完全に覆い尽くしていく。
「すまぬ……千鶴……っ!!」
最後に愛しい友の名を切なく叫んだ瞬間――。
クラマの姿は、濃密な暗黒の渦の中へと完全に消え去った。
そして――。
コロン……。
無数の黒い腕が消えた後には、静寂とともに小さな一つの黒い石が、虚しく石畳の上を転がった。
カミーラがしなやかな手つきでそれを拾い上げる。
「……これで、邪魔者はすべて終わりね」
カミーラは妖しい笑みを浮かべ、その黒い石を楠正尚の手へと手渡した。
「完全に封印しなさい」
「なにを偉そうに……帝様の命だから従ってることを忘れるなよ」
正尚は吐きすてるようにつぶやき、黒い石を乱暴に懐へと収めた。
その一連の動向を確認した皇綺羅は、心底満足そうに邪悪な笑みを深めた。
「これで……もはや我らに立ち向かい、企てを阻む者はこの世に誰一人として存在しない」
綺羅は優雅に優奢な衣を翻し、踵を返す。
「行くぞ」
彼らが向かう先は――絶対の権力の中枢、帝の館。
もはや惨劇の残る京の都には、皇綺羅の暗黒の野望を止める術を持つ者は、誰一人として残されてはいなかった。




