第56話 罠の都、絶望の影と九尾の怒号
その頃――。
御館と沙羅が密かに調査を進めていた異国の巨大船では、激しい死闘がようやく終わりを告げようとしていた。
「ふぅー……吐き気がするほど、手を焼かせてくれたなぁ」
御館は巨大な刀を鞘へと納め、大きく荒い息を吐き出した。
異国船の豪奢な大広間には、先ほどまで牙を剥いて襲いかかってきた異形たちの惨憺たる残骸が、血煙とともに一面に散乱していた。
「さっそく、この船内をくまなく調査しましょう」
沙羅は凛とした声をかけると、御館と手分けして船の奥深くへと足を踏み入れた。
見たこともない異国の家具。
この国の様式には存在しない異様な道具の数々。
そして、羊皮紙や木箱に刻まれた意味深な異国の文字。
しかし――。
「……これだけ、ね」
沙羅は細い眉を深くひそめた。
都を脅かす大きな陰謀の手掛かりとなるようなものは、どれだけ探しても何一つ見当たらない。
「……嵌められたのよ、私たち」
沙羅が苦々しく呟く。
「まさか……」
御館の表情が一変した。
「我らを都から遠く引き離すために……意図的に仕組まれたおとりだとでも言うのか!?」
「……っ!」
沙羅も息を呑む。あまりにも最悪な思惑が頭をよぎる。
「アラタとクラマ様が危ないわ!!」
二人は同時に叫ぶと、弾かれたように異国船を飛び出した。
一刻の猶予もない。向かう先は――鞍馬山!
その頃、鞍馬山では――。
「ふふ……」
クラマは、幾重もの寝かしつけの苦労の末、ようやくすやすやと寝息を立て始めた幼子・アラタの寝顔を優しく覗き込んでいた。
「わらわも……やればできるのではないか」
自画自賛するように満足げに胸を張るクラマ。
しかし――次の瞬間。
ドクンッ……!
遠く離れた京の都の方角から、空気を絶望で塗り替えるような異様で禍々しい妖気の狂瀾が一気に噴き上がった。
「……なんじゃ……!?」
クラマの表情が緊張に強張る。
天狗の鋭い聴覚で耳を澄ませ、全神経を集中させる。
そして――。
「……千鶴の気配が……?」
クラマは京の方角の夜空をじっと見つめた。
「そういえば……千鶴の気配がまったく感じられんぞ……なぜじゃ……!?」
胸を刺すような嫌な予感が、激しく渦を巻く。
「クラマ様」
背後に静かに控えていた烏天狗が、決意を込めて口を開いた。
「千鶴様の身に、尋常ならざる事態が起きております。どうか都へとお向かいください」
「しかし……アラタを守らねばならぬ」
クラマは不安そうにアラタの寝顔へ視線を落とした。
「我らをあまり馬鹿にしないでいただきたい」
烏天狗は頼もしく笑ってみせた。
「我ら鞍馬の天狗衆も、伊達に時を重ねてはおりませぬ。クラマ様のご威光には到底及びませぬが……アラタ様をお守りするくらいの意地は見せてみせます」
「…………」
クラマは言葉を失い、しばらく沈黙した。
そして、深くゆっくりと頷く。
「……すまぬ」
クラマは愛おしそうにアラタを一瞥した。
「アラタを頼んだぞ」
「はっ。お任せくだされ!」
「……千鶴」
クラマは鋭い眼光で京の方角を見据える。
「……待っておれよ」
次の瞬間――。
鞍馬山の山肌を風となって駆け下り、クラマは一筋の光となって京の都へ突進していった。
京の都。
「……なんじゃ、これは……?」
都の入口に降り立ったクラマは、あまりの異変に足を止めた。
いつもならば夜であっても微かに聞こえるはずの人々の営みの声や息遣いが、一切途絶えている。気配すら存在しない。
「妙じゃ……気味が悪すぎる……」
死に絶えたように静まり返る大通りを見渡す。
そして――。
「……っ!?」
クラマの鼻腔が微かに動いた。
懐かしい匂い。幾度となくともに戦い、ともに過ごした、忘れるはずもない愛しい気配。
だが――。
「……血の……匂い……!?」
クラマの顔から血の気が引く。
「千鶴……っ!?」
その匂いの残香を辿り、クラマは狂ったように走り出した。
やがて辿り着いた、崩壊した屋敷の大広間。
「――っ!!」
そこには、凄惨なまでに大量の血に染まった千鶴の羽織が、破れ果てて無残に落ちていた。
「千鶴……っ!?」
クラマは駆け寄り、その服を抱きしめる。
「千鶴はどこじゃあぁぁっ!!」
必死に周囲の暗がりを見回す。
「千鶴! 返事をせよ! どこにおるのじゃっ!!」
その瞬間であった。
地面の影から、ドロリとした無数の漆黒の腕が這い出してきた。
「なっ――!?」
黒い手が蛇のごとくクラマの四肢へと絡みつき、その動きを容赦なく封じていく。
「なんじゃ……この胸がむかつくほど禍々しい力は……っ!?」
「やはり……」
暗闇の奥深くから、冷徹で優雅な声が響き渡った。
「頭が悪いですね、化け物というのは」
闇を押し開くようにして、皇綺羅が悠然と姿を現す。
「このような仕掛けとすぐ解る単純な罠に、まんまと引っかかるとは」
「お前は……誰じゃっ!?」
クラマは牙を剥き出しにして睨みつける。
「……フッ、記憶力まで欠如しているのですか?」
綺羅は心底呆れたように冷笑を浮かべた。
「まあ、よいでしょう」
その隣に、血のごとき妖艶さを纏ったカミーラが佇む。
「どうせもうすぐ……この世界から永遠に消えてなくなる存在なのですからね」
「千鶴は……っ!?」
クラマの声が激しい怒りと震えに揺れる。
「千鶴はどこにおるのだっ!!」
「その血塗られた惨めな衣を見れば、自ずと理解できるでしょう?」
綺羅が淡々と冷酷に告げる。
カミーラが愉悦に浸りながら、クスクスと笑いを漏らした。
「私たちの意に従わない聞き分けの悪い子だったから……殺しちゃったわ」
「…………」
クラマの瑠璃色の瞳が、極限まで見開かれる。
「き……さ……ま……ら……っ!!」
次の瞬間――!
「――轟雷っ────!!」
漆黒の夜空から、絶大な太さの稲妻が直下した!
耳を裂く激しい破砕音とともに、爆風と濃密な黒煙が大広間を包み込む。
「……あの千鶴が」
煙の奥から、低く地獄の底から響くようなクラマの声が漏れた。
「……あの千鶴が、そう簡単に敗れるはずがなかろうがっ!!」
全身を縛り上げる暗黒の腕に、全霊の威信を込めて力を炸裂させる。
しかし――黒い手はびくともしない。
「こんな呪詛の鎖……っ!!」
クラマはさらに凄まじい神気を込める。
だが、黒い腕はより強固に食い込み、身体を締め上げていく。
「……封狐っ!!」
クラマは叫んだ。
「出てこい! 力を貸せっ!!」
――応答はない。静寂だけが虚しく響く。
「……しまった……っ」
クラマの表情が絶望に陰る。
「千鶴に預けたまま……回収しておらなかったか……っ!」
その時であった。
「ふふ……」
黒煙の向こう側から、あざ笑うような女の声が聞こえた。
「さすがね……九尾の王と呼ばれるだけのことはあるわ……」
煙の中から、カミーラが姿を現した。
その身体には雷撃の痛々しい痕が残り、切り落とされた右腕も完全には再生しきっていない。
「私のこの右腕の再生をここまで遅らせるなんて……大したものだわ」
「……なんじゃと……!?」
クラマの表情が険しく強張る。
綺羅はゆっくりと足音を忍ばせ、クラマの目の前へと歩み寄った。
「そろそろ……仕上げに入りましょうか」
その美貌に浮かぶのは、醜く歪んだ笑み。
「お前には、死ぬことも許されず、永遠の刻を孤独の中に彷徨う封印を施してやります」
「……っ!」
「死を乞い願う方が遥かに幸福だと、泣いて身悶えするほどの手厚い封印をね」
「ええ……楽しみだわ」
カミーラも同調して妖しく微笑む。
次の瞬間――クラマを縛り上げていた黒い腕が、地獄の蓋が開いたかのように次々と爆発的に増殖した。
頭部、胴体、翼、四肢――クラマの全身を覆い尽くすように漆黒の手が絡みつき、その黄金の輝きを塗り潰していく。
「喜ぶがいい」
綺羅は勝ち誇ったように両手を高く広げた。
「お前のような醜い化け物を完全に封印するためだけに――この京の都に生きる数万の人間ども、そのすべての命を生贄として捧げたのだからなっ!!」
「……っ!?」
その言葉が落ちた、まさにその一瞬。
「――轟雷っ!!」
空を裂き、世界を揺るがす絶対の稲妻が天から落とされた!
凄まじい爆音。
視界を焼き尽くす閃光。
クラマを締め上げていた無数の黒い手が、神威の雷光に打たれて次々と爆ぜ、かき消されていく。
そして――。
黒煙と焦土の渦の中から、一人の八尾の少女が力強く立ち上がった。
身体は煤に汚れ、誇り高き装束もズタズタに引き裂かれている。
それでも――。
その瑠璃色の瞳には、決して消えることのない苛烈な怒りの炎が宿っていた。
「……千鶴を」
クラマはゆっくりと、地獄の鬼神のごとき面持ちで顔を上げた。
「千鶴を傷つけたのは……おぬしらかっ!!」
綺羅とカミーラを、喰らい尽くさんばかりの眼光で射抜く。
その瑠璃色の瞳の奥深くに、世界を灰燼に帰すほどの絶大な妖気が集束していく。
「きさまら……」
クラマは拳を血が滲むほど固く握り締めた。
「……ただで死ねるなどと、思うなよ……っ!!」
鞍馬の大天狗が解き放った圧倒的な殺気が、京の空間そのものを激しく震わせた。




