第55話 崩落する絶対、そして深淵の傀儡
「あなた……何しに来たの……!?」
千鶴は溢れ出る血を拭いもせず、目の前に立つ皇綺羅を射殺さんばかりの鋭い眼差しで睨みつけた。
対する綺羅は、冷ややかな唇を不敵に吊り上げる。
「あなたを討伐しに、わざわざ足を運んだのですよ」
「……なんですって?」
「ご存じなかったのですか?」
綺羅はまるで可笑しな戯言を聞いたかのように、楽しげに喉を鳴らした。
「京の都では……すでに帝より、八神千鶴――あなたに対する討伐の勅命が発せられているのですよ。邪悪な妖魔と結託し、朝廷に対して反逆を企てている――その重罪の容疑でね」
「そんな……っ!」
千鶴の美しい顔から、血の気が引いていく。
「帝様が……そのような理不尽な命令をお出しになるはずがないわ!」
「帝様……?」
綺羅は鼻で嘲笑した。
「ああ……あの飾り物の無能な男のことですか?」
その言葉が落ちると同時に、綺羅の背後の暗闇から、引きずられるようにして一人の男が姿を現した。
「――み、帝……様……!?」
千鶴は思わず言葉を失い、呼吸を止めた。
そこに佇んでいたのは、京の頂点に君臨するはずの帝その人であった。
しかし、その威厳ある姿は影を潜め、両の眼球には正気を失った不気味な赤黒い魔光がドロリと濁っていた。
「殺せ……ケタケタ……」
帝は歪んだ笑みを浮かべ、ガタガタと震える指先で千鶴を指差した。不快な声が漏れ出る。
「こいつはもう……余の用無しだ……殺せ、殺せぇ……」
「……分かったわ」
カミーラが艶やかに微笑んだ。
そして、無造作に帝の頭部へと手指を置く。
次の瞬間――グシャッ!!
鈍く凄惨な破壊音が響き渡ると同時に、帝の身体から完全に生気が失われ、泥人形のようにその場へ膝から崩れ落ちた。
「……酷い……っ」
千鶴は凄惨な光景に思わず目を背けた。
惨状を見下ろしながら、綺羅は事もなげに冷笑を浮かべる。
「このような意思を持たぬ無能な男より、私が王となりこの国を統治した方が、遥かに有益だと思いませんか?」
「その通りですわ、綺羅殿」
カミーラも愉悦に肩を揺らし、深く頷いた。
「この綺羅殿が王となり、真に力ある選ばれた者だけを選別して世界を統治する。生き残るに値しない愚民どもはすべて奴隷とし……そして、醜く忌々しい妖魔どもも、この世から一匹残らず根絶やしにするのよ」
「……あなたたち……っ」
千鶴の声が、激しい怒りと震えで途切れる。
「神とまで崇められる大妖たちが、この世で何を担っているのか……その意味を知っていて言っているの!?」
「…………」
「風を起こし、恵みの雨を降らせ、大地を豊かに育む……! 人間が生きていくために不可欠な恵みを、彼らは与え続けてくれているのよ! そんな尊い存在たちまで……奪い、殺すつもりなの!?」
「殺す必要などない」
綺羅は薄く笑った。
「奴隷として繋ぎ止め、思うがままにその力を酷使すればいい。この力さえあれば……な」
カミーラが楽しそうに忍び笑いを漏らす。
「そうだ、千鶴」
綺羅は倒れ伏しそうな千鶴へ、品定めするような視線を向けた。
「お前ほどの強大な力をここで潰してしまうのは、実にもったいない。……どうだ? 私の創り出す理想の新世界の片腕として、協力する気はないか? 永遠の若さと強大な力が欲しくないか?」
「……ふざけないでっ!」
千鶴は毅然として言い放った。
「そんなの興味ないわ。限りある命だからこそ、一瞬一瞬がまぶしいほど輝けるの……永遠の命など、ただの苦痛でしかないわ!」
千鶴は全身の気迫で睨み返した。
しかし、先ほどの極限の死闘で限界を遥かに超えて妖力を絞り出した身体は、すでに悲鳴を上げ、まともに言うことを聞かない。
視界が大きく歪み、世界が旋回する。
「っ……!」
それでも千鶴は歯を喰いしばり、膝の震えを必死に抑えて踏みとどまった。
「私は……何があろうとあなたを倒す……!」
「おやおや」
綺羅は心底可笑しそうに笑った。
「そのような強い口調で脅されては、こちらもついつい手指に力が入ってしまいそうですね……」
綺羅は優雅に振り返り、背後の暗闇へ視線を投げる。
「――そう思いませんか……カイン?」
「――っ!?」
千鶴が跳ね起きるように振り返る。
そこには、異形の刺客・カインが冷酷に佇んでいた。
そしてその手中には――首元へ深く凶悪な爪を喰い込ませ、血を流す風磨の姿があった。
「姉……上……」
風磨は絞り出すような掠れた声で、途切れ途切れに呟いた。
「すみ……ません……っ」
「風磨っ!!」
千鶴の顔から一切の血の気が失せ、蒼白に染まる。
「あなたたちの目的は私なのでしょう……!?」
千鶴は狂おしいほどの叫びを綺羅へぶつけた。
「頼むから……風磨を離してっ!!」
「あなたが私たちの意に従い、大人しく投降してくれるというのなら――」
カミーラが血のように赤い唇を妖しく歪める。
「助けてあげることを考えてあげてもいいわよね? 綺羅殿」
「そうですね」
綺羅は頷いた。
「では……まずはその生意気な力を解除してもらおうか」
『ダメだよ、千鶴っ!』
千鶴の肩で、封狐が必死に叫んだ。
『あいつらが風磨を無事に逃がすわけがない! 騙されちゃダメだ!!』
しかし――。
「……ごめんね、封狐」
千鶴は静かに瑠璃色の目を閉じた。
「それでも……私は、弟を見捨てることなんて……絶対にできないわ」
千鶴の全身を包んでいた神聖なる白銀の神威が、潮が引くように消え去っていく。
眩い銀髪は寂しげな黒髪へと戻り、瑠璃色に輝いていた瞳からも光が失われ、深い黒へと沈んでいった。
千鶴の身体から解離した封狐が、力なく地面へと降り立つ。
『千鶴……っ!』
まさに、その瞬間であった。
「捕まえたわ」
カミーラが冷酷に手をかざす。
地面からドロリとした無数の黒い手が伸び、無防備となった封狐の身体を激しく絡め取った!
『離せ……っ!』
封狐が必死にもがき、神気を振り絞る。
『離せよ……っ!』
しかし、暗黒の怨念が編み上げた黒い腕は、ビクともしない。
「ふふ……」
カミーラは嘲笑を浮かべた。
「単体となっては、この封印を破るほどの力など……もはや残っていないようね」
『くっ……!』
封狐の抵抗の光が、徐々に弱まり、やがてかき消されていく。
「封狐っ!」
千鶴が叫んだ、その刹那――今度は無数の黒い腕が千鶴の足元から一気に噴き出した。
「しまっ――」
全身をくまなく縛り上げられ、千鶴は完全に身動きを封じられた。
「ぐっ……ぁぁっ!」
強い衝撃と締め付けに耐えかね、千鶴はその場にドサリと膝をついた。
「約束通り……風磨は……逃がして……っ」
千鶴は苦しげに息を吐きながら哀願した。
だが――。
「こいつはもう、用済みだ」
綺羅が氷のように冷たく言い放つ。
「カイン。終わらせろ」
「――っ!?」
カインの残虐な爪が動く。
「やめてぇぇぇっ!!」
千鶴の悲痛な叫びも虚しく、冷酷な金属音が響いた。
バキッ――!!
無慈悲な音が街に空しくこだまし、風磨の身体から完全に力が抜け、人形のように地面へと崩れ落ちた。
「風磨……? ねぇ……風磨……っ!?」
千鶴の瞳が絶望に大きく見開かれる。
「貴様らぁぁぁっ!!」
怒りと悔恨に全身を激しく震わせる千鶴。
「約束が違うじゃない……っ!!」
「あら?」
カミーラはわざとらしく首を傾げてみせた。
「約束?」
そして、心底から可笑しそうにクスリと笑う。
「私は『考えてあげる』と言っただけで……助けるとは一言も言っていないわ?」
「……っ!!」
千鶴の顔が、底なしの絶望と暗黒に染まりきる。
「ふふふ……」
綺羅が愉悦の笑みを漏らす。
「さあ、千鶴」
綺羅はゆっくりと両腕を広げた。
「お前のその類稀なる肉体と力を……私の忠実な傀儡として使わせてもらおうか」
「……誰が……誰が……あんたなんかに……っ!」
「カミーラ」
「ええ」
カミーラが力尽きた千鶴の目の前へとしなやかに佇む。
「あなたのその強大な力……私たちが有効に使ってあげるわ」
「やめ――」
千鶴の抗いの声は、途中で無残に途切れた。
カミーラが千鶴の美しい首元へ鋭い牙を突き立て、その体内へ禍々しい血の呪毒を直接注ぎ込んだのだ。
「――っ!?」
千鶴は最後の抗いを試み、身体を捻る。
しかし、精根尽き果てた肉体では、侵食する邪悪な魔力に抗う術など残されていなかった。
千鶴の黒い瞳が、徐々にドロリとした不気味な赤黒い光へと塗り替えられていく。
「ぐっ……あ……あぁぁぁぁっ……!」
「そう……そのまま心を放ち、力を手放しなさい……」
カミーラが耳元で甘く死を囁く。
そして――。
千鶴の全身から完全に緊張が抜け、ぐったりと地面へ倒れ込んだ。
赤黒く染まりきった千鶴の瞳には、もはや理性も感情も、何も映し出されてはいなかった。
「目が覚めたら……私の元へ来なさい」
カミーラが絶対の命令を下す。
綺羅は物言わぬ人形と化した千鶴を見下ろし――
「ふふ……」
やがて、静寂を切り裂くような高笑いを天へと解き放った。
「ははははははははっ!!」
その凶威に満ちた高笑いは、死に絶えた東の街の隅々にまで不吉に響き渡っていく。
――八神千鶴の敗北。
――八神風磨の死。
そして、世界を絶望で塗り替える皇綺羅の野望が、ついに暗い産声を上げた。
惨劇の残る東の街には、ただただ不気味な高笑いだけが虚しく響き続けていた。




