第53話 生贄の結界と、白銀の神威
「期待してるわよ」
カミーラは血のように赤い唇を歪め、不敵に笑った。
次の瞬間――。
彼女の右腕の皮膚が裂け、禍々しい赤黒い濃血が激しく噴き出した。
空中に舞った血液は意思を持つかのように形を変え、見るも恐ろしい血の長剣へと変貌を遂げていく。
「心配しないで……すぐに終わらせてあげるから」
千鶴は純銀の錫杖を強く握り直し、鋭く地面を蹴った。
銀髪をなびかせ、カミーラとの間合いが一瞬で縮まる。
ガンッ! ガンッ! ガンッ!
純銀と魔血の剣が激しく交錯し、乾いた甲高い金属音が街中に空しく響き渡る。
千鶴は舞うように錫杖を振るい、怒涛の連続攻撃でカミーラへ斬り込んでいく。
しかし――。
「……そんなものかしら?」
カミーラは余裕の笑みを崩さぬまま、千鶴の鋭い連撃をことごとく受け流していた。
「くっ……!」
その一瞬の隙。
赤黒い魔剣が疾風のごとく閃いた。
ズブッ!
「――っ!」
刺すような激痛とともに、千鶴の右肩へ魔剣が深く突き刺さる。
「くぅぅ……っ!」
千鶴は苦悶に歯を食いしばり、血に染まる肩を押さえながら後ろへ跳んで間合いを取った。
「つまらないわね」
カミーラは冷淡に言い放つと、左手を千鶴へ向けて掲げた。
「そろそろ終わりにしましょうか」
シュッ、シュシュッ!
カミーラの体内から溢れ出た無数の血液が、硬質で鋭利な弾丸と化し、死の雨となって千鶴の全身へ襲いかかる。
「――!」
千鶴は死を覚悟し、思わず目を閉じた。
ガンッ!!
しかし、響いたのは肉を穿つ音ではなく、強固な何かが弾け飛ぶ甲高い音であった。
「……?」
千鶴が恐る恐る目を開ける。
目の前には、薄桃色に揺らめく光の幕が美しく広がっていた。
肩の上の封狐が小さな身体を宙に浮かせ、全身の神気を振り絞っている。
『守りは僕が引き受けるから!』
封狐が千鶴を振り返り、力強く叫ぶ。
『千鶴は攻撃だけに専念して!』
「……封狐!」
千鶴は力強く頷いた。
「分かったわ!」
傷の痛みを気迫で押し殺し、錫杖を握り直して再びカミーラへと果敢に駆け出す。
「ふふっ……!」
カミーラもまた、赤黒い魔剣を上段へと振り上げた。
「なら、これでどうかしら!?」
必殺の威力を秘めた魔剣が、千鶴の頭上へ向かって振り下ろされる。
だが、千鶴は足をとめなかった。避けもせず、真っ直ぐにカミーラへ向かって突進する。
ガンッ!!
千鶴の頭上で激しい衝撃音が響いた。
封狐が展開した光の結界が、カミーラの太刀筋を完璧に受け止めていたのだ。
『今だよっ!』
「ありがとうっ!!」
千鶴は深く踏み込み、全身の威信を込めて純銀の錫杖を横一閃に振り抜いた!
ザンッ!!
「……っ!?」
鋭い一撃がカミーラの肩口を深く切り裂き、切断されたその右腕が、血の飛沫とともに地面へと力なく落ちた。
「……!」
一瞬息を呑む千鶴。
だが――。
「……痛いわね」
カミーラは落ちた己の腕を見下ろしながら、なぜか満足そうに笑っていた。
「……何がおかしいの!?」
千鶴が警戒を強める。
すると――。
地面に転がっていた生臭い腕が、ぐにゃりと不気味に蠢き始めた。
噴き出した血液が激しい渦を巻き、肉塊がみるみるうちに人間の骨格へと変貌していく。
「なに……あれ……!?」
腕はやがて、刺客たる一人の人間の姿へと完全に変身した。
その一方で、カミーラの切断された肩口から膨大な血が吹き出すが、その血は瞬く間に形を成し――失われた腕が、何事もなかったかのように元通りに再生したのだ。
「……!」
千鶴の表情が凍りつく。
カミーラは再生した腕を愛おしそうに動かしながら、妖しく笑った。
「あなたは今日から――カインと名乗りなさい」
カミーラが、自身の腕から産み落とされた新たな異形へ告げる。
「それから……」
カミーラは冷ややかな視線を、遠くで戦闘音が響く風磨の方向へと向けた。
「お前は、あのガキを殺しに行きなさい」
「……御意」
カインと呼ばれた刺客は短く答えると、風磨のもとへ向かって弾風のごとく駆け去っていった。
「ふふふっ……」
カミーラは千鶴へと向き直り、妖しく微笑む。
「早くしないと、可愛いおとうとが殺されちゃうわよ?」
「……っ!?」
千鶴の瑠璃色の瞳が大きく見開かれた。
次の瞬間――。
ブンッ!
理性と冷静さを失った千鶴は、力任せに錫杖を振り回した。
『千鶴、落ち着いてっ!』
封狐が焦燥の声を上げる。
しかし、激しい動揺に囚われた千鶴の耳には何も届いていなかった。
「風磨が……っ!」
我を忘れて錫杖を振り下ろす。
「風磨が危険なのよっ!!」
「素晴らしい……!」
カミーラはあざ笑うように軽やかな身こなしで千鶴の乱暴な攻撃をかわしていく。
「強い……とても強いわ……!」
そして――。
焦りに身を任せた千鶴の一瞬の死角を、カミーラは見逃さなかった。
封狐が張り巡らせる光の幕の隙間から、赤黒い魔剣が蛇のように滑り込む。
「――っ!?」
ズバッ!!
「うっ……あぁぁっ!」
千鶴の胸元が斜めに深く切り裂かれた。
鮮血を撒き散らしながら後退し、千鶴はその場にどさりと膝をつく。
「千鶴っ!」
封狐が慌てて駆け寄る。
『まずは目の前のカミーラのことだけを考えて!』
「でも……っ!」
千鶴は痛みに顔を歪めながら、血の気を失った顔を上げた。
「もたもたしていたら……風磨が……風磨が殺されてしまうわ……っ!」
「……!」
封狐は言葉を失い、千鶴のあまりの痛切さに胸を痛めた。
カミーラは立ち尽くす二人を見下ろし、心底つまらなさそうに溜め息をついた。
「これがあなたの限界のようね……」
そう呟くと、カミーラはゆっくりと屈み、右手を冷たい石畳の地面についた。
「なんだか……飽きてきてしまったわ」
瞬間――。
ズズズズズ……ッ!
千鶴の膝元の地面から、ドロリとした禍々しい黒い影が泥のように湧き上がった。
「……え……?」
それは、地獄から伸びる無数の黒い手であった。
地面から生え出た幾百の黒い腕が、逃げ場のない千鶴の身体へ次々と絡みついていく。
「なに……これ……っ!?」
腕はさらに爆発的に増殖し、千鶴の腕、足、体を容赦なく締め上げ、その姿を漆黒の渦で覆い隠していく。
『苦しい……』
『助けて……』
『憎い……』
『あいつが憎い……!』
「……っ!」
千鶴の頭の中に、怨嗟と絶望に満ちた無数の怨霊の叫びが直接響き渡った。
だれのものかも判らぬ声。しかし、そこに込められた感情の生々しい重みだけが心に叩きつけられる。
理不尽な死への憎悪、怨嗟、苦痛。
「何よ……これ……っ!!」
千鶴の悲痛な声が震える。
瞬く間に無数の黒い腕が千鶴の全身を包み込み、その存在を完全に黒い塊の中へと呑み込んでしまった。
カミーラはそれを見届け、満足げに微笑んだ。
「ふふふっ……ありがたく思いなさい」
カミーラは冷徹な瞳で、死に絶えた街を見渡す。
「これはね……あなたと――あの忌々しい九尾の化け物を完全に封印するために、この街の住人すべてを生贄にして築き上げた結界なのよ」
千鶴の姿は、黒い腕がなす棺の奥深くへ完全に消え去っていた。
「さて……」
カミーラは遠く風磨のいる方向へと視線を巡らせる。
「あちらの生意気な雑魚は、そろそろ片付いたかしら?」
そう吐き捨て、千鶴だった黒い塊に背を向けた。
そのまま風磨のもとへ足を踏み出そうとした――まさにその時。
ドォンッ!!
「……?」
カミーラは不意に足を止めた。
「なにごと……?」
彼女が振り返った、その一瞬――!
ドゴォォォォンッ!!
「――ぐはっ!?」
途方もない衝撃波を伴う超打撃が、カミーラの美しい顔面を正面から直撃した!
カミーラの華奢な身体が弾丸のごとく吹き飛び、背後の重厚な石壁へと激しく叩きつけられる。
ドォォォンッ!!
石壁が激しく粉砕し、もうもうとした砂埃が宙へ舞い上がった。
「…………」
瓦礫の中で、カミーラは動かない。
やがて冷たい風が吹き抜け、舞い上がった砂埃をゆっくりと浚っていく。
その砂煙の向こうに――。
一人の少女が、神々しく佇んでいた。
流れるような白銀の髪。
澄み渡る深い瑠璃色の瞳。
そして、その頭上には――神聖なる白銀の狐耳。
腰の後ろには、ふんわりと光を纏う一本の白銀の尾。
千鶴と封狐の魂が一つに溶け合い、顕現した奇跡の真姿。
先ほどまで千鶴を縛り上げていた忌まわしい黒い手は、神威の光によって跡形もなく消滅していた。
千鶴は手にした純銀の錫杖を握り直し、瓦礫の中のカミーラを冷徹に見据える。
「……立ちなさい」
その声には、先ほどまでの乱れや焦燥は微塵もなかった。
ただ、すべてを統べる高潔で強い意思だけが宿っている。
「勝負は――ここからよ」
瓦礫を押しのけ、カミーラがゆっくりと立ち上がった。
口元から溢れ出た赤い血を、細い指先で乱暴に拭う。
そして、己の指についた血を見つめながら――。
「……ふふ」
狂気と歓喜の混ざり合った、不気味な笑みを浮かべたのだった。




