第52話 死霊の座礁船と、瑠璃色の覚醒
その頃――。
東の荒々しい海岸線では、天狗の長たる御館と妻の沙羅が、数名の烏天狗たちを引き連れ、消息を絶った諜報部隊の捜索に当たっていた。
荒涼とした岩場に、白い泡を噛む荒波が怒号のように打ち寄せている。
「ここが……諜報部隊の消息がぷっつりと途絶えた場所か……」
御館は周囲の不穏な気配を察知しながら、低く呟いた。
「……あなた、あれを見て」
沙羅が険しい視線で、海岸の先を指差す。
「ん……?」
そこには、砂浜に深々と乗り上げるようにして、一隻の巨大な異国の船が座礁していた。
日本の建造物とは明らかに異なる様式を持った、外国の大型旅客船であった。
船体は長い年月を経たかのように哀れに朽ち果て、割れた窓ガラスからは黒々とした闇が覗き、鉄の装甲は赤錆に覆い尽くされている。
「なんだ……あの船は?」
「このあたりに、そのような異国の船が漂着したという報せなど一度も耳にしておりませんわ」
沙羅は美しい眉をひそめ、鉄棍を強く握りしめた。
「……とにかく、中を調べてみましょう」
御館たちは警戒を強めながら静かに船体へ近づき、破られた乗降口からその暗がりの中へと足を踏み入れた。
船内には、異様な異国情緒と爛漫な頽廃が広がっていた。
天井からは崩れ落ちかけた豪華絢爛な水晶のシャンデリアが垂れ下がり、見たこともない意匠のテーブルや豪奢な家具が足の踏み場もないほどに散乱している。
「惨いな……」
御館は眉をひそめつつ、烏天狗たちを従えて暗い廊下の奥へと進んでいった。
やがて――。
「……っ!」
御館の足がピタリと止まった。
廊下の床一面に、水分をことごとく吸い尽くされたような、干からびたミイラ状の屍が足の踏み場もないほど無数に転がっていたのだ。
「これは……」
沙羅も思わず息を呑む。
そして、その凄惨な死屍累々の奥――暗がりが深く溜まる船内の最奥に、一人の男の人影が静かに佇んでいた。
「……誰かいるのか?」
御館が声をかける。
しかし、人影はピクリとも動かない。御館は羽根扇子を構えながら、ゆっくりと慎重に間合いを詰めていった。
「……お前は……っ!?」
見覚えのある顔であった。消息を絶った我が諜報部隊の烏天狗の一人。
「無事だったのか……!?」
御館が安堵の声をかけた、その瞬間――。
烏天狗が、軋むような音を立ててゆっくりと振り返った。
「……っ!!」
その開かれた瞳は澄んだ光を失い、ドロリとした赤黒い不気味な魔光を宿していた。
「お館……様……」
烏天狗の口から、掠れた低い声が漏れ出る。
次の瞬間――。
「グアアアアアアッ────!!」
凄まじい叫びとともに、狂った烏天狗が御館へと猛然と襲いかかってきた。
「なっ……!?」
御館は咄嗟に手にした巨大な羽根扇子を薙ぎ払うように振り抜いた。
ゴオオオオッ────!!
凄まじい神風が渦を巻き、真空の刃となって襲いかかる烏天狗の肉体を容赦なく切り裂く。
「ぐっ……あっ!」
肉が裂け、傷口から黒い血が飛散する。
しかし――。
烏天狗は倒れなかった。
「なに……っ!?」
骨が見えるほどの致命傷を負いながらも、狂った烏天狗は痛みすら感じぬ様子でなおも御館の喉元へと掴みかかってくる。
そして、異常に裂けた口から鋭い狂歯を覗かせ、御館の肉へ噛みつこうと迫る。
「あなたっ!!」
沙羅が叫んだ。
次の瞬間――。
ズシャァァァンッ!!
重厚な純鉄の鉄棍が疾風のごとく閃き、狂った烏天狗の頭部を容赦なく打ち砕いた。
その一撃を受け、烏天狗は床へと崩れ落ち、動かなくなった。
「……このくらい力任せに叩き潰さなければ、駄目なようですね」
沙羅は鉄棍を構え直し、冷徹に周囲の暗がりを見渡した。
その時であった。
カタ……。
カタカタカタ……ッ!
船内のあちこちから、骨が軋む不気味な音が響き始めた。
「……?」
御館が振り返る。
そこには、床一面に転がっていたはずの干からびたミイラ状の死体たちが、一骨ずつ関節を折り曲げながら、一体、また一体とゆっくりと起き上がってきていた。
そして、そのすべての眼球が――。
赤黒い、底なしの魔光を激しく放ち始めていた。
「……沙羅」
「ええ」
二人は背中合わせになり、武器を構える。
「どうやら、本当の歓迎はこれからのようね」
その頃――東の街道街。
「あなたは……噂に聞く皇家の退魔師かしら?」
千鶴は凛とした眼差しで、目の前の女を見据えていた。
周囲には、奇怪な仮面をつけた退魔師たちが包囲網を敷いている。すでに千鶴と風磨の逃げ道は完璧に封鎖されていた。
正面に立つ女が、細くしなやかな手指を自身の仮面へと静かに滑らせる。
そして――。
スッと仮面を外した。
現れたのは、見惚れるほどに美しく妖艶な女の顔であった。
しかし、その瞳には――かつて都を追われた皇綺羅と同じ、禍々しい赤黒い光が宿っていた。
「私の名前は……カミーラ」
女――カミーラは、血のように赤い唇を歪め、不気味な笑みを浮かべた。
「八神千鶴。あなたって強いんだってね」
カミーラが一歩、優雅に前へ踏み出す。
「……その力がどれほどのものか、私が自ら確かめてあげるわ」
「あら、光栄なお言葉ですわね」
千鶴は肩をすくめ、小さく首を横に振った。
「けれどあいにく、今の私はとても忙しいの。またの機会にしていただけないかしら?」
「ふふ……あいにく、断る権利はあなたにはないのよ」
カミーラが妖しく囁く。
千鶴は小さくため息をつくと、傍らに立つ風磨へそっと視線を向けた。
「風磨」
「はい」
「私が、前方の包囲を切り開くわ。あなたはお逃げなさい」
「嫌です」
風磨の返答は、一切の躊躇もない即答であった。
「……え?」
千鶴は思わず目を丸くする。
「姉上をお一人残して、私だけが逃げ延びるなど、できるはずがありません」
「風磨……」
千鶴は一瞬の逡巡ののち、意を決したように静かに口を開いた。
「……あなたに、八神家の当主の座を今ここで譲ります」
風磨の表情が固まる。
「八神家を……どうか頼みます」
「…………」
風磨はしばし無言のまま、己の内と向き合うように熟考した。
そして――。
「……承知いたしました」
千鶴は安堵の微笑みを浮かべる。
「ふふ、頼みましたよ」
そう言い遺し、千鶴はカミーラへと向き直り、己の身を盾にしようと一歩前へ踏み出そうとした。
しかし――。
風磨は逃げなかった。
手にした純銀の錫杖を握り直し、千鶴のすぐ隣へと堂々と並び立ったのだ。
「ちょっと……風磨!? 何をやっているの!? 早く逃げなさいと言ったでしょう!?」
「姉上の命令には、もう従う必要がありません」
「……え?」
「なぜなら、今の当主は私だからです」
風磨は揺るぎない眼差しで、襲いかからんとする仮面の刺客たちを見据えた。
「私は……姉上に守られるためだけに、この旅についてきたのではありません!」
言い放つや否や、風磨は懐から一枚の呪符を鋭く投擲した。
「風よ――打てっ!!」
呪符が空中で弾け、目に見えぬ刃となって仮面の退魔師の一人を容赦なく引き裂いた。
「ぐっ……あっ!」
鮮血が舞う。しかし――。
その深く切り裂かれた傷口が、まるで時間を巻き戻すかのように一瞬で塞がっていく。
「な……っ!?」
風磨が目を見開く。
「傷が……一瞬で回復している……!?」
傷を癒やした退魔師は何事もなかったかのように立ち上がり、殺気を放って風磨へ躍りかかってきた。
「貴様ら……本当に人間なのかっ!?」
「風磨、危ないわっ!」
千鶴が叫ぶ。
その瞬間、風磨は間一髪で前へ踏み込み、手にした純銀の錫杖を全力で振り下ろした!
ズバァァァンッ!!
純銀の鋭利な錫杖が、退魔師の肉体を深く一閃する。
「……っ!?」
今度は違った。傷口は再生することなく、退魔師の身体から濃密な黒い煙が吹き出し、そのまま絶叫とともに跡形もなく消滅していった。
「……なるほど」
風磨は手の中の錫杖を見つめ、即座に確信を得た。
「姉上! こいつら、この純銀の武器が弱点です!!」
風磨は叫びながら、次々と迫る仮面の刺客たちへと果敢に向き直った。
「雑魚の群れは、すべて私が引き受けます!」
そして、千鶴へ力強い視線を送る。
「姉上は――あの生意気な女の首を獲ってください!」
「ちょっと、風磨っ!!」
風磨は千鶴の静止を振り切り、退魔師たちの群れの中へと飛び込んでいった。
仮面の刺客たちも風磨の放つ神気に引かれ、千鶴から離れて風磨へと群がり始める。
「もう……本当に手の焼けるバカな弟なんだから」
千鶴は呆れ果てたように呟いた。
だが、その可憐な口元には、誇らしげな笑みが浮かんでいた。
「……けれど、本当に頼もしくなったわね」
千鶴はゆっくりと、冷笑を浮かべるカミーラへと向き直る。
「悪く思わないでね――」
その瞬間。
千鶴の漆黒の髪が、神秘的な銀色へと一気に変貌を遂げていく。
瞳の奥にもまた、澄み渡る鮮やかな瑠璃色の輝きが宿った。
手にした純銀の錫杖を優美に、けれど隙なく構える。
「一瞬で終わらせてあげるわ」
カミーラは、覚醒したその美しくも圧倒的な姿を凝視していた。
そして――。
「……面白いじゃない」
赤黒い瞳を歪め、不気味な笑みを深く刻み込んだ。
静まり返った東の街道街で、二人の強大な退魔師が激突する。
そして時を同じくして、東の海岸の闇の中でも――異形の死霊たちが襲いかかろうとしていた。




