第50話 鞍馬の幼子と、旅路の誓い
「ねえ風磨、東へ向かう前に……少し寄りたいところがあるのよ」
がたごとと規則正しく馬車に揺られながら、千鶴がふと思い出したように口を開いた。
「分かっておりますよ」
向かいに腰掛ける風磨は、さも当然と言わんばかりの澄ました顔で即答した。
「ん? ……どこに行くか、まだ何も言っていないのだけれど?」
千鶴は不思議そうに小首を傾げる。
「クラマ様のところでしょう? 馬車はすでに鞍馬山へ向けて進路を取っております」
「……なんで分かったのよ?」
「姉上の考えておられることくらい、大抵はお見通しですからね」
風磨は誇らしげに口元を綻ばせた。
「なによ……気味が悪いわねぇ」
千鶴は露骨に身を引いて嫌そうな顔を作る。
「……姉上は単純なお方ですから」
「なんですって!?」
千鶴はぷっと頬を膨らませ、生意気な弟を鋭く睨みつけた。
「さあ、着きますよ」
風磨は姉の怒りなどどこ吹く風で受け流し、御者へ声をかける。
馬車は新緑の木々がそよぐ山道へと足を踏み入れ、鞍馬山へと静かに登っていった。
鞍馬山の山頂――霊気が満ちるクラマの庵。
千鶴と風磨がクラマのもとを訪れると、二人は思わず足を止めた。
「ふぎゃあああああっ!」
「こ、こらっ! 暴れるでないっ! わらわの頬を引っぱるでないぞっ!!」
あの九尾の王とも恐れられるクラマが、小さな天狗の赤子を必死になだめていた。
赤子はクラマの美麗な頬を両手で力任せにつねり、好き放題に引っ張っている。
かつて都を震撼させた絶対的な存在が、たった一人の赤子に文字通り翻弄されていた。
「まあっ! クラマ、その赤ちゃん、一体どうしたの!?」
千鶴は驚きのあまり思わず声を上げた。
その声に気づいたクラマが、救いを求めるようにぱっと顔を上げる。
「おおっ、千鶴っ! よくぞ参った! 頼む、わらわを助けておくれっ!!」
両頬をつねられてひょっとこのように歪んだ顔のまま、今にも泣き出しそうな情けない表情で訴えかけるクラマ。
千鶴は思わず苦笑いを漏らし、歩み寄った。
「もう……仕方がないわね。ほら、私に貸してごらんなさい」
そっと愛おしそうに赤子を腕の中に抱き上げ、優しく背中をトントンと叩いてやる。
「よしよし……いい子ね。お外が賑やかで、眠くなっちゃったのかな?」
千鶴が鈴の鳴るような穏やかな声であやすと、それまで大暴れしていた赤子は嘘のように大人しくなり、安心したように小さな目を閉じた。
やがて、すーすーと可憐な寝息が静寂の庵に響き始める。
「……すう……すう……」
その一部始終を見守っていた周囲の烏天狗たちは、驚きのあまり目を丸くした。
「「「おおおっ────!?」」」
「あのクラマ様すら手に焼いていたアラタ様を、一瞬であっさりと……!」
感嘆の声と歓声が湧き上がる。
「な、なんじゃ……! わらわだって、あと一歩で寝かしつけられるところだったのじゃぞっ!!」
クラマは悔しそうに真っ赤になった己の頬を撫でさすった。
「はいはい。そういうことにしておいてあげげるわ」
「千鶴っ! 絶対に信じておらぬ顔じゃろっ!!」
いつものように軽口を叩き合う二人を、風磨は心底微笑ましそうに眺めていた。
「それで……クラマ。この子は一体?」
千鶴が腕の中で心地よさそうに眠る赤子の寝顔を見つめながら尋ねる。
「アラタじゃ。知人の御館と沙羅の赤ちゃんなのじゃが……」
クラマは少し困り果てたように、頭を掻いた。
「東の方角に……原因の解せぬ巨大な悪しき妖気の蠢きがあるとな。御館と沙羅はその正体を突き止めるべく調査へ立ってしまったのじゃ。このアラタを、わらわの元へ預けてな」
「……東ですって?」
千鶴の表情が、一瞬で引き締まった。
「どうしたのじゃ?」
クラマが不思議そうに尋ねる。
「実はね……私達も東の街で人間が消える異変が起きていると聞いて、これから調査に向かうところなのよ」
「なんと……!」
クラマは驚いたように目を見開いた。
しばし深慮するように沈黙したのち、千鶴の腕の中で安らかに眠るアラタへと愛おしそうに視線を落とす。
「千鶴……わらわは、この幼き命を守らねばならぬ。すまぬが……今回はお主らを助けてやることはできぬのじゃ」
その声には、いつもの快活さとは異なる、真摯で重々しい響きが込められていた。
「ふふ、分かっているわよ」
千鶴はあたたかく微笑んだ。
「しばらく都へ帰ってこられそうにないから、顔を見に来ただけよ。クラマはしっかりとアラタちゃんを守ってあげてね」
「千鶴……」
クラマは感謝を込めて千鶴を見つめた。
しかし、ふと何か嫌な予感を察知したかのように、その端正な顔立ちを曇らせる。
「……じゃが、どうにも気味の悪い、きな臭い匂いがするんじゃ」
「きな臭い……?」
千鶴が問い返すと、クラマは己の誇りである絢爛な九本の尾のうち、一本へに視線を向けた。
「封狐よ」
クラマが厳かに呼びかけると、尾の先から黄金色の幻想的な光がふわりと宙へ浮かび上がった。
光はやがて柔らかな形を結び、一匹の可憐な小狐となって千鶴たちの眼前に舞い降りる。
「なあに、クラマ?」
小狐はくりくりとした瞳を輝かせ、愛らしく首を傾げた。
「封狐、少し頼みがあるのじゃ」
「なあに?」
クラマは満足げに頷くと、千鶴へと向き直った。
「この封狐をお主に貸してやろう。わらわの力を扱える千鶴なら、きっと見事に使いこなせるはずじゃ」
「えっ……!?」
千鶴は思わず息を呑み、小狐とクラマの顔を交互に見つめ返した。
「でも……封狐がいなくなったら、クラマの力が削がれてあなたが危ないんじゃないの?」
九尾の王たるクラマの神気の一端を担う存在を、自分が連れ去る。
それがどれほど重大な意味を持つのか、千鶴には痛いほど理解できていた。
しかし、クラマは堂々と胸を張り、不敵に高笑いしてみせた。
「何を言っておるかっ! わらわには、まだ自慢の誇らしき八本の尾があるじゃろうがっ!!」
そう言って、残る八本のふさふさとした尾を誇らしげに揺らしてみせる。
「ふふっ……そうね。クラマなら何があっても大丈夫かしら」
千鶴は思わず微笑みをこぼした。
「じゃあ、お言葉に甘えて遠慮なく借りるわね。……よろしくね、封狐ちゃん」
「よろしくね、千鶴!」
封狐は嬉しそうに鳴くと、千鶴の肩へと軽やかに飛び乗った。
その微笑ましい姿を見て、クラマも満足そうに頷く。
「うむ。封狐、千鶴をしっかり助けるのじゃぞ」
「はーい!」
封狐は元気よく返事をした。
千鶴は肩に乗った小さな体を、愛おしそうに優しく撫でる。
「ありがとう、クラマ。大切にするわね」
「礼などいらぬ。お主は……わらわのかけがえのない大切な友じゃからな」
クラマは少し照れくさそうにぷいと顔を背けた。
そして、改めてまっすぐな瞳で千鶴を見つめる。
「万が一……何か手に負えぬことがあらば、遠慮なくわらわの名を叫ぶのじゃ。何があろうとも、必ずや駆けつける」
その心強い言葉に、千鶴は静かに頷いた。
「ありがとう……クラマ」
千鶴は微笑み、軽く手を振った。
「じゃあね。また無事に会いましょう」
こうして千鶴と風磨は、クラマの想いを宿した封狐を伴い、鞍馬山を後にしたのだった。
木漏れ日が差し込む山道を下りながら、風磨は千鶴の肩に乗った封狐をちらりと盗み見た。
「……それにしても、クラマ様って、どうしてあんなに世間から恐れられているんでしょうね?」
「ん?」
「あんなに感情が豊かで見ていて飽きないお方なのに。しかも……意外とお優しいですし」
風磨は不思議そうに首を傾げた。
千鶴はしばらく無言のまま歩いていたが、やがて静かに、けれど深く澄んだ声で呟いた。
「人間はね……『妖魔』という名がついているだけで、みんな勝手に悪だと決めつけて、その内側を見ようとしないのよ」
涼やかな山風が、ふたりの間を優しく吹き抜けていく。
「妖魔も人間も……何も変わらないのにね。人間だって優しい人もいれば、心の曲がった悪人もいる。根本は同じなのよ」
千鶴の深みのある言葉に、風磨は感銘を受けたように姉の横顔を見つめた。
「……姉上って、たまにはすごく良いことをおっしゃいますね」
「『たまには』って何よ!? バカにしているの!?」
千鶴は再びぷーっと頬を膨らませて抗議した。
「褒めているんですよ。心の底から感心して褒めているんですってば」
風磨は苦笑しながら、山道の先を指差した。
「ほら、目的地である最初の街道街が見えてきましたよ」
風磨の指し示す先――鬱蒼とした山あいに、ひっそりと静まり返った街の影が佇んでいた。
千鶴の顔から、一瞬で和やかな笑みが消え去る。
この東の地に、一体どのような禍々しい陰謀が渦巻いているのか。
そして、御館たちをも動かした巨大な妖気の正体とは何なのか。
手探りの暗闇の中、何ひとつとして明らかにはなっていない。
「……行きましょう、風磨」
千鶴は気を引き締め直し、怪異が潜む街を見据えた。
肩の上では、封狐が小さな耳をぴくりと動かし、周囲の気配を探っている。
二人と一匹を乗せた馬車は、静かに、けれど力強く、東の街へと進んでいったのだった。




