第49話 瑠璃色の告別、東への旅立ち
「では、これにて……」
綺羅はそうと言い残すと千鶴に背を向け、楠家の当主が待つ上座へと悠然たる足取りで歩み去っていった。
その去りゆく背中を冷ややかな眼差しで見送る千鶴は、先ほどの綺羅の不気味な言葉の真意が気にかかり、ひとり沈思黙考していた。
「……千鶴様?」
不意に穏やかな声で呼びかけられ、千鶴はハッと顔を上げた。
そこには、正装に身を包んだ優哉が立っていた。
「お越しいただき、本当にありがとうございます」
「優哉……」
千鶴は溢れ出る疑問を抑えきれず、急いで尋ねた。
「あなた、皇家の当主の座はどうされたの……?」
「ああ、当主の座は……無事に兄上へお返しいたしました」
優哉は何でもない当たり前のことのように、静かに答える。
「……ですが、綺羅殿はたしか、過去の罪によって都から追放された身ではありませんでしたか?」
千鶴は不審を隠せず、疑わしげに美しい眉を寄せた。
「実は……三か月ほど前に都へお戻りになられたのです。それからは、陰ながら私の当主としての務めを温かく手伝ってくださいました」
「あの綺羅殿が……?」
千鶴の瞳に、ぬぐいきれぬ不信の影が差す。
「兄上は、過去の己の過ちを心の底から深く深く悔いておられました。私から見ても、人が変わられたかのように穏やかに振る舞われていて……」
「……あの綺羅殿がねぇ」
千鶴は小さく呟き、納得のいかぬ思案に暮れた。
その時であった。
背中に、ひやりとした氷のような視線を感じた。
千鶴が視線に導かれるように振り返ると、少し離れた場所に祝言の主役である楠静香が佇んでいた。
目が合うと、静香は細い唇を綻ばせてにこりと微笑む。
しかし、その瞳の奥にはどこか凍てついた冷ややかなものが潜んでいるように感じられた。
「あっ、そういえば……静香様の紹介がまだでしたね」
優哉が今さら気づいたように言い、静香を傍らへ呼び寄せる。
「静香様、こちらが八神千鶴様です」
「初めまして、静香様」
千鶴は違和感を押し殺し、穏やかに微笑みを浮かべた。
「優哉殿には、これまで八神家で様々に力を貸していただいておりました」
「初めまして、千鶴様」
静香も上品に微笑みながら、優雅に頭を垂れる。
「うちの優哉殿が、大変お世話になっておりました」
そして、さも愛おしそうに優哉の腕へそっと己の細い手指を添えた。
「ですが……優哉殿にはこれから、楠家の当主婿としての重いお務めがございますので。今後、八神家のお手伝いをお願いされるのは、ご遠慮いただきたく存じます」
「おい、静香! そんな言い方は――」
優哉が顔を強張らせて慌てて口を挟もうとする。
しかし、千鶴は静かに手をかかげ、首を横に振った。
「静香様、おっしゃる意味は分かっておりますわ」
そして、優哉へと向かい直す。
「優哉殿。これからは楠家のお務め、精一杯頑張ってくださいね」
千鶴は聖母のごとき優しい微笑みを向けた。
「陰ながら、あなたの幸せを心から応援しているわ」
「千鶴様……」
優哉は胸を詰まらせ、何か溢れ出す想いを伝えようと千鶴を見つめたが、結局言葉を呑み込み、静かに頭を下げた。
千鶴は二人に軽く礼を告げると、引き止める声を背にその場を後にした。
絢爛豪華な祝言が終わり、千鶴と風磨は楠家の巨大な屋敷を辞した。
重厚な門を潜ろうとした、まさにその時――。
「お待ち申し上げておりました、千鶴様」
二人の前へ、漆黒の装束を纏った男が二人、突如として立ちはだかった。
「……あなた方は?」
千鶴が凛とした声で正す。
「帝様がお待ちになっておられます。どうか、直ちに我らとご一緒にお越しください」
男の一人が無表情に深々と頭を下げた。
「帝が……?」
千鶴は少し思案したのち、静かに頷いた。
「分かったわ」
そして、隣の風磨へ振り返る。
「風磨、あなたは先に屋敷へ帰っていなさい」
「姉上……っ」
風磨が何か言いかけたが、千鶴は制するように頷くと、男たちの導きに従って歩み出していた。
帝の御所――。
案内された奥の客間は、昼なお暗く怪しげな静寂に包まれていた。
部屋の中央には、微動だにせず帝が佇んでいた。
そのお顔は、深く重々しい漆黒のベールによって覆い隠されている。
千鶴は立ち込める肌に刺さるような違和感を覚えつつも、礼を失わぬよう丁寧に頭を下げた。
「帝様……その顔を覆うベールは、一体どうなさったのですか?」
「……流行病にかかってな。顔がひどく爛れてしまったのだよ」
ベールの奥から、擦れた低い声が返ってくる。
「左様でございましたか……。よろしければ、私が診察いたしましょうか?」
千鶴は医術の心得から心配そうに一歩近寄ろうとする。
「寄るのではないっ!!」
帝の威圧的な怒声が、部屋の梁を激しく揺らした。
千鶴は息を呑み、即座に足を止める。
「……申し訳ございません」
深々と頭を下げ、非を乞う。
「いや……こちらこそすまなかったな。病の苦しみで、少々気が立っておるのだ」
帝は不自然な咳払いをひとつ挟むと、重々しく本題を切り出した。
「実は……都より遥か東の街々にて、原因不明の人間失踪が相次いでおる」
「失踪……ですか?」
「そうだ。複数の町で、町全体の人々が影のように次々と姿を消しているという報が届いておるのだ」
帝はベールの奥から千鶴をじっと見つめた。
「八神家の力を借りたく思う。可能な限り早急に、東へ赴き調査に向かってもらいたい」
「承知いたしました」
千鶴は迷うことなく深々と頭を下げた。
「必ずや原因を突き止め、事態を収めてまいります」
翌朝――。
東への旅路に就くため、八神家の門を出ようとした千鶴は、門前に立つ意外な人物を目にして思わず足を止めた。
「……風磨?」
風磨は腕を組み、堂々と仁王立ちで門の前に立っていた。
「今からしばらく、都を離れて東へ調査に出かけます。あとの屋敷のことは頼みましたよ、風磨」
千鶴が当然のようにそう告げると、風磨はにっこりと不敵な笑みを浮かべた。
「さあ、行きましょうか……姉上」
「……は?」
千鶴はぽかんと目を丸くする。
「何をバカなことを言っているの? あなたまで来たら、八神家の切り盛りはどうなるのよ」
「姉上こそ、何を言っておられるのですか?」
風磨は呆れたように深々とため息をついた。
「我ら兄弟がいなくとも、うちの家臣たちは立派に務めを果たせます。あまりみんなを舐めないでください」
風磨が振り返り、片手を軽く掲げる。
すると屋敷の影から、ずらりと整列した大勢の家臣たちが一斉に姿を現した。
「千鶴様、どうぞお気をつけて行ってらっしゃいませ!」
家臣たちは揃って深々と頭を下げ、清々しい礼を尽くす。
「……風磨、みんな……」
「それに、姉上はまさか東の街まで、自分の足で歩いて行くおつもりだったのですか?」
風磨は門の外を誇らしげに指差した。
そこには、旅の荷物を十分に積み込んだ立派な馬車が一台、静かに佇んでいた。
「路銀や旅の備品も完璧です」
「…………」
千鶴は感極まったのか呆れたのか、言葉を失う。
「姉上は昔から意外と抜けておられますからね。しっかり者の私がついて行かなければ、道中で路頭に迷うに決まっています!」
得意げに胸を叩く風磨。
「……ふふ、分かったわ」
千鶴は悔しそうに頬を膨らませたが、すぐに愛おしそうな笑みを浮かべた。
「では、頼りにさせてもらいますよ、風磨」
「お任せください!」
風磨は力強く己の胸を叩いた。
こうして二人は、東へ向かう長旅の途に就いたのだった。
京の都の重厚な大門をくぐり抜けようとした、まさにその時であった。
「千鶴様ぁぁぁぁぁっ────!!」
遥か後方から、千鳥足のような息絶え絶えの叫び声が響いた。
「……え?」
千鶴は振り返る。
「馬車を止めてください!」
御者に声をかけ、千鶴は急いで馬車のステップを降りた。
そこには、乱れた身なりで肩を大きく上下させ、息を切らした優哉が立っていた。
「優哉……!? どうしたの……っ?」
千鶴が駆け寄る。
優哉は膝に手をつき、肩で荒い息をつきながら、しばらくの間千鶴の顔を食い入るように見つめていた。
そして、ようやく息を整えると、口を開いた。
「……ま、間に合った……」
「どうしたのよ、そんななりで慌てて」
千鶴が心配そうに尋ねる。
優哉は一度胸深く息を吸い込むと、これまでにない真剣で澄み切った眼差しで千鶴の瞳を射抜いた。
「……実は」
その声が、わずかに、けれど熱く震える。
「私は……ずっと、千鶴様のことをお慕いしておりました」
「……えっ……?」
千鶴は思わず絶句し、目を見開いた。
あまりにも唐突な告白に、どう返せばよいのか分からず、ただ目の前の優哉を見つめ返すことしかできない。
優哉は、そんな千鶴の動揺した顔を愛おしそうに見つめると、ふっと吹雪が晴れたような晴れやかな笑顔を浮かべた。
「あなたに……ただ、自分の本当の気持ちを最後にお伝えしたかっただけなのです」
そして、静かに、噛み締めるように言葉を紡ぐ。
「……生涯、後悔しないために」
「でも……静香様が……」
千鶴は戸惑いと痛みを抱えながら呟いた。
「分かっております」
優哉は力強く頷いた。
「私はこれから……静香を生涯かけて幸せにするつもりです」
「……そう」
千鶴は静かに頷いた。
二人の間に、風の音だけが聞こえる穏やかな沈黙が流れる。
やがて優哉は、気恥ずかしさを隠すように少し照れくさそうに笑った。
「ですから……この言葉は、私と千鶴様だけの、生涯の秘密です」
「……ええ、分かったわ」
千鶴の唇にも、ようやく優しい笑みが戻った。
「最後に……握手をしていただけますか?」
優哉がそっと右手を差し出す。
千鶴はその大きな手を取り、ぬくもりを確かめるようにギュッと握り返した。
「……ありがとう、優哉」
優哉は一度愛おしそうに目を伏せると、懐から大切そうに小さな絹の包みを取り出した。
「最後に……これを受け取ってください」
「これは……?」
千鶴がそっと包みを解くと、朝日に透ける美しい瑠璃色のペンダントが現れた。
朝の光を受け、その澄んだ宝石が静かに、幻想的な輝きを放っている。
「亡き母の形見です」
優哉は穏やかな声で語りかけた。
「退魔の力を宿した、特別な翡翠でできております」
「……そんな大切なもの、受け取れないわ!」
千鶴は慌てて首を振った。
しかし、優哉は静かに、けれど拒絶を許さぬ強い眼差しで微笑んだ。
「あなたに……他ならぬ千鶴様に持っていてほしいのです」
そう言って、千鶴の手をそっと両手で包み込む。
「……どうか、無事に帰ってきてください」
千鶴は手の中のペンダントを見つめた。
その深遠な瑠璃色の輝きが、千鶴の胸の奥深くへ静かに、あたたかく染み込んでいく。
「……ありがとう」
千鶴は大切そうにペンダントを胸元で握りしめた。
「必ず……無事に帰ってくるわ」
「……はい」
優哉は心から満足そうに頷くと、そっと一歩後ろへ下がった。
「では……これにて」
そして、未練を断ち切るように静かに踵を返した。
千鶴はその小さくなっていく背中を見つめながら、しばらくの間、佇んでいた。
やがてペンダントを大切に着物の胸元へしまい込むと、馬車へと戻った。
「……ふ~ん、優哉の奴も、意外とやるねぇ」
馬車の中へ戻るなり、風磨がニヤニヤと意地の悪い顔で声をかけてきた。
「ねえ姉上、いっそのこと静香様から優哉を奪っちゃえばいいんじゃない?」
「バカなことを言っているんじゃないわよっ!!」
千鶴は一瞬で顔を真っ赤に染め、雷を落とした。
「さあ、出発するわよ!」
千鶴が御者へ声をかけると、馬車はガラガラと車輪の音を響かせてゆっくりと動き出した。
住み慣れた京の都を背に、二人は未知なる脅威が蠢く東へと向かう。
千鶴は着物の上から、胸元のペンダントへそっと手を添えた。
その瑠璃色の輝きは、まるでこれから二人を待ち受ける過酷な運命を静かに見守るかのように、あたたかく光り続けていた。




