第48話 歪む運命と、赤黒き祝宴
「兄上……お話があります」
退魔の任務を終え、仮面を静かに外した綺羅へ、優哉が躊躇いがちに声をかけた。
「どうした?」
綺羅は振り向き、弟の顔を穏やかに見つめる。
優哉はしばらく言葉を探すように視線を落としていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「……そろそろ、皇家の当主の座を……兄上にお返ししようと思います」
「何を言っているのだ。お前はこれまで、見事に家を引っ張ってきたではないか」
綺羅は驚いたように目を見開いて見せた。
「やはり……私には皇家の当主という重責は荷が勝ちすぎます」
優哉はどこか自嘲気味に苦笑する。
「それに……兄上が戻られたなら、当主の座はお返ししようと、ずっと前から心に決めていたのです」
綺羅は静かに、弟の言葉に耳を傾けていた。
「それと……もう一つ」
優哉が再び顔を上げる。その瞳には、揺るぎない確かな決意の光が宿っていた。
「兄上がお戻りになられたら……私は楠静香様と正式に祝言を挙げ、楠家へ婿に入ろうと思っております」
「……そうか」
綺羅は一瞬だけ、慈愛を含んだように目を伏せた。
そしてすぐさま、かつてと変わらぬ温かな笑みを浮かべて見せる。
「そこまで固い決意があるというのなら……我が皇家を預かろう」
「兄上……!」
「そうと決まれば、祝言の返礼品や祝いの品を、山のように用意せねばな」
綺羅は我がことのように楽しそうに目を細めた。
「ありがとうございます……兄上……っ!」
優哉は深々と、何度も頭を下げた。
その背後――。
もう一人の仮面の退魔師・カミーラが、仮面の暗がりの中で不気味な薄笑いを浮かべていることなど、優哉は知る由もなかった。
幼い頃から憧れ続けた兄が、自分のために戻ってきてくれた――ただそれだけを、優哉は純粋に信じ切っていた。
やがて綺羅は静かに立ち上がり、部屋を辞そうとする。カミーラもまた、その影のように後に続いた。
「兄上……こんな遅くに、どちらへ?」
優哉が不思議そうに尋ねる。
「少し、残した野暮用を思い出してな」
綺羅はそれだけ短く答えた。
そしてカミーラと共に、冷たい夜の静寂の中へと消えていった。
優哉は二人の背中を、胸いっぱいの温もりとともにいつまでも見送っていた。
その夜――。
都の頂点たる、帝の御所。
静まり返った寝所の中、帝はふと立ち込めた粘つくような異様な気配に肌を粟立たせ、跳ね起きた。
「……何者じゃっ!?」
寝籠から身を起こし、暗闇の奥へ鋭い視線を向ける。
そこには、漆黒の衣を纏った一人の男が佇んでいた。
「誰ぞある! 控えよ!」
帝が声を張り上げる。
すると、影は優雅に、ゆっくりと深々と頭を下げた。
「……ご無沙汰しております、帝様」
その声を聞いた瞬間、帝の顔色が激変した。
「お前は……皇綺羅っ!?」
「はい」
「なぜここに立ち入るっ!? お前は都を追放された罪人であろうがっ!!」
帝の怒声が広い寝所を激しく揺らした。
しかし、綺羅は眉ひとつ動かさず、薄笑いを浮かべている。
「優哉に代わり、再び皇家の当主へと返り咲きました故……まずはそのご挨拶に参上した次第にございます」
「なにを訳分からぬことを! わしは断じて認めんぞっ!!」
帝は寝籠から飛び降り、叫んだ。
「出会え! 出会えいっ! 無礼者を捕らえよっ!!」
だが――。
静寂が返ってくるばかり。
「誰か! 誰かおらぬのかっ!?」
帝は何度も喉を枯らして近衛を呼んだ。
しかし、寝所の外からは物音ひとつ聴こえてはこなかった。
「……フフフ、無駄ですよ」
綺羅の冷ややかな嘲笑が、暗闇に響く。
「帝様……私は、あなた様に私の創り出す『新しき理想』へご協力いただきたいのです」
「……何、を企んでおる……っ!?」
帝が戦慄しながら身構える。
綺羅は帝の背後を見つめながら、静かに促した。
「なあ……カミーラ」
「はい……綺羅殿」
その声とともに、帝の真後ろから冷気のごとき気が放たれた。
「なっ……!?」
帝が弾かれたように振り向く。
そこには、いつの間にかカミーラが悠然と立っていた。
透き通るほどに白い肌。そして――暗闇に怪しく輝く、赤黒い血のごとき瞳。
カミーラは妖艶に微笑むと、ゆっくりと赤い唇を開いた。
その口元から、白く鋭利な二本の吸血の牙が覗く。
「や、やめ……やめよっ!!」
帝の声が途絶えた。
カミーラが帝の首筋へ容赦なく牙を突き立てる。
「ぐわぁぁぁぁぁぁっ────!!!!」
絶叫が御所を切り裂いた。
綺羅はその苦悶の叫びを、冷酷な眼差しで見下ろしていた。
「……この男に、自らの意思など不要だ」
綺羅は淡々と命じる。
「我らの意のままに動く、意思なき傀儡と成せ」
「……承知いたしました」
カミーラは満足げに、帝の血を唇に散らして微笑んだ。
それから、しばしの静寂の後――。
帝は抵抗をやめ、力なく顔を上げた。
その肌は死人のように青白く変色し、瞳は濁った赤黒さに染まり上がっていた。
「……綺羅様……」
帝は感情を失った人形のように、膝をついて頭を垂れる。
「フフ……」
綺羅は口元を歪め、やがて堪えきれなくなったかのように、腹の底からの高笑いを上げた。
「ハハハハハハハハハハッ────!!!!」
その狂気に満ちた叫びは、漆黒の夜の御所にどこまでも不気味に響き渡っていた。
翌日――。
八神家の屋敷の前に、一人の青年が佇んでいた。
優哉であった。
「……あれ? 優哉?」
千鶴はその姿を見つけると、ぱっと顔を輝かせて駆け寄った。
「久しぶりじゃない! 最近、すごく頑張っているみたいね!」
いつものように、千鶴は包み込むような笑顔を向ける。
「ご無沙汰しております……千鶴様」
優哉は深々と頭を下げた。
「あらあら、なによ。そんなに畏まっちゃって」
千鶴はくすりと可憐に笑う。
「私には、いつも通りで良いのよ?」
「……実は」
優哉はゆっくりと顔を上げた。
「楠静香様と……祝言を挙げることになりました」
「……そう」
千鶴は一瞬だけ驚きに目を見開いた。
そして、どこか愛おしそうに、けれど少し寂しそうに微笑んだ。
「寂しくなるわね……」
その澄んだ声には、隠しきれない情愛が滲んでいた。
「あなたのことは……かわいい弟のように思っていたのよ」
「……千鶴様……」
「お祝い、いっぱい用意しなくちゃね! ところで、祝言はいつなの?」
優哉は、
(……弟、かぁ……)
千鶴には決して届かないほど小さな声で呟くと、どこか切なく揺れる瞳で哀しい顔を浮かべた。
だがすぐにそれを拭い去り、精いっぱいの笑顔を作って見せた。
「一週間後です」
「まぁ! すぐじゃない! お祝い、楽しみにしていてね」
「はい……期待しております」
千鶴は嬉しそうに頷いた。
優哉は、そんな千鶴の美しく温かな顔を、脳裏に焼き付けるかのようにじっと見つめていた。
「……千鶴様」
「ん? どうしたの?」
「今まで……本当に、ありがとうございました」
優哉は腰を折り、深々と頭を下げた。
「……さようなら」
「えっ……?」
千鶴が言葉の意味を尋ねる間もなく、優哉は背を向け、逃げるように走り去っていった。
「……変な子ね」
千鶴はぽつりと首を傾げる。
「まるで……今生の別れみたいじゃない」
走り去るその背中を、千鶴は一抹の胸騒ぎとともに見送っていた。
「……ふふふ」
その時、柱の影から風磨がニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて顔を出した。
「何よ、その顔。気持ち悪いわね」
千鶴は呆れたように眉をひそめる。
「優哉が来ていたのを知っていたなら、あなたも顔を出して挨拶くらいしなさいよ」
「いやいや、それより……優哉は何て言っていたんです?」
風磨は興味津々で尋ねた。
「来週、楠家と祝言を挙げるんですって」
千鶴が嬉しそうに答える。
「……は?」
風磨のニヤニヤ顔が一瞬で吹き飛んだ。
「なんでだよ!? 誰とだよ!?」
「何を驚いているのよ。優哉にだって、大切にしたい人くらいいるでしょう?」
「はぁぁぁ……」
風磨は天を仰ぎ、深々とため息をついた。
「姉上……そんなに鈍感だと、いつか本気で嫌われますよ」
「……なによそれっ!」
千鶴がぷっと頬を膨らませる。
しかし、風磨は心底呆れたように首を振り、そのままトボトボと屋敷の内へ戻っていった。
「まったく……失礼しちゃうわね」
千鶴は不満そうに呟いたのだった。
翌日。
八神家に、一通の重厚な書状が届いた。
差出人は――楠家。
「……あら?」
千鶴は招待状を受け取り、不思議そうに首を傾げた。
「どうして……楠家から招待状が……?」
優哉の祝言。
その文字を見つめながら、千鶴はぬぐえぬ違和感を胸に抱いていた。
そして――祝言の日。
楠家の巨大な大屋敷は、華やかな装飾と数多くの客人で溢れ返り、熱気に包まれていた。
千鶴が静かに大広間へ足を踏み入れた、その瞬間。
ふと、最上座に座す人物が目に入った。
「……っ!?」
千鶴の足が、ピタリと止まる。
そこに悠然と座していたのは――。
皇 綺羅。
かつて皇家の当主であり、都を追われ、千鶴たちとも浅からぬ因縁を持つ男。
綺羅は千鶴の存在に気づくと、薄笑いを浮かべてゆっくりと立ち上がった。
「これはこれは……八神千鶴様ではありませんか」
「……あなた」
千鶴は目の前の光景を信じられず、息を呑む。
「なぜ……ここに……!?」
綺羅は口元を歪に歪めた。
「弟の祝言ですよ?」
そして、大広間に集う大勢の客人たちを悠々と見渡す。
「皇家のまっとうな当主として、ここに列席するのは……至極当然のことではありませんか」
「皇家の……当主……!?」
千鶴の表情が鋭く引き締まる。
「それに……あなた……その目は……っ!?」
綺羅の瞳は、生命の温もりを失った血のように濁った赤黒さに染まっていた。
綺羅はその鋭い視線を正面から受け止め、心底愉しそうに低く笑った。
「なあに……少しばかり、強大な力を得ただけですよ」
ゆらりと一歩、千鶴へ近づく。
「……あなたをも超えるほどの、ね」
綺羅の狂気を孕んだ笑い声が、華やかなはずの祝言の大広間に、冷たく静かに響き渡った。
千鶴は無言で綺羅を見据える。
その胸の奥で、かつてないほど禍々しく、冷酷な不穏の嵐が、ゆっくりと渦を巻き始めていた。




