第47話 嵐の芽吹く京、命あふれる烏山
「兄上……なぜ、ここに?」
優哉は目の前に座す綺羅を見つめ、戸惑いと混濁した記憶を揺らしながら尋ねた。
「お前が……当主としてちゃんとやっていけているか、心配になってな」
綺羅はかつての優しさを模したような、穏やかな笑みを浮かべた。
「どうやら……実に立派にやっているらしいな」
「あ、ありがとうございます……兄上……!」
優哉は胸を撫でおろし、安堵したように微笑んだ。そして、ふと綺羅の隣に座す異国風の女性へ視線を注ぐ。
「ところで……こちらの女性は?」
「ああ、紹介が遅れたな」
綺羅が口を開くより早く、女性は優雅に、だがどこか底冷えするような笑みを湛えて頭を下げた。
「初めまして。私はカミーラと申します。あなたが綺羅殿の弟さん……優哉様ですか?」
「は、はい……!」
優哉は慌てて背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。
「初めまして。兄が大変お世話になっております」
丁寧に挨拶を返す優哉。
しかし――その背中には、理由の分からない粘つくような冷や汗が滲んでいた。
目の前にいるカミーラという女性は、ただ優美に微笑んでいるだけだ。
それなのに――まるで底知れぬ何かにじっと見つめられているような戦慄が、優哉の全身を侵食していく。
「我は、このカミーラに救われたのだ」
綺羅が重々しく静かに口を開く。
「そして……ようやく気づいたのだよ。これまでの我が、いかに浅はかで愚かであったかということに」
「そう……だったのですね……!」
優哉は感極まったように、深く頷いた。
「では、兄上はこれからどうなさるおつもりなのですか?」
「これからは……お前の影となり、皇家を支えようと思っている」
綺羅は隣のカミーラへ視線を送る。
「このカミーラと共に、な」
カミーラは何も言わず、ただ静かに、磁器のように白い顔に微笑みを浮かべていた。
「兄上……っ!」
優哉の瞳に、みるみる熱い涙が溢れ出す。
「ありがとうございます……! 本当に……本当にありがとうございますっ!!」
優哉は何度も、何度も頭を下げた。
かつて追放され、憎しみ合って別れたはずの兄が、再び皇家のために陰ながら力を尽くしてくれる。それは、皇家を一人背負い込んできた優哉にとって、何よりも救いとなる言葉だった。
だが――。
「ただし……ひとつだけ、固く約束してほしい」
綺羅の声が、わずかに低く落ちた。
「我が京へ戻り、お前を支えていることは……誰にも話してはならぬ」
「……なぜですか?」
優哉は不思議そうに首を傾げた。
「我が身はかつて皇家を追放された罪人だ。そんな人間が表舞台に戻ったと知れれば、皇家の評判を傷つけることになる」
「しかし! それでは兄上の功績が……!」
優哉はたまらず声を張り上げた。
「兄上がどれほど皇家に尽くそうとも、陰のままで誰も知らなければ……っ!」
「我のことなど、どうでもよいのだ」
綺羅は冷ややかなまでの声で、優哉の言葉を遮った。
「皇家の評価が上がり、家名が揺るぎなきものとなるのなら……それで十分だ」
「兄上……」
優哉の瞳から、ボロボロと涙が溢れ落ちた。
視界が涙で滲み、目の前に座る兄の姿がぼやけていく。
綺羅は涙を流す優哉の肩へそっと優しく手を置き、聖者のように微笑んだ。
そして――。
涙で視界を奪われた優哉には決して見えない角度で、その口元を歪に歪めた。
(……フフフ、愚かな弟よ……そんな些細なことなど、どうでもいい……どうでもいいのだ……)
隣に佇むカミーラもまた、声もなく嘲笑うかのように、静かに微笑んでいた。
それからというもの、あんなに足繁く通っていた優哉が八神家へ顔を出すことは、ぴたりとなくなった。
ある日の昼下がり――。
「ねえ……姉上ぇ」
八神家の屋敷で、風磨がつまらなさそうに畳に転がり、声をかけた。
「最近……優哉の奴をちっとも見かけなくなったと思わない?」
「優哉は皇家の当主なのよ。いろいろと忙しいのでしょう」
千鶴は手元の古文書から目を離さずに、淡々と答えた。
「ちぇっ……つまんないの」
風磨はふくれっ面で頬を膨らませる。
「あなたは次期当主でしょう。遊んでばかりいないで、優哉を見習って少しは自分の務めを果たしなさい」
「ええ~……八神家の当主は姉上でしょ?」
その瞬間。
「……あなたねぇっ────!!」
千鶴の落雷のような一閃の声が屋敷中に響き渡った。
「ひぃっ!?」
風磨は跳ね起きる。
「そ、そういえば急ぎの用事を思い出しましたぁっ!!」
慌てて立ち上がり、逃げ足速く部屋を飛び出していく。
「待ちなさい、風磨っ!!」
千鶴が廊下へ叫んだときには、すでに風磨の影すらなかった。
「まったく……逃げ足ばかり早くて困ったものね」
千鶴は深くため息をついた。
そして、ふと縁側から窓の外――遥か先にある皇家の屋敷の方角へ視線を向ける。
「……でも……本当にどうしたのかしら、優哉……」
千鶴はぽつりと小さく呟いた。
胸の奥に、言葉にできないざらついた不安の影が、静かに落ちていた。
それから三か月後――。
烏山の大屋敷は、かつてないほどの緊張と熱気に包まれていた。
大天狗の正妻・沙羅の出産である。
「…………」
当主である御館は、産室の固く閉ざされた襖の前を、落ち着きなく右へ左へ往復していた。
何度も立ち止まっては襖の奥を注視し、また大きな身体を揺らして歩き出す。
その滑稽な狼狽ぶりを眺めていたクラマが、呆れたように声をかけた。
「おい……いい加減に落ち着かんか。観ているこっちまで無駄に緊張してくるわ」
「お、落ち着いているだろうがっ!!」
御館が声を荒らげて怒鳴り返す。
「二人とも、静かにしてくださいっ!!」
産室の手伝いをしていた烏天狗の看護役が、鋭い一筆を飛ばした。
「「……す、すまん(ぬ)」」
大天狗の御館と九尾の王が、揃って縮こまり、小さく頭を下げた。
それから、じっと息を殺した静寂のあと――。
「おぎゃあ! おぎゃあぁぁっ!」
産室の中から、山を突き抜けるような元気な赤子の産声が響き渡った。
「う……生まれた……っ!」
御館とクラマは顔を見合わせる。
次の瞬間、二人は示し合わせたように勢いよく襖を開け放った。
「沙羅っ!!」
「御館様、静かにと言ったはずですっ!!」
またしても烏天狗たちに一喝される。
「……すまん」
御館は首をすくめながら、寝台へそっと駆け寄った。
そこには、汗に濡れた髪のまま、愛おしそうに小さな包みを抱いた沙羅が横たわっていた。
「でかしたぞ、沙羅ぁっ!!」
御館が喜びのあまり再び大声を上げる。
「静かにっ!!」
「……すみません」
御館は三度小さくなった。
そのあまりの落差に、沙羅は思わず吹き出してしまう。
「ふふふっ……元気な男の子ですよ、あなた」
「おお……っ!!」
御館は赤子を覗き込み、破顔して目を輝かせた。
そのすぐ隣で、クラマはじっとその光景を見つめていた。
この世に産み落とされたばかりの、あまりにも小さく儚い生命。
その身体を、壊れ物を扱うように優しく抱く沙羅。
そして、大天狗の厳めしさを忘れて破顔する御館。
気づけば――クラマの瑠璃色の瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ落ちていた。
「……不思議じゃ……」
クラマはぽつりと呟く。
「この小さな赤子を見ておると……なぜか胸がいっぱいになって、涙が止まらぬ。わらわにも……よう分からんのじゃ……」
沙羅は涙を拭うクラマを見て、慈愛に満ちた笑みを深めた。
「ふふっ……さあ、クラマ様ももっと近くへ」
「……わらわが、触れてもよいのか……?」
「もちろんですわ」
クラマは戸惑いながら、ゆっくりと寝台の傍らへ近づいた。
そして、おそるおそる赤子の頬のあたりへ、小さな手を伸ばす。
すると――。
むちむちとした小さな手が、キュッとクラマの指を力強く握りしめた。
「…………っ!?」
クラマは瑠璃色の瞳を見開いた。
妖力を込めることも忘れ、どうすればよいのか分からず、そのまま固まってしまう。
赤子はそんなクラマの惑いも知らず、ただ安心したように小さな手でクラマの指をぎゅっと握り続けていた。
「……ふふっ」
沙羅が優しく目を細める。
「新たな烏山の領主の誕生じゃな……」
クラマは握られた指先を見つめながら、静かに呟いた。
「ええ……」
沙羅は深く深く頷き、我が子の愛おしい顔を覗き込んだ。
「新たな……この子の名前は、『アラタ』にいたしましょう」
「アラタ……」
クラマはその響きを確かめるように繰り返した。
すると、まるで自分の名前を呼ばれたことが分かったかのように、赤子が小さな唇を綻ばせ、くすぐったそうに笑った。
その瞬間――。
クラマの胸の奥深くに、あたたかく眩い光のような何かが、じんわりと広がっていった。
「……そうか」
クラマは愛おしそうに目を細め、赤子の小さな手を優しく包み込むように握り返した。
「よろしくな……アラタ」
その頃――。
京の都では、誰にも気づかれぬまま、静かに、そして確実に勢力図が塗り替えられつつあった。
皇家はここ数か月で急速に勢力を拡大し、ついには長年都の頂点に君臨していた八神家をも凌駕するほどの威勢を誇っていた。
若き当主・優哉の左右には、異様な威圧感を纏う仮面をつけた二人の退魔師が常につき従っている。
彼らは優哉の元で京の都にはびこる凶悪な妖魔たちを瞬く間に、そして惨虐なまでに討伐していった。
その圧倒的な成果によって、皇家の名声は日増しに高まっていく。
しかし――。
その急激な繁栄の裏側で、一体何が蠕動しているのか。
都の者たちも、八神家も、そしてクラマや妖魔たちすらも――知る者は、まだ誰もいなかった。




