第46話 嵐の前奏曲、赤黒き瞳の再会
「ふぅ……酷い目に遭ったわ……」
御館は、腹の底から絞り出すような重い溜息を吐き落とした。
そのすぐ隣では、クラマが何食わぬ顔で甘いぜんざいを頬張っている。つい先ほどまで二人の胃袋を激しく苦しめていたのは、皿の上に鎮座していた凶悪なゴーヤであった。
口の奥に残る強烈な苦味をどうにか塗り潰そうと、御館はレンゲを急ピッチで動かす。
「お前……とんでもない劇物を持ち込みおって……」
恨めしそうに太い眉をひそめる御館をよそに、クラマはどこ吹く風といった様子である。小さなお椀を両手で大切そうに抱え、至福の表情で小豆を口に運んでいた。
「あれは身体にとんでもなく良いものじゃぞ?」
クラマは得意げに胸を張る。
「何より、日頃苦労しておる御館の体調を労わってのことじゃ~」
「…………」
御館の眉がぴくりと一筋、不気味に跳ねた。
その絶妙なタイミングだった。
「まあ、それは実に良いことを伺いましたわ」
明るく弾む声とともに、沙羅が湯気の立つ新しいぜんざいのお椀を携えて現れた。
「…………え?」
ぴたりと、御館の動きが止まる。
沙羅はにこやかな笑顔を崩さぬまま、御館の目の前にお椀をそっと置いた。
「これからは、あなたの日々のお食事へ積極的に取り入れることにいたしましょう」
「…………お前」
御館の声が、地を這うように低くなる。
そして、ギギギ……と錆びついた機械のように首を回し、隣のクラマへと視線を向けた。その一つ目には、殺気にも似た濃密な恨みの炎が渦巻いている。
「…………」
だが、当のクラマは――。
まるで自分には何の関係もないと言わんばかりに、平然とぜんざいを口へ運び続けていた。
「さて……美味いものも食うたし、そろそろわらわは鞍馬山へ帰るとするかの」
空になった椀を置き、クラマは軽やかに立ち上がった。そのまま部屋を出ようと背を向けた――その時。
「クラマ」
背後から、低い声が落ちた。
先ほどまでの緩やかな空気が、一瞬にして音もなく消え失せる。
「なんじゃ?」
振り返ったクラマの視線の先には、もはや先ほどまでの気の抜けた御館はいなかった。
大天狗。
その名に相応しい、凄絶な真剣味を宿した顔がそこにあった。
「ひとつ、忠告しておくことがある」
「……」
自然とクラマも表情を引き締める。御館は静かに、しかし重く言葉を続けた。
「京の都の……目と鼻の先だ」
「訳の分からんほど禍々しく、巨大な力を持った何かが――急速に近づいてきておる」
「……なんじゃと?」
クラマの瑠璃色の瞳から、幼げな緩みが完全に消え去った。
「まだ正体までは判らん。だが……ただの妖魔ではない」
「…………」
部屋に重苦しい沈黙が落ちる。
やがて、クラマはふっと口元を吊り上げた。
「まあ、わらわと千鶴がいれば、どんな奴が来ようと――」
小さな拳を固く握り締める。
「まとめて蹴散らしてやるまでじゃ」
「……フッ」
御館は小さく、しかし深く頷いた。
「まあ、お前のことだ。そこまで心配はしておらん」
そして、真っ直ぐにクラマを見据える。
「だが……絶対に気を抜くなよ」
「言われずとも、分かっておるわ」
クラマは短く答え、鮮やかに翻った。
「ではな!」
瑠璃色の瞳を鋭く輝かせ、クラマは軽やかな足取りで鞍馬山へ続く道を歩き出す。
御館はその後ろ姿を見送りながら、胸の奥に理由のつかない嫌な予感を抱えていた。
「…………嫌な気配だ」
誰の耳にも届かぬほどの呟きが、静かな烏山の風へと溶けていった。
クラマが石段を下りていた、その時だった。
「君ってさ……妖魔の王って呼ばれてるんだよね?」
背後から、不意に軽薄な声が降ってきた。
ピタリと、クラマの足が止まる。
「……?」
振り返ると、階段の上に一体の妖魔が佇んでいた。
異様に長い身体、ぬらりと光る気味の悪い皮膚。そして、見る者を心底から不快にさせる薄ら笑い。
妖魔はクラマを頭の先から足元まで値踏みするように眺めると、鼻でせせら笑った。
「……とっても弱そうだね」
「なんじゃと?」
クラマのこめかみに、青筋がピキリと浮かび上がった。
次の瞬間――轟雷ッ!!
凄まじい雷鳴が山道を激しく揺るがした。クラマの身体から放たれた高圧の雷撃が、一直線に妖魔へと叩き込まれる。
「ふん」
これで消し飛んだ。クラマは小さく鼻を鳴らした。だが――。
「……どこ行くの?」
「……!」
背筋が粟立つような感覚とともに、真後ろから声が響いた。
慌てて振り返ると、直撃を受けたはずの妖魔が、何事もなかったかのようにけろりとして立っている。
「僕に雷は効かないよ。ほら」
妖魔の全身を、おびただしい量のネバつく粘液が覆っていた。クラマの放った雷撃は、その導体となる粘液を伝い、すべて大地へと逃がされていたのだ。
「僕の名前は――野槌」
妖魔は己の異形の身体を誇示するように、両腕を大きく広げた。
「こう見えて、結構強いんだよ」
次の瞬間。ズルリ、と野槌の尾が蠢いた。
一本、二本――いや、無数。
無数の触手がまるで生き物のように一斉に分離し、蛇の如く地面を這いながらクラマへと襲いかかる。
「ほら……やっぱり僕のほうが強い」
野槌の嘲笑とともに、無数の触手がクラマの身体を幾重にも包み込み、完全にその姿を飲み込んだ。
「ハハッ!」
勝利を確信した――その瞬間。
――ぐしゃっ。
空気を凍らせるような、嫌な音が響いた。
「……え?」
野槌の笑みが顔面に貼り付いたまま凍りつく。
次の瞬間、束ねられていた無数の触手が、内側からの暴力的な圧力によって一気に弾け飛んだ。
飛び散る粘液と無惨な肉片の向こうから――漆黒の鎧を纏ったクラマが、ゆっくりと姿を現す。
その表情に、怒りすらなかった。ただ、底知れずにつまらなそうだった。
クラマは冷ややかな目で野槌を見据える。
「おまえ…なんなんだよ…」
野槌はそうつぶやくとの顔から血の気が引いていく。恐怖に駆られた右腕の触手が、唸りを上げてクラマへ突き出された。
だが――クラマは微動だにしない。
伸びてきた触手を、素手でガシリと掴み取った。
「なっ――」
「ミシリ」
クラマの小さな指に、ありえないほどの怪力が込められる。
「ぐ……っ!」
「さらに、ミキィッ……!」
そして――。
グシャッ!!
「ぐわぁぁぁぁぁぁッ!!」
触手が握り潰され、野槌が絶叫を上げた。
「この野郎……っ!」
半狂乱になった野槌が、残る反対側の触手をクラマの顔面へと叩きつける。
ガキィッ!!
金属音のような鈍い衝撃が響きわたる。しかし。
「…………」
クラマは揺るがない。ゆっくりと顔を上げたその瞳には、一切の感情が欠落していた。
「ひ……」
野槌が恐怖に突き動かされて一歩、二歩と後ずさる。
クラマの指先から、鋭利な爪がスルスルと伸びた。
次の瞬間――ブォンッ!!
振り抜かれた爪から、空間を切り裂くような凄まじい衝撃波が放たれた。
「ぐおおおおおおッ!!」
衝撃波が野槌の巨体を直撃し、断末魔の叫びとともに何度も地面を転がっていく。やがて勢いが収まり、野槌は這う這うの体で膝をついた。
荒い息を吐きながら見上げる視線の先で、クラマは冷たく一瞥をくれる。
「たしかに、お前は強い」
野槌がわずかに希望を抱きかけたその時、クラマは淡々と言い放った。
「だが――それだけじゃ」
もう用はないとばかりに、クラマはそれ以上興味を示すこともなく、踵を返して歩き出す。
「待て……!」
野槌が震える血走った声を絞り出した。だが、クラマは振り返らない。
「きさま……覚えておけよ……!」
野槌は憎悪に歪んだ目でその背中に呪詛を吐き散らす。
「いつか……いつか必ず殺してやるからなッ!!」
クラマの小さな影が完全に視界から消えても、その怨嗟の叫びだけは、いつまでも夕闇の山道に反響し続けていた。
その頃――。
京の都、八神家の一室。
「ふふん♪ 次は、どのお土産をあの子に持っていこうかしら♪」
千鶴は機嫌よく鼻歌を口ずさみながら、机の上にずらりと並べられた奇怪な品々を眺めていた。その整った顔には、悪戯を企む子供のような無邪気な笑みが浮かんでいる。
「ねえ……姉上」
風磨が引きつった顔で、恐る恐る声をかける。
「もう……クラマ様への命懸けのイタズラはやめましょうよ……」
「そうですよ、千鶴様」
傍らに控えていた優哉も、胃を押さえるように困り果てて続けた。
「あの九尾の王をこれ以上煽られたら、巻き込まれる私たちの命が持ちません」
「なんでよ!」
千鶴はふっと頬をぷくっと膨らませた。
「あの子だって、本当は私にイタズラされるのを待っているのよ?」
「…………」
「あの子、素直じゃないけれど……本当はすごく寂しがり屋さんなんだから」
「「ないない」」
風磨と優哉の声が、綺麗にハモった。
二人は顔を見合わせ、同時に力なく首を横に振る。
「もう……二人とも失礼ね」
千鶴はむっとしながら自分の頬を撫でる。そんな姉の姿に、優哉は小さく深い息を吐き出した。やがて、静かに腰を上げる。
「私は……そろそろ自邸へ戻ります」
「ええ。気をつけてね。また明日、優哉」
「はい」
優哉は八神家を辞し、夕闇が濃くなる京の街を抜けて自らの屋敷へと歩き出した。
皇家――。
優哉が重厚な屋敷の門前まで戻ると、一人の家臣が顔面を真っ青に染め上げて駆け寄ってきた。
「た、大変です、優哉様!」
「どうした? そんなに狼狽えて」
「お客様が……!」
家臣は息を整えることすら忘れ、早口でまくし立てる。
「お客様が、すでにお待ちでございます!」
「客……?」
優哉は訝しげに眉を寄せた。こんな時間に、しかも何の予告もなしに屋敷の奥へ入り込んでいるなどあり得ない。一体、誰が――。
胸の奥に小さな、しかし不気味な不安の波紋が広がりながらも、優哉は足早に廊下を進んだ。
やがて、格式高い客間の前へ辿り着く。
静かに、襖に手をかける。
そして――スッ。
扉を開け放った、その瞬間。
「…………っ!?」
優哉の顔から、すべての温もりと笑みが一瞬にして消え失せた。
息が、文字通り止まる。そこに座る人物を目にした瞬間、優哉の喉から声が奪われた。
「……久しぶりだな、優哉よ」
「……あ……」
低く、懐かしく――そして、もう二度と聞くことはないと思い込んでいた声。
「兄上……!?」
そこにいたのは、かつて皇家の当主でありながら、過去に追放されたはずの男。
――皇 綺羅。
他ならぬ、優哉の実の兄だった。
「兄上……なぜ、ここに……っ!?」
激しく脈打つ心臓を押さえつけながら、優哉は目の前の光景を信じられない思いで見つめる。
だが、それ以上に優哉の視線を釘付けにしたのは、綺羅のすぐ隣に座る「ソレ」だった。
日本人離れした、透き通るほど白い肌。異国風の整った顔立ち。だが、それ以上に彼女から発せられるのは、どこか人間を超越した禍々しい気配。
優哉は兄と女を交互に見据え、そして――気づいてしまった。
背筋を、凍りつくような悪寒が駆け抜ける。
二人を繋ぐ、決定的な異形の証。
その瞳。
――赤黒い、血のように濁った獣の瞳。
「兄上……その、目は……っ!?」
優哉の声が、恐怖に震えていた。
押し寄せる恐怖、拭えない困惑、そして理解を拒絶する何かに対する本能的な嫌悪。それらが混ざり合い、彼の理性を揺さぶる。
すると、綺羅は――。
ふっと、歪んだ笑みを浮かべた。
「フフフ……」
肩が微かに震える。
「ハハハ……」
その笑い声は、静まり返った屋敷の中で次第に大きくなっていく。
「なに……少しばかり、絶大な力を手に入れただけのことよ」
「ハハハハハハハハハッ――!!」
狂気に満ちた高笑いが、客間の空気をびりびりと震わせた。
やがてその不気味な笑い声は屋敷全体へと波及し、漆黒の闇に包まれつつある皇家のすべてを禍々しく満たしていく。
――まるで、これから始まる終わりの始まりを祝福するかのように。




