第45話 クラマの叫びと苦き土産
翌日――。
新緑の映える鞍馬山には、山全体を激しく揺るがすような絶叫がこだましていた。
「なんじゃ、この苦さはぁぁぁぁ~~~っっ────!!!!」
叫び声の主は、もちろん九尾の王・クラマであった。
口に含んだ瞬間、脳天を突いた強烈な苦みに顔をくしゃくしゃに歪め、クラマはポロポロと涙目になりながら千鶴を睨みつける。
「……ち、千鶴……っ! わらわを誑かしたのかっ……!?」
あまりのショックと苦痛に、九尾の大妖たる誇り高き妖力が膨れ上がり、周囲の空気がビリビリと爆ぜて震える。
「ひ、ひぃぃぃぃっ!?」
あまりの威圧感に風磨と優哉は腰を抜かし、無様に尻を地面につけたまま、クラマの足元から少しでも離れようと必死で後ずさっていく。
しかし――。
「あら……聞き捨てならないわね」
千鶴は髪ひとつ揺らさず一歩も退かないどころか、涼しげな表情でクラマをじっと睨み返した。
「私がいつ『美味しい食べ物』だなんて言ったかしら?」
「……うっ」
「『身体にとっても良い食べ物』だとは言ったけれど?」
「……ぐぬっ」
クラマの威勢の良い動きが、ピタリと止まった。
そして、何かを思い出そうとするように、瑠璃色の瞳を泳がせる。
「ねえ、クラマ……私、一度でも美味だなんて言ったかしら?」
千鶴の容赦のない追い打ち。
「………………」
沈黙が鞍馬山を包み込む。
しばしの無言ののち――。
「……言っていませんでした……」
クラマの愛らしい狐耳が、シュンと情けなく垂れ下がった。
ふわふわの尻尾も力なく地面につき、クラマは蚊の鳴くような声で呟く。
「……だいたい、あなたは勝負だと言っておきながら、卑怯な真似をして……ずるいと思わないの?」
「…………」
「そもそも、あなたはいつも私のことをお子様扱いして――」
千鶴の長々とした説教が、そこから始まった。
大妖としての威厳はどこへやら、クラマは涙目になったまま、小さくなり、ただ黙って説教を聞いている。
その可哀想な様子を見かねていた風磨が、とうとう耐えきれずに怯えながら口を挟んだ。
「あ、姉上……そろそろ、そのくらいにして差し上げては……?」
クラマがぱっと顔を上げた。
「……ふ、風磨っ……!」
(助かった――!)という感動に満ちた表情を浮かべるクラマ。
だが、千鶴がゆっくりと首を曲げ、風磨へ鬼のような視線を向ける。
「…………」
「す、すみませんでしたぁっ!!」
風磨は恐怖のあまり反射的に地面へ頭を擦り付けた。
「ふう……まあ、いいでしょう」
千鶴は小さくため息をつくと、平伏する風磨に向かってスッと手を差し出した。
「風磨。あれを出しなさい」
「あ……あれ、ですか?」
風磨が慌てて鞄から取り出したのは、南国の市場で手に入れた、熟した大きなパイナップルであった。
「まあ……」
クラマが目を丸くしてそれを見つめる。
「助けてもらったお礼よ」
千鶴はそう言って、包丁で切り分けたパイナップルの大きな果肉をクラマへ差し出した。
クラマは騙されまいと恐る恐る一口かじる。
「…………!?」
次の瞬間、クラマの瞳が零れ落ちんばかりに大きく見開かれた。
「な……なんじゃ、この奇跡的な美味さはぁぁぁっ……!」
南国特有の濃厚な甘みと爽やかな酸味が、溢れる果汁とともに口いっぱいに広がる。
「この甘さと酸味の絶妙な調和……たまらんぞっ!」
先ほどの激苦が嘘のように、クラマは夢中になってパイナップルを頬張り始めた。
やがて、その目にはあまりの旨さに感動の涙まで浮かんでいた。
「うまい……うますぎるぞ千鶴ぅ……!」
「ふふっ。南国の商人がお試しに持ってきたの・・・また手に入ったら持ってくるわね」
千鶴が可憐に微笑む。
その時だった。
クラマがふと顔を上げ、鞍馬山の山門の方へ向かって、大妖らしい鋭い視線を向けた。
「……お前ら、わらわに何か用か?」
「ク、クラマ様……」
樹々の影から、二匹の烏天狗が姿を現し、畏まって膝をついた。
「御館様がお待ちでございます」
「見て分からんのか?」
クラマはパイナップルを抱え直すと、不機嫌そうに頬を膨らませた。
「わらわは今、大切な客人をもてなしておる最中なんじゃ」
「しかし……急を要するとのことにて……」
「…………」
クラマの眉がぴくりと跳ね上がった。
「用があるなら、お前が自らここへ赴けと御館に伝えるんじゃっ!!」
クラマの体内からドッと溢れ出る極大の妖気。
ビリビリビリッ──!!
大気そのものが大妖の力に激しく震え、二匹の烏天狗は青ざめて身をすくませた。
「ク、クラマ……」
千鶴が困ったように声をかける。
「まあ、よい……」
クラマはふっと妖気を収めた。
そして、足元に置いてあった、千鶴が持ってきたゴーヤの袋をチラリと見る。
「……御館に送る、とっておきの土産もあることだしな」
クラマの可憐な口元に、ニヤリと邪悪で愛らしい笑みが浮かんだ。
「千鶴……せっかく来てくれたのに、すまなかったな」
「ううん、良いのよ。また遊びに来るわ」
千鶴は風磨と優哉を促し、鞍馬山を後にしていった。
その背中を愛おしそうに見送ったクラマは、ゴーヤがぎっしり詰め込まれた袋をくわえ直す。
「さて……老いぼれを冷やかしに行くとするか」
こうしてクラマは、風に乗って烏山へと向かったのだった。
烏山――。
大天狗・御館の屋敷では、威厳に満ちた御館自身が、クラマの到着を腕を組んで待ち構えていた。
やがてパチンと襖が開く。
「何の用じゃ」
クラマは開口一番、つまらなさそうに吐き捨てた。
御館は太い腕を組み、眼光鋭くクラマを睨みつける。
「お前……人間とつるんで、各地の妖魔どもを好き勝手に狩っているそうだな・・・たくさんの妖魔達が我に助けを求めて尋ねてくるぞ」
「何が悪い」
クラマは即座に言い返した。
「わらわは陰でコソコソと手下を動かすような、姑息で不細工な奴が嫌いなだけじゃ。それに――」
クラマの瑠璃色の瞳が、ゾッとするほど冷たく冴え渡る。
「……千鶴に手を出すというのなら……いくらお前であっても、容赦はせんぞ」
「……」
御館の眉がわずかに動く。
「お前は九尾の王なんだ。人間なんぞと戯れていないで、もっと王らしく重々しく振る舞え」
「勝手に周りの連中が『王』などと呼んでいるだけじゃろうが」
クラマは吐き捨てるように言った。
「そんな鬱陶しい称号、わらわはいらん。欲しければ、お前にくれてやるわ」
「ふざけるなっ!!」
御館の怒声が屋敷の梁を大きく震わせる。
「妖怪の世界では、絶対的な力こそが正義だっ!!」
ドンッ────!!
二人の放つ凄まじい妖気が正面から衝突し、部屋の畳が悲鳴を上げて軋み折れる。
その、まさに緊迫した瞬間――。
ガラッ────!!
奥の襖が、容赦ない勢いで開け放たれた。
「二人とも……さっきから何を大声で怒鳴り散らしているんですかっ!!」
現れたのは、御館の妻であり、大天狗の正妻たる沙羅であった。
「お腹の子に響いたらどうするのですかっ!!」
「こ、こいつがいい加減なことばかり言うから……」
「わらわがどこで何をしようと、わらわの勝手じゃろうが!」
なおも子供のように睨み合う二人。
そして――。
「二人とも……いい加減にしなさいっ────!!!!」
山をも引き裂くような沙羅の大一閃が轟いた。
「…………」
「…………」
絶対の力を誇る九尾の王と、大天狗の御館。天下の二大妖怪が、揃って思わず気圧されて俯く。
「いいじゃないですか」
沙羅は呆れたように小さく溜息をついた。
「妖魔の王はクラマ様。あなたがその下の面倒なまとめ役を引き受ければ、それで丸く収まるでしょう?」
「それでは……天狗の面目が――」
御館が何か言いかけようとする。
「……はぁぁぁぁぁぁ?」
沙羅が静かな笑みを浮かべたまま、暗黒の眼光で夫を睨みつけた。
「……な、なんでもありません」
御館は即座に口を閉ざし、視線を逸らした。
「はい、これで解決ね」
沙羅は満足そうに微笑む。
そして、ふとクラマの足元に置かれた不自然な大きな袋へ目を向けた。
「ところで……クラマ様。その足元の袋は?」
「!」
クラマはハッとなって、慌てて袋を背中へ隠した。
「な、なんでもないんじゃっ! ただのゴミじゃっ!」
「あらあら。わざわざお土産なんて、気を遣わなくてもよろしいのに」
沙羅はニコニコと微笑みながら、拒否権を与えずにクラマから袋をそっと受け取った。
「ちょうど良かったですわ。これで今夜のお料理を作りますから、ぜひ食べていってくださいね」
「いや! わらわは急な用事を思い出したのじゃ! これにて失礼――」
「…………はぁ?」
沙羅が満面の笑みのまま、首を傾げてクラマを見つめる。
「…………」
クラマは数十秒ほど全身をフリーズさせた。
そして――。
「……なんでもないです。いただきます……」
観念したように、静かに畳の上に座り直したのだった。
それから、小一時間ほどが経過した頃――。
烏山の巨大な大屋敷から、山全体を揺るがすような、凄絶な絶叫が響き渡った。
「なんじゃこれはぁぁぁぁぁぁぁぁっ────!!!!」
――その日、烏山には二人の大きな悲鳴が轟いたという。




