第44話 桃の香る山と、苦い贈り物
あの鞍馬山での激闘から、疾風のごとく五年の月日が流れていた。
かつて禍々しい妖気に包まれ、焼け野原と化していた山頂には、千鶴から贈られた数多の桃の苗木が立派に根を張り、青々とした葉を茂らせている。
枝々には今、甘い香りを放つ瑞々しい桃が、たわわに実を結んでいた。
「……うむ、美味いのぉ」
九尾の王・クラマは実った桃を一つもぎ取ると、大きな口で美味しそうにシャクリとかじった。果汁が口いっぱいに広がる。
ふと、クラマは二つほど山を隔てた遠くの深い森へ、瑠璃色の視線を向けた。
「……あやつめ。また一人で無理をしおってからに」
クラマは可憐な唇を尖らせ、ぽつりと呟いた。
その頃、離れた山の鬱蒼とした深林の中――。
千鶴、風磨、そして優哉の三人は、山を丸ごと一つ喰らい尽くさんばかりの、巨大な大ムカデの怪異と対峙していた。
「さあ……逃げ場はないわよ」
千鶴が静かに朱の着物を揺らし、太刀を構える。
「ハハハッ! 人間ごときが……この我を討つとでも申すかぁっ!?」
大ムカデが地響きのような怒号を上げ、鎌のごとき巨大な百の腕を一斉に千鶴へと振り下ろした。
ドガァァァンッ!!
激しい打撃音とともに猛烈な爆風が吹き荒れ、視界全体が立ち上る砂埃で覆い尽くされる。
「姉上っ!!」
「千鶴様っ!!」
風磨と優哉が悲鳴のような叫びを上げる。
大ムカデは自慢の巨腕を誇示し、勝ち誇ったように高笑いを上げた。
「ハハハッ! さて……残ったガキどもを、じっくり喰らってやろうか!」
「……勝負を決めるには、まだ気が早すぎるんじゃないかしら?」
霧散しきらぬ砂埃の向こうから、鈴を転がすような千鶴の澄んだ声が響いた。
次の瞬間――。
ゴォォォォッ────!!
鋭利な真空のつむじ風が爆発的に巻き起こった。
千鶴を押し潰していた大ムカデの巨腕が一瞬で数本切り裂かれ、舞い上がっていた土煙が一気に晴れ渡る。
「な、なんだと……!?」
大ムカデがギョッとして目を見開いた。
そこに佇む千鶴の姿は、先ほどまでの「ただの人間」のそれとは明らかに異なっていた。
夜空にたなびく絹のような、神々しい白銀の髪。
そして――かつて九尾の王が宿していた、吸い込まれそうな瑠璃色の瞳。
「姉上……そのお姿は……!?」
風磨が思わず息を呑む。
「ふふっ……」
千鶴は可憐に微笑み、さらりと肩に流れた白銀の髪を一房指先で摘んだ。
「あの子のチカラ……まだ私の中に残っているみたいね」
「き、きさま……本当に人間なのかっ!?」
あまりの妖気の密度に怯えた大ムカデは、醜い悲鳴を上げながら森の奥へと一目散に逃げ出していった。
「あなたたちは先に屋敷へ帰りなさい」
千鶴は振り返り、風磨と優哉に静かに告げる。
「ここからは、私一人で行くわ」
「……どうか、お気をつけて」
風磨と優哉は深く頷くと、千鶴の言葉に従ってその場を後にした。
千鶴は一人、大ムカデの逃げ去った鬱蒼とした森の奥へと足を進めていく。
しばらく歩いたところで――。
「ふふふっ……」
千鶴はピタリと足を止めた。
「かくれんぼは、もうおしまいかしら?」
「ハハハ! 馬鹿な女め……!」
樹々の隙間から、大ムカデの不快な嗤い声が木霊した。
「一人で追ってくるとはなっ!」
ガサガサガサガサッ!!
瞬間、周囲の茂みや地中から、次々と巨大なムカデの群れが姿を現した。どれも人間など一呑みにするほどの異様な巨躯。
「あら……」
千鶴はグルリと囲まれた周囲を見回し、クスリと笑った。
「意外と寂しがり屋さんなのね」
「ふん、いくら貴様が化け物じみた力を得ようと、この数には勝てまい!」
大ムカデが陸続と引き連れた手下どもを背に、狂喜の声を上げた。
「痛めつけて力を奪った後、その腹を裂き、生きたまま肉を喰いちぎってくれるわっ!」
千鶴は小さく、愛想を尽かしたように息を吐いた。
「……もう、甘い桃には飽きてしまったのかしら」
「……ぬ? 何を訳の分からんことを言っている!?」
大ムカデが怪訝そうに百の脚を蠢かせる。
「絶望のあまり、気が狂ったかぁっ!!」
バチバチバチィィィッ────!!!!
その言葉が終わるより早く、天から凄まじい極大の雷霆が降り注いだ。
「ぎゃあぁぁぁぁぁっ!?」
森全体を焼き尽くさんばかりの電撃が走り、群がっていた巨大ムカデたちが一瞬で黒焦げとなって転がっていく。
そして――。
シュンッ
千鶴のすぐ隣に、ふわりと大狐の妖魔が舞い降りた。
瑠璃色の瞳を輝かせた九尾の王――クラマである。
「……この助太刀の礼に、今度は桃ではない美味い物を持ってくるがよいぞ、千鶴!」
クラマは胸を張り、千鶴へ誇らしげに言った。
「頼んだ覚えはないのだけれど?」
千鶴は間髪入れずに即答する。
「むっ! ならば、わらわがこやつを倒せば文句はあるまい!」
「あら、私の獲物を横取りする気かしら?」
「では――」
クラマはニヤリと悪戯っぽく口元を吊り上げた。
「わらわが先に倒したら、さらに美味い物を持ってくるという約束じゃ!」
千鶴は呆れたように「はぁ」とため息をつく。
「クラマったら……」
一連のやり取りに置き去りにされた大ムカデが、顔を真っ赤にして激怒した。
「クラマ……! きさま、古の大妖のくせに、人間の女の飼い犬になったという噂は本当だったのだなっ!?」
その言葉が出た瞬間、クラマの瑠璃色の瞳から温もりが消えた。
「……わらわはな、大妖のくせにたった一人に対して大勢で群がるような、お前のような不細工で卑怯な奴が大嫌いなんじゃ」
クラマが冷ややかに片手を掲げる。
「――『轟雷』っ!!」
ドォォォォンッ!!
凄まじい雷撃が大ムカデの脳天を直撃した。
「ぐわぁぁぁぁっ!?」
「あっ!」
千鶴が思わず声を上げる。
「狡いじゃない、クラマ!」
「勝負は早い者勝ちじゃっ!!」
クラマは無邪気に笑うと、瞬時に黒狐の鎧をその身に纏った。
「行くぞっ!!」
バッと大地を蹴る。千鶴もすぐさま風を切って後を追う。
だが――覚醒したクラマの爪が一瞬早く、大ムカデの巨躯を捉えていた。
ザンッ────!!
閃光のごとき黒爪が一閃。
大ムカデは悲鳴を上げる間もなく、その場に崩れ落ちて霧散した。
「……しょせん、この程度の器か」
クラマは黒狐の鎧を解き、小さな胸を堂々と張った。
「図体と数だけで大妖を気取っていただけじゃな」
そして、追いついた千鶴を振り返る。
「約束じゃからな、千鶴! 飛び切りの絶品を用意するのじゃぞ!」
「ええ、わかったわ」
千鶴は可憐に、そしてどこか意味深に微笑んだ。
「そういえばこの前、南国の商人から『ゴーヤ』という大変珍しい食べ物を分けてもらったのよ」
「ごーや……?」
「ええ。とても体に良いそうなの。今度、たくさん鞍馬山へ持っていくわね!」
「うむ! 約束じゃからなっ!」
クラマは一切の疑いもなく、満面の笑みを浮かべた。
「楽しみにしておるぞっ!」
そう満足そうに言い残すと、クラマは風となって鞍馬山へと帰っていった。
その日の夕方。
京の屋敷へと戻った千鶴は、さっそく台所で大量のゴーヤを愛おしそうに包み始めていた。
「……あ、姉上……?」
通りかかった風磨が、引きつった顔で籠に山盛りにされた緑のイボイボを見つめる。
「その……大量のゴーヤ、一体どうするんですか……?」
「クラマに持っていくのよ」
千鶴は包丁を止め、にっこりと聖母のような微笑みを向けた。
「……え?」
風磨の顔がみるみる蒼白になっていく。
「こ、この……噛むだけで舌が痺れるような激苦の野菜を……あの九尾の王にお届けするんですか……!?」
「ええ、そうよ」
千鶴は心底楽しそうに満面の笑みを浮かべた。
「あの子、勝負でズルをしたでしょう? 悪い子には、ちゃ~んと罰を与えてあげなくちゃね」
「いやいやいや! 冗談でしょう姉上っ!?」
風磨は恐怖のあまりガタガタと震え出した。
「ゴーヤ食べた瞬間、激怒したクラマ様に雷で屋敷ごと吹き飛ばされますって! 私は絶対に一緒に行きませんからねっ!?」
「何を言っているの? さあ風磨、荷物持ちの支度をしなさい」
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁっ────!!!!」
風磨の絶望に満ちた悲鳴が、夕暮れに染まる京の街中に、どこまでも響き渡ったのだった。




