第35話 血の誓約、千年の余韻
鞍馬山の山頂では、三日三晩にわたって途切れることなく天を衝く雷鳴が轟いていた。
幾重にも重なり合う青紫の稲妻が夜空を無慈悲に切り裂き、その絶大な衝撃が走るたびに、山全体が不気味なほどの白光に染まる。
その轟音と地の底からの震動は、遠く離れた京の都にまで絶え間なく響き渡り、民草は家屋に閉じこもってただ震え上がっていた。
「神の御怒りじゃ……」
「天変地異の前触れに違いない……!」
誰もその真実を知る由もない。
ただ一つ確かなのは、人知を超越した『二つの怪物』が、鞍馬の頂で命を賭して喰らい合っているということだけだった。
そして――三日三晩に及んだ凄惨極まる死闘は、唐突にその終わりを告げた。
荒涼たる山頂に、死のような静寂が戻っていた。
えぐり取られ荒れ果てた地表。黒く煤けて崩れ落ちた樹木。あちこちに刻まれた凶悪な爪痕と、落雷によって結晶化した岩肌。
その破壊の爪痕の中心に――九尾の王、クラマが立ち尽くしていた。
……いや。正確には、立っているのが精一杯の状態だった。
かつて神々しかった白銀の毛並みは、千鶴から吹き出した返り血と己の鮮血に染まり、痛々しいほど真っ赤に汚れ跳ねていた。大きな身体の随所に深い傷が刻まれ、神威の威光はかろうじて形を保っているに過ぎない。
それでも、クラマは己の足で地に立っていた。
そして、その正面には――。
「……はぁ……はぁ……っ」
千鶴がいた。
彼女は片膝をつき、純銀の錫杖をかろうじて杖代わりに支えながら、倒れ伏すのを必死に耐えていた。
かつて鞍馬の山を染め上げた神秘的な白銀の髪も、神聖な瑠璃色の瞳も、霊力の枯渇とともに元の漆黒と漆黒の瞳へと戻りつつある。
クラマは満身創痍の千鶴を見つめると、ゆっくりと、爪を地面に引きずりながら歩み寄った。
一歩。また一歩と距離を詰めていく。
「……そろそろ降参した方が身のためじゃぞ?」
クラマは激しく呼吸を乱しながらも、強がりの混じった可憐な笑みを口元に浮かべた。
「……くくっ、なかなか楽しかったぞ、千鶴」
その言葉に、千鶴もまた掠れた息の中で穏やかに微笑んだ。
「……まだ、勝ち誇るには早すぎるんじゃないかしら?」
「なんじゃと……?」
千鶴はそっと、己の足元へと視線を落とした。
そこには、三日間の死闘の中で彼女の身体から溢れ出た、膨大な血溜まりが赤黒く広がっていた。
千鶴はその血の海へ、そっと細い手を添えた。
「――『封』」
ス……ッ
瞬間。血溜まりが、まるで意思を持った命のようにうねり始めた。
「……っ!?」
クラマが驚愕に目を見開く。
赤黒い血が無数の帯となって地を這い、生き物のように奔走してクラマの華奢な足元、そして全身へと容赦なく絡みついた。
「な、なんじゃこれはっ!?」
叫び、クラマが渾身の力で妖力を爆発させようと踏ん張る。
しかし――。
「ぐっ……!? 力が……抜け……て……っ」
絶大な妖力が、血の帯を通じて途方もない速度で吸い上げられ、封印されていく。
抗いきれず、クラマは力なくその場に膝をつき、ついには冷たい地面へと崩れ落ちた。
「ふふ……」
千鶴は錫杖を杖代わりにし、ふらつきながらもゆっくりと立ち上がった。
「言ったでしょう……?」
一歩。血を流し続けながら、クラマのもとへ歩み寄る。
「私は……特別だって」
千鶴はそっと、己の胸元に手を当てた。
「私の血にはね……生まれつき、どんな妖魔の術をも無力化する強大な退魔の血が流れているの」
クラマは屈辱と悔しさに瞳を揺らし、地を舐めながら千鶴を睨みつけた。
その可憐な反抗の表情を見て、千鶴はどこか愛おしそうに小さく笑った。
「……惜しかったわね、クラマ」
静かに、けれど心からの敬意を込めて呟く。
「本当に……惜しかったわ」
「……どうやら」
千鶴は、急速に白く透けていく己の手元を見下ろした。
「……血を、流しすぎたみたい……」
「な……っ!?」
次の瞬間。
バシャッ――
千鶴の身体から完全に力が抜け落ち、彼女はそのまま己の血溜まりの中へと崩れ落ちた。
「……おい……千鶴……!?」
クラマが目を見開く。
だが、返事はない。千鶴の意識は完全に途絶え、ただ静かな吐息だけが微かに残っていた。
千鶴の意識が途切れたことで、クラマの身体を縛っていた血の帯が霧のように消えていく。
「……まったく」
クラマは痛みを受け止めながら、ゆっくりと身体を起こした。
そして千鶴のすぐ傍まで這い寄ると、倒れた少女の横顔をしばらく無言で見下ろしていた。
やがてクラマは、静寂に包まれた森の奥へ視線を向ける。
「……おい」
低く、けれど山頂に通り通る声が響いた。
「隠れておらんで、出てくるんじゃ」
静寂の後――。
ガサッ……!
木々の影から、息を呑んだ一人の青年が姿を現した。
「姉上っ!!」
八神風磨だった。
血の海に倒れる千鶴の姿を見るや否や、風磨はなりふり構わず駆け寄った。
「姉上! しっかりしてください、姉上っ!!」
「……都へ連れて行くのじゃ」
クラマは己の傷を庇いながら、淡々と言い放った。
「一刻も早く、しかるべき治療を施してやるんじゃ」
風磨は刃を構える余裕すらなく、九尾の王を猛烈に警戒しながら千鶴の華奢な身体を慎重に抱き起こした。
そんな青年の背中を見つめ、クラマはふっと満足そうに口元を緩めた。
「……なかなか楽しかったぞ」
風磨が思わず顔を上げる。
「この先……千年は余韻に浸れるほどにな」
「……」
風磨は言葉を失い、ただ目の前に降臨する伝説の妖魔の姿を目に焼き付けていた。
クラマは身を翻すと、足を引きずりながら森の深淵へと歩み始めた。
「そうじゃ」
ふと思い出したように、クラマは振り返る。
「千鶴が目を覚ましたら、伝えるが良い」
「……何を、ですか」
「『もう、わらわは無意味に人を殺めたりはせん』……とな」
風磨が驚愕に目を見開く。
「その代わり――」
クラマはいたずらっぽく、ニヤリと可憐に笑った。
「たまには、わらわの住処へ遊びに来い……とな」
「……え?」
「もちろん、美味しい手土産を山ほど持って、な」
それだけを言い残すと、九尾の王の姿は鞍馬の深い霧の中へと溶けるように消え去っていった。
風磨はしばらく呆然と立ち尽くしていたが――。
「……あっ、姉上っ!!」
我に返ると、意識のない千鶴を慌てて背負い直した。
「急いで都へ戻らないと……っ!!」
風磨は千鶴を抱え、一目散に山道を駆け下りていったのだった。
それから、数日の刻が流れた。
八神家の静かな一室。
「……ん……っ」
薄絹の布団の上で、千鶴がゆっくりと長い睫毛を揺らし、目を開いた。
「姉上っ!!」
「千鶴様……っ!!」
視界が輪郭を結ぶと、そこには心配そうに自分を覗き込む二人の青年の顔があった。
弟の八神風磨。そして、重責を背負い直した皇家の皇優哉であった。
「あら……あなたたち」
千鶴は微かな痛みに眉をひそめつつ、ゆっくりと身体を起こした。
「どうやら私は……クラマに見逃してもらえたようね」
安堵の微笑みを浮かべる千鶴に、風磨は胸を撫で下ろし、深々と息を吐いた。
「身体のお加減はいかがですか……!?」
「ええ。少し全身が重いけれど……問題ないわ」
風磨は少し逡巡した後、鞍馬山の山頂で起きた一部始終を千鶴に語って聞かせた。
クラマが千鶴を気絶させた後、都へ連れ帰るよう風磨に告げたこと。
そして――。
「『無意味に人は襲わない。代わりにたまには遊びに来い』……ですって?」
話を聞き終えた千鶴は、思わず「ふふっ」と吹き出した。
「姉上……?」
「あの子らしいわ」
千鶴はベッドから足を下ろし、愛おしそうに窓の外の青空へ視線を注いだ。
「……クラマ」
その名を、愛おしむように呟く。
風磨は少し考え込んだ後、意を決したように口を開いた。
「姉上……私はあの九尾の王が、噂で聞いていたような恐ろしいだけの大妖だとは……どうしても思えないのです」
「……そうね」
千鶴は柔らかく頷いた。
「あの子は……本当はとっても素直で良い子よ」
そう言うと、千鶴はさらりと着物を羽織り、床に立った。
「さて」
「姉上……?」
「さっそく、クラマに会いに行くわよ」
「……えっ!?」
風磨と優哉の顔が、同時にひきつった。
「わ、私たちも行くのですか……!?」
「もちろん」
千鶴は何事もないように、楽しげに微笑んでみせた。
「だって……約束したもの」
「「……」」
風磨と優哉は顔を見合わせ、絶句した。
二人の脳裏には、鞍馬山を三日三晩引き裂いた、あの世の終わりような惨状が鮮明に蘇っていた。
「……正気ですか、姉上……めちゃくちゃ怖いんですけど……」
「僕も……生きた心地がしません……」
怯える弟たちの情けない呟きを余所に、千鶴は白磁の肌を光らせ、嬉しそうに鞍馬の山並みを見つめて笑っていたのだった。
しかし――この出会いが、後に都を揺るがす大事件へ繋がることを、二人はまだ知らなかった




