第34話 白銀の覚醒、名を取り交わす夜
「わらわの『轟雷』が……こうも簡単に相殺されるとはな」
鞍馬山の山頂に立つ九尾の王は、心底愉快そうに口元をぐにゃりと吊り上げた。
目の前に静かに佇む一人の少女――八神千鶴。
その華奢で細い身体のどこに、これほどの神威が秘められているというのか。クラマが放った絶対の妖術を正面から受け止め、怯むどころか興奮に頬を染めている。
それが、クラマにとってはたまらなく愛おしく、そして面白かった。
「あら……これで終わりというわけではないでしょう?」
千鶴もまた、漆黒の髪を夜風になびかせ、可憐に、そして不敵に微笑む。
「……ふふっ」
「……くくっ」
凄まじい嵐の前の静けさのように、二人の間に一瞬の静寂が落ちた。
「そうじゃな……」
クラマの背後でたなびく九本の尾のうち、一本が紅蓮の炎のように赤く燃え上がり始める。
「余興は終わりじゃ。ここからが本番ぞっ!!」
次の瞬間――。
「『轟炎』っ!!」
クラマの幼い口から、山を焼き尽くすほどの灼熱の熱量を伴った紅蓮の奔流が放たれた。
大地を融解させながら迫り来る炎の壁。
しかし千鶴は乱れることなく、静かな所作で一枚の呪符を前方へと掲げた。
「――『封』」
透明な光の膜が展開し、迫り来る炎の津波を真正面から受け止める。
凄まじい爆音と狂風、熱風が山頂を駆け抜けていく。
だが――。
「……なるほど」
クラマは鋭く目を細めた。
炎が吹き荒れ去った後。
千鶴の手元から、白い煙がゆらりと立ち上っていた。白磁のような腕を包む衣の袖口が、熱気によって黒く焦げついている。
「そちの『封』の術……どうやら万能ではないらしいな?」
クラマは勝ち誇ったように愉悦の笑みを浮かべた。
「完全に消し去ることはできず、勢いを削いで耐えているに過ぎんようじゃ」
「……ふふ、よく見ているのね」
千鶴は袖の焦げ目を一瞥し、苦笑いを浮かべた。
「ならば――落としてくれるわっ!!」
クラマが地を爆ぜさせた。
一瞬で間合いを死角へと詰め、研ぎ澄まされた爪を閃光のごとく振り抜く。
ガキィィンッ!!
千鶴の錫杖がギリギリで爪を受け止める。
ギィィンッ!!
力任せに弾き返す。
ガンッ!!
再び重厚な衝撃音が響き渡る。
幾度となく金属音が鞍馬山に木霊し、二人の残像が月明かりの下で激しく交錯する。
そして――。
「っ……!?」
クラマのひと筋の爪が、千鶴の左肩を鋭く掠めた。
白衣が裂け、夜の闇に鮮血が美しく飛び散る。
「そろそろ降参した方が身のためじゃぞ?」
クラマは爪についた血を舐めとり、余裕の笑みを浮かべた。
だが――。
「……ふふっ」
千鶴の唇から漏れたのは、密やかな笑みだった。
「何がおかしい?」
「……ここからよ」
千鶴は血に染まる肩にそっと手を添えた。
すると――ふわり。
千鶴の肩の傷口より艶やかな「赤い霧」が二人の周囲を立ち込め、視界を赤く染め上げていく。
「なんじゃ……!?」
クラマは警戒して瞬時に跳躍し、距離を取った。
「目くらましの類か……!?」
しかし、赤い霧の向こうから答えは返ってこない。
その代わり――。
ドスッ!!
クラマの目の前の地面に、鋭利な一本の『独鈷』が深く突き刺さった。
「……なんじゃ?」クラマは眉をひそめる。「当たらんかったようじゃな、下手くそめ」
嘲笑おうとした、まさにその直後だった。
『クラマ……っ! 周りを見て!!』
頭の中に、封狐の悲鳴に似た叫びが直接響いた。
「……何?」
クラマがハッと視線を巡らせる。
そこには――。
いつの間にか、無数の独鈷が規則正しく地面に突き立っていた。
円を描くように配置されたそれらが、クラマの周囲を完全に密閉するように取り囲んでいる。
『あと……この赤い霧、なんか変だよっ!?』封狐の声に焦りが混じる。『妖力が……空間に分散されて、上手く練り上げられない……っ!』
「何じゃと……っ!?」
クラマが衝撃に目を見開いたその瞬間。
霧の奥で、千鶴が流麗に錫杖を振り上げた。
「――『雷光円舞』」
地に刺さった無数の独鈷が一斉に青白く輝く。
次の瞬間。
バチィィィィッ────!!!!
網の目のような雷光が地面を爆走し、円を描きながら中心のクラマを容赦なく呑み込んだ。
「ぐっ……ぁぁぁぁっ!?」
凄まじい電流がクラマの身体を貫く。絶叫が夜の鞍馬山を激しく照らし出した。
クラマは歯を食いしばり、全身の毛を逆立てて必死に耐える。
「小癪な……人間ごときがぁぁぁっ!!」
クラマの瞳が血の赤に染まる。
「『黒狐』っ!!」
クラマが叫ぶと、身体から禍々しい黒い妖気が爆発的に噴き上がった。
それは強固な鎧となってクラマの小さな身体を包み込み、巨大で凶悪な黒い外殻を形成していく。伸長する狂暴な爪。
「ぬおおおおっ!!」
クラマは黒狐の腕を力任せに振るい、迫り来る雷撃の網を物理的に叩き割り、切り裂いていく。
バキィィィンッ!!
やがて雷撃が収束し、黒い外殻を弾けさせたクラマは、荒い息を吐きながら膝を伸ばした。
「はぁ……はぁ……ついに術が切れたようじゃな……っ」
しかし――。
『クラマっ!!』封狐が絶叫した。『後ろっ!!』
「……何!?」
クラマが戦慄とともに振り返る。
そこには――息の根を止めるべく、至近距離に肉薄していた千鶴の姿があった。
「なっ――」
次の瞬間。
千鶴は躊躇いなく、クラマの華奢な肩口へと激しく噛みついた。
「――っ!?」
クラマの思考が凍りつく。
「な……なんじゃと……っ!?」
千鶴はクラマの傷口から溢れ出る、強大な妖力を宿した神聖なる血肉を噛みちぎり、飲み込んだ。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
クラマは思わず絶句し、目を見開いた。
妖魔……それも九尾の王の血肉など、生身の人間が口にすれば、その絶大な妖力に身体が耐えきれず、狂死するか肉体が内側から崩壊するはずなのだ。
「死ぬ気か……貴様……っ!?」
だが――。
「……ふふっ」
千鶴の赤い唇が、艶やかに歪んだ。
「私は……特別なの」
その瞬間。
千鶴の漆黒の長髪が――根元から瞬く間に、透き通るような『白銀』へと変質していく。
満月の光を受けたその髪は、まるで輝く銀糸のように夜風に舞った。
そして、その瞳。
先ほどまでの人間らしい瞳ではない。クラマのそれと同じ、底知れぬ神威を宿した深い『瑠璃色』の光が、静かに、禍々しく輝いていた。
同時に、クラマの爪によって切り裂かれていた千鶴の肩の傷が、肉芽を蠢かせながら一瞬で完治していく。
「……おぬし……」
クラマは言葉を失った。
目の前に君臨している存在は、果たして人間なのか。
それとも――。
「化け物……か?」
クラマの口から、呆然とした呟きが漏れた。
「あら」
千鶴は白銀の髪を揺らし、心底楽しそうに瑠璃色の目を細める。
「九尾さん……あなたのような最強の妖魔に、そう言っていただけるなんて」
そして、可憐にくすりと笑った。
「最高の褒め言葉ね」
「……ふふっ」
クラマの口からも、笑いが漏れた。
先ほどまでのような、弱者を踏みにじるための嘲笑ではない。
己の命を対等に脅かし得る、「未知なる強者」を見出した者だけが浮かべる、純粋な歓喜の笑み。
「わらわの名は『九尾』などという名ではないわ」
クラマは小さな胸を堂々と張った。
「クラマじゃ」
そして、瞳に宿る戦意を最大限に燃やし、千鶴を真っ直ぐに見据えた。
「おぬしの名は?」
「……私?」
千鶴は白銀の髪を風になびかせ、夜空の月を背に微笑んだ。
「千鶴」
静かに一歩、前へ踏み出す。
「八神千鶴よ」
「千鶴……」
クラマはその名を、愛おしむように口の中で深く反芻した。
「……良い名じゃ」
そして、激しい昂ぶりとともに、鋭利な爪を再び上段に構える。
「さあ……続きを始めようか、千鶴っ!!」
千鶴もまた、瑠璃色の瞳を輝かせ、錫杖を強く握り直した。
「ええ……始めましょう、クラマっ!!」
二人の視線が真向から激突する。
月明かりだけに照らされた鞍馬山。
その静寂を極限まで破るように――二人の絶対者は、同時に地を蹴り飛び立った。




