第33話 千年前の記憶、月下の対峙
「……面白い」
九尾の王――は、不敵に口元を吊り上げた。
猛然と燃え盛る紅蓮の炎の向こう側。そこには、静かに立ち塞がる一人の少女の姿があった。
八神千鶴。
彼女は長髪を夜風になびかせ、手にした錫杖を揺らぎなく構えたまま、澄んだ瞳で九尾の神威を見据えている。
「皇綺羅」
千鶴は一切振り返ることなく、背後の男へ背中越しに告げた。
「ここは引きなさい。あとは私が引き受けるわ」
「ふざけるなっ!!」
膝をついていた皇綺羅が、血に染まった顔で叫んだ。
「まだだ……まだ終わってはいない! この私が、あの化け狐に遅れをとるはずが――っ!」
千鶴は短く、冷ややかな息を吐き出した。
「……引き際も分からないなんて」
氷のように冷徹な眼差しが、一瞬だけ綺羅へと向けられる。
「どこまでも哀れな男ね」
「貴様……私を愚弄するかっ!?」
「優哉」
千鶴は怒号を上げる綺羅を完全に無視し、その傍らで傷ついた弟へと声をかけた。
「……分かっているわね?」
「……はい」
皇優哉は一瞬、狂気と悔執に歪む兄の顔を見上げた。だが、すぐに悲壮な覚悟を決めて頷く。
「承知しました……手負いの者たちを連れ、速やかに後方へ下がります」
優哉は深く頭を下げると、打ち伏せられて動けない家臣たちの救護へと回り始めた。
その様子を横目で確認し、千鶴は離れた位置に待機していたもう一人の少年へ視線を送る。
「風磨」
「はい、姉上!」
千鶴の弟――八神風磨が顔を上げる。
「優哉を手伝いなさい。あなたも速やかにここから離脱するのよ」
「……分かりました。姉上も……どうかご無事で」
「ええ」
千鶴はふっと柔らかく微笑んだ。
風磨と優哉は、立ち上がれない家臣たちを肩に担ぎ、手際よくその場を離脱していく。
「……ふざけるな……ふざけるなっ!!」
去っていく配下たちの背中を見つめながら、皇綺羅が屈辱に打ち震える声で呟いた。
「当主はこの俺だぞ……! 我が皇家の栄光を、貴様らごときが横取りする気かっ!!」
その醜悪な執念を見下ろし、九尾は心底退屈そうに眉をひそめた。
「……ほんに、救いようのない愚か者じゃのう」
九尾の背後で、一本の尾が億劫そうに揺れた。
バチィッ────!!
次の瞬間、落雷のような一閃が皇綺羅の胸元を直撃した。
「ぐはっ……!?」
凄まじい衝撃に弾き飛ばされ、綺羅は白目を剥いて地面へと転がり、そのまま意識を失った。
「兄様っ!?」
離脱しかけていた優哉が慌てて駆け戻り、倒れた兄の巨躯を背負い直す。
「申し訳ありません! 兄をお連れします!」
叫ぶように言い残し、優哉もまた夜の都の闇の中へと消えていった。
やがて――激動の熱は引き、周囲に静寂が訪れる。
そこに残されたのは、世界を揺るがす二つの超常のみ。
九尾の王。
そして、八神千鶴。
「……さて」
九尾は愉悦に満ちた笑みを深めた。
「存外、楽しめそうな奴じゃ」
言い落とすや否や、九尾は無造作に右手を天へと掲げた。
「――『轟雷』」
ゴロゴロゴロ……ッ!!
千鶴の頭上に途方もない暗雲が渦巻き、紫電が爆ぜた。
次の瞬間、天地を繋ぐ極大の稲妻が、千鶴の頭上へ向かって落とされた。
だが、千鶴の表情に焦りは一切ない。彼女は静かな所作で、一枚の白紙の呪符を頭上へと滑らせるように放った。
「――『封』」
パァンッ────!!
瞬間、落とされた稲妻は千鶴の頭上数センチの空間で無数の光の糸へと分解され、霧散するように消えていく。
千鶴はすっと細い眉を上げ、可憐に微笑んだ。
「ずいぶんなご挨拶ね」
「わらわたちなりの挨拶じゃろう?」
九尾もまた、凶暴な笑みを返した。
そして――ギリギリと音を立てて鋭い爪を伸ばす。
「……では」
千鶴もまた、純銀の錫杖を凛と上段に構えた。
「――始めましょうか」
風が止まった。
二人は一歩も動かず、互いの命の核心を射抜くような眼光で睨み合う。
先に静寂を破ったのは――九尾だった。
地を爆ぜさせて肉薄する九尾。
千鶴もまた、寸分の遅れもなく地を蹴り踏み込む。
ガキィィィンッ────!!!!
夜の都に、耳を突き刺すような鋭い高音が響き渡った。
伸ばされた漆黒の爪と、研ぎ澄まされた錫杖の刃が正面から激突する。
九尾の第二撃、第三撃の爪が閃光となって迫る。
千鶴は卓越した体術で錫杖を回転させ、すべてを受け流していく。そのまま身体を反転させ、最小限の軌道で反撃の一打を放つ。
九尾はそれを紙一重で首を傾けてかわす。
爪、錫杖、打撃、回避――。
刹那の刻の中で、二人は常人では視認すら不可能な領域の攻防を、数百回となく繰り広げた。
――そして。
トッ!
九尾がふっと可憐に身を翻し、大きく後方へ跳躍した。
「……ふむ」
壊壊された街並みを一通り見渡したクラマは、つまらなさそうに吐息を漏らした。
「興が覚めたわ」
「……何?」
「ここは狭すぎる。全力を出すにはいささか興ざめじゃ」
九尾は小さく細い指で、遙か遠方に夜の闇に霞む巨大な霊山――鞍馬山を指差した。
「あの山が見えるじゃろう?」
千鶴がその視線を追う。
「一週間後――」
九尾は邪気のない、けれど圧倒的な絶対者の笑みを浮かべた。
「あの山の麓で、もう一度相手をしてやる」
「……私から逃げる気かしら?」
千鶴が淡々と挑発する。
「まさか」
九尾はフッと鼻で笑った。
「お主、ここまで息も絶えだえに駆けつけて来たじゃろう?」
「……」
「胸の上下が収まっておらんぞ」
千鶴の肩が、わずかに、けれど確実に上下していた。
長距離を全速力で走破し、間髪入れずに結界を張り、攻防を繰り広げたのだ。疲労がないはずがなかった。
それでも彼女は、表情ひとつ崩さずに答える。
「……よく見ているのね」
「当然じゃ。わらわの眼を誤魔化せると思うな」
九尾は身を翻し、背を向けた。
「次は……万全の状態で来い」
それだけを言い残すと、九尾の王の身体は夜の闇に溶け込むように跳躍した。その残影は、一瞬にして森の深淵へと消え去っていった。
「……ふぅ……っ」
九尾の圧倒的な存在感が完全に消え去った瞬間。
千鶴は張り詰めていた緊張を解き、深く、長く息を吐き出した。
そして、糸が切れたように泥の上へと膝をつく。
「……とんでもない化け物ね」
月明かりだけが照らす静寂の中で、千鶴は手元の痺れを噛みしめながら、ぽつりと呟いたのだった。
――翌日。
帝の御座の前に、三人の退魔師が平伏していた。
皇綺羅、皇優哉。そして八神千鶴。
重苦しい沈黙が広間に満ちる中、帝が冷徹な口調で口を開いた。
「……失敗したようだな、綺羅よ」
「……申し訳……ございません」
畳に顔を押し付け、綺羅は屈辱に震えながら頭を下げた。
「余が問いたいのは、失敗そのものではない」
帝の声が格段に低く、重くなる。
「お前は己の功名心に目が眩み、配下の者たちを全滅させかけたそうだな?」
「……っ!!」
綺羅は唇を噛みちぎらんばかりに強く締め上げた。血の味が口内に広がる。
「お前には心底、失望した」
帝は静かに、けれど逃れようのない判決を下した。
「これより、皇家の当主の座は――弟の優哉とする」
「……えっ!? 僕が……ですか!?」
優哉が衝撃に顔を青ざめさせた。
「無理です! 僕には兄様のような強大な霊力も、家臣を率いる威厳もありません……!」
「その通りでございます!!」
綺羅が弾かれたように顔を上げ、悲鳴のような怒号を上げた。
「こいつに当主など無理だ! この軟弱者に、歴史ある皇家を背負えるはずがないっ!!」
「お前に意見を求めてはおらん」
帝は一切の感情を交えず、冷たく言い放った。
「……っ!?」
言葉を失い、絶望に打たれる綺羅。
「もうよい」帝は疲弊したように深いため息を吐いた。「お前にはほとほと愛想が尽きた」
帝は静かに御所の扉を指差した。
「去れ」
綺羅は殺意に満ちた眼光で優哉と千鶴を激しく睨みつけた。
だが、帝の絶対の威光の前には抗えず――。
ドン、ドン、ドン……ッ
重く荒々しい足音を廊下に響かせながら、そのまま闇の中へと去っていった。
「……まったく」帝は疲れたように目元を押さえた。「あやつは力と出世欲に目が眩みすぎている」
そして帝は、静かに平伏する千鶴へ温かな視線を向けた。
「九尾の件……頼んだぞ、千鶴」
「わかりました」
千鶴が深く頭を下げると、帝は静かにその場を後にした。
残された広い御所で、優哉は途方に暮れたように千鶴を見上げた。
「千鶴様……どうすれば……。僕なんかが、兄様の代わりになれるはずがありません……」
不安に揺れる優哉の瞳。
千鶴はそんな少年のもとへ歩み寄ると、優しく微笑みかけた。
「自信を持ちなさい、優哉殿」
「ですが……」
「あなたには……綺羅殿には決して持てなかった『人の痛みを知る心』があるわ」
千鶴は静かに彼の肩に手を置いた。
「それに、私も……八神の家も、できる限りあなたを支えるから」
「千鶴様……っ」
優哉は涙を拭い、力強く顔を上げた。
――この日を境界として。
皇綺羅という男は、都から姿を消した。
そして――約束の一週間後。
決戦の地、鞍馬山。
その過酷な山頂の巨岩の上に、二つの影が対峙していた。
九尾の王――
そして、八神千鶴。
吹き荒れる夜風が、千鶴の装束を激しくなびかせる。
九尾が狂暴かつ愛くるしい笑みを浮かべた。
「約束通り、逃げずに来たようじゃな」
千鶴は表情を変えず、錫杖を強く握り直す。
「ええ」
「まずは褒めてやろう。わらわの神威を前にして、足が竦まなかったことをな」
九尾の瑠璃色の瞳が、妖しく輝く。
「あら」千鶴はくすりと微笑んだ。「あなたこそ、一週間の間にどこかへ逃げ出してくれてもよかったのよ?」
「……ふっ」
「……ふふっ」
夜の静寂の中、二人の間に奇妙な絆を孕んだ笑みが浮かび上がる。
次の瞬間――。
「「さあ……殺り合おう(殺り合いましょう)っ!!!!」」
二人の声が、完全に重なった。
九尾の背後で、九本の尾が豪快に広がり、神々しいまでの妖気が爆ぜる。
千鶴の周囲には、無数の白紙の呪符が舞い散り、絶大な霊力が渦を巻く。
「――『轟雷』っ!!」
「――『三点轟雷』っ!!」
ズドドドドォォォォンッ────!!!!
二つの極大の雷撃が、鞍馬山の山頂で正面から激突した。
凄まじい閃光が夜空を真っ二つに切り裂き、衝撃波が山々の木々を激しく揺らす。
舞い散る粉塵と放電の火花の中で――。
ここから、九尾の王と八神千鶴。
千年の時を超えて語り継がれる、永遠の因縁の真の戦いが始まったのだった。




