第30話 神隠しの森の再会と、歪な勝負
「……ここが、『神隠しの森』の入口か?」
九十九は、定食屋の店主に書いてもらった簡易的な地図を広げ、目の前に広がる森を見上げた。
鬱蒼と生い茂る巨木群。昼間であるにもかかわらず木漏れ日はほとんど届かず、森の奥はまるで底なしの夜のように薄暗く沈み込んでいる。
「なんか……不気味な森ね」
聖良が眉をひそめ、警戒心を露わにする。その隣で、葉月が嫌味っぽく口元を吊り上げた。
「あら、怖いんだったら外で待っていてもいいのよ?」
「……なんですって?」
聖良の眉がピクリと跳ね上がる。
「聞こえなかった? 怖いなら――」
「誰が怖がっているっていうのよっ!!」
聖良が葉月の目の前まで詰め寄り、烈々たる眼差しで睨みつける。
「はいはい! そこまで!」
九十九が焦って二人の間に割り込んだ。
「お前ら、いい加減にしろよ……。睦月だって、こんなところで喧嘩なんて望んでないと思うぞ」
「……」
「……」
二人の表情が、同時にピキリと固まった。
『睦月』の名が出た瞬間、互いに言葉を詰まらせ、沈黙が場を支配する。やがて聖良が深々と小さく息を吐いた。
「……まあいいわ。まずは、この森を抜けるのが先決ね」
「……そうね」
葉月も静かに頷いた。三人は一列に並び、冷ややかな森の深淵へと足を踏み入れた。
しばらく進むと、周囲の景色が急速に白く染まり始めた。
木々の隙間から、蛇のように蠢く薄い霧が流れ込んでくる。
「……霧?」
九十九が呟く。最初は足元を覆う程度だった霧が、奥へ進むにつれて爆発的に濃くなっていく。あっという間に、視界は数メートル先すら判別できない白銀の闇に呑み込まれた。
「見失わないように、もっと近づきましょう」
聖良が警戒して二人との距離を詰める。すると――。
「ちょっと……近寄らないでよ」
葉月が嫌そうに肩をすくめた。
「はぁ!?」
聖良が振り返り、呆れたように声を上げる。
「こんな濃霧の中で離れて歩く方が危険でしょう!」
「だからって、そんな密着しなくても――」
「お前らいい加減にしろっ!!」
九十九が振り返り、堪忍袋の緒が切れたように怒鳴り散らした。
その瞬間だった。
ドンッ!!
「うわぁぁっ!?」
聖良が突然、九十九の背中を全力で突き飛ばした。
「痛っ……! 何するんだよ急に!?」
尻餅をついた九十九が叫ぶ。
「いいから、そこを見てみなさい!」
聖良が鋭い指先で地上を指し示した。
九十九が直前まで立っていた場所の近くにあった巨石。その表面が――まるで高熱の酸でも浴びせられたかのように、ドロリと黒く溶けて崩れ落ちていた。
「……何よ、これ……」
葉月が息を呑む。
聖良は周囲の気配を探りながら、低い声で告げた。
「油断しないで。霧が不自然に濃くなった場所に……潜んでいるわ」
「妖魔がか……!?」
九十九が黒刀に手をかけ直す。
「ええ」
三人が背中を合わせ、同時に周囲を警戒した。
すると――濃密な白霧の奥、そこだけが異常な渦を巻いていた。そしてその中心から、爛々と不気味に光る二つの赤黒い瞳が浮かび上がった。
「……そこかっ!!」
九十九は黒刀を抜き放ち、一気に踏み込んだ。
「はぁぁぁっ!!」
一閃。黒刀が霧を真一文字に切り裂く。
だが――手応えがない。空を切った感覚だけが手元に残る。
「……くそっ! 斬れない!?」
「九十九、危ない!!」
聖良が叫び、懐から瞬時に呪符を取り出した。
「雷っ!!」
呪符から放たれた青白い雷撃が、赤黒い瞳の浮かぶ濃霧へと一直線に走る。
バリバリバリッ!!
「ふぉぉぉぉっ!?」
霧の奥から、くぐもった妖魔の悲鳴が響き渡った。わずかに霧が後退する。
聖良は冷徹に目を細めた。
「なるほど……あいつには物理攻撃ではなく、法術しか効かないみたいね」
聖良は葉月へ視線を送る。
「あなたも法術が使えるでしょう?」
「炎術なら使えるけど……」葉月は気まずそうに純銀の錫杖を握り直した。「私の炎は、近距離でしか打てないのよ」
「……まったく、使えないわね」
「何よっ!?」
またしても二人の間で火花が弾ける。
「まあいいわ」
聖良は呆れたように溜息をつくと、三枚の呪符を取り出した。
「九十九もあなたも、役立たずは下がっていなさい」
「おいっ!?」
九十九の抗議を無視し、聖良が印を結ぶ。
「三点轟雷!!」
三枚の呪符から放たれた絶大な稲妻が、轟音とともに霧を突き抜け、妖魔を直撃した。
ズドォォォンッ!!
「ギィィィィッ!!」
妖魔の断末魔のような悲鳴。だが――霧は晴れない。
奥から、怒りを秘めた赤黒い瞳が再び揺らめきながら現れた。
「……ダメね」聖良の額に汗が滲む。「火力が足りないわ。いったん引くわよ!」
「ダメだ!」九十九が叫ぶ。「この後ろには風吹町がある! 逃がすわけにはいかない!」
「じゃあ、どうすればいいのよ!?」
「コン! この切破詰まった状況を打開させる策は何かないのか!?」
九十九が黒刀に念じた。すると脳裏に、コンの呆れた声が直接響いた。
『あるわけないだろう!』
「即答かよっ!?」
『豪鬼も実体のないものは斬れないの! あいつは霧そのものが本体みたいなものなんだから!』
「くっ……!」
九十九は歯を食いしばり、じりじりと後退した。
その時――。
ガサッ……。
「……?」
背後の草むらが揺れた。
ガサガサッ!
ドンッ!!
何かが九十九の背中に勢いよくぶつかった。
だが――その感触はどこか暖かく、小さく、そして妙に懐かしかった。
「……苦戦しているようじゃのう?」
背中越しに響く、聞き覚えのある高慢で愛くるしい声。
「九十九よ……」
背中合わせのまま、瑠璃色の瞳を愛おしそうに細めて――。
「やっぱり、わらわが居らんと駄目なようじゃのう?」
「……クラマっ!?」
九十九は目を丸くした。
久方ぶりに目にしたクラマの姿。だが、その小さな身体には無数の痛々しい傷があり、服も血で酷く汚れていた。
九十九は思わず叫んだ。
「お前だって血まみれじゃないか! 完全に苦戦してんだろっ!?」
「なっ……!?」
クラマがムッと狐耳を逆立てる。
すると、クラマが追われていた草むらから、血に飢えたあの長牙の妖魔がぬっと姿を現した。
九十九たちの前に立ち塞がる霧の妖魔と、クラマを追ってきた爪の妖魔。
「お前は……あんな薄っぺらな空気のような妖魔ごときに苦戦しておるのか?」
クラマが鼻で嘲笑う。
「お前だって、あんなヒョロ長い妖魔に苦戦してるじゃないか!」
「笑わせるでない!」クラマはぽんと胸を張った。「わらわなら、あんな霧のようなペラペラな奴、一瞬で焼き尽くしてやるわ!」
「俺だって、あんなヒョロ長い奴くらい一瞬で切って捨てられるね!」
「……ほう?」
「……やるか?」
二人の視線が背中越しに、交錯する。
静寂。そして――。
「「いいじゃろう(いいだろう)!!」」
二人は同時に、目の前のターゲットを『交差』させた。
九十九は黒刀を爪の妖魔へ、クラマは狐火を霧の妖魔へと向け直す。
クラマがにやりと不敵に笑う。九十九もまた黒刀を強く握り直した。
「じゃあ――」
「――競走じゃっ!!」
「競走だっ!!」
二人は同時に地面を力任せに蹴った。
「「どっちが先に叩き潰すか、勝負だっ!!!!」」
クラマと九十九。
二人の影が互い違いに交差し、相手の因縁の敵へと同時に飛び込んでいく。
その猛烈な突撃の背中を見送りながら、宙に浮かぶ雷弧が呆れたように呟いた。
「……あいつら、仲直りしたのかな?」
水弧がクスクスと嬉しそうに苦笑する。
「たぶん……あれが二人なりの、一番素直な仲直りの方法なんだよ」
「よし! 俺たちも遅れるな、行くぞっ!!」
炎弧が興奮気味に叫び、尻尾の炎を爆発させた。
――深き神隠しの森。
絶望を吹き飛ばすように、九十九とクラマによる、ハチャメチャで熱い反撃の狼煙が上がった。




