第29話 神隠しの森の死闘と、賑やかな三人旅
「ふふふふっ……」
妖魔は肩を揺らし、心底可笑しそうに笑い声を漏らした。
「九尾の王なんて大層な名だからどんな奴かと思えば……こんなに弱いとはね」
赤黒く濁った瞳が、屈辱に震えるクラマを嘲笑うように見下ろす。その言葉に、クラマの頭上で狐耳がピクリと跳ね上がった。
「……お主、何者なんじゃ?」
「僕?」
妖魔は指先を己の胸元に向け、心から楽しそうに目を細めた。
「僕は美麗様に作られた、特別な個体だよ」
「……美麗?」
首を傾げるクラマの耳元へ、雷弧がふわりと寄り添い、小さな声で囁いた。
「……クラマ、あの鎌鼬の里で九十九たちをハメた、あの不気味な女のことだ」
「……あ奴か……!」
真相を理解した瞬間、クラマの表情がみるみるうちに般若のごとき凶相へと変わる。
「あやつめ……次会った時は、絶対に引き裂いて殺してやるのじゃ……っ!!」
爪をギリギリと噛み締め、低い怒号を漏らすクラマに、雷弧が呆れたようにツッコミを入れた。
「クラマ、私怨は後だ! 今は目の前の敵に集中しろ!」
「分かっておるわ!」
クラマは鋭い眼光で目の前の異形を射抜いた。
「……それで? お主は一体何者なんじゃ?」
「僕は最強の妖魔さ」
妖魔は誇らしげに胸を張る。
「美麗様の手によって、あらゆる『妖力』そのものを無効化し、受け流す身体として造り上げられたんだ」
「妖力を……受け流すじゃと……!?」
「そう」
妖魔はニヤリと二本の長牙を覗かせた。
「だから君の属性術は、僕には何ひとつ効かない」
「……ふん、ずいぶん素直に種明かしをするものじゃな」
クラマが吐き捨てるように言うと、妖魔はさらに愉悦を深めて一歩足踏みを進めた。
「だって――君は僕に傷ひとつすら付けられないんだから」
「……っ!」
煽り立てる言葉に、クラマの額に青筋が浮かぶ。
「クラマ! 挑発に乗るな!」
雷弧が制止の声を張るが、クラマは怒りで全身の毛を逆立てていた。その横で、水弧が冷静な目で妖魔の挙動をじっと観察していた。
「……ねえ、みんな」
「どうした、水弧?」
「さっきからあの妖魔……僕たちの『位置』を目でしか認識してないんじゃないかな?」
水弧の指摘に、雷弧がハッと息を呑む。
「なるほど……音や匂いではなく、視覚情報に頼り切っているのか……!」
「だったら――これでどうだ!!」
水弧が両手を広げると、周囲の空間から猛烈な勢いで水蒸気が噴き出した。
ブワァァァッ!!
一瞬にして濃密な白い霧が視界を埋め尽くす。木々も、巨岩も、そしてクラマの小さな身体も、瞬く間に白い闇の向こう側へと姿を消した。
「……?」
妖魔が赤黒い目を蠢かせ、周囲を見回す。
「どこへ行った……?」
その隙を逃さず――。
「ここじゃァッ!!」
「なっ――!?」
霧に隠れた死角から、クラマが弾丸のように飛び出した。
ザシュッ!!
研ぎ澄まされた鋭爪が、妖魔の胸元を斜めに深く切り裂く。鮮血が白い霧の中に散った。
「このようなものじゃ!!」
鮮やかに着地を決めたクラマは、ふんっと鼻を鳴らして胸を張る。
「どうじゃ、参ったか!」
だが――。
「……なるほどね」
切り裂かれたはずの妖魔の胸の傷が、肉片を蠢かせながら一瞬で塞がっていく。妖魔は何事もなかったかのように立ち尽くしていた。
「……なっ!?」
「だんだん分かってきたよ」
赤黒い瞳が、霧の奥に潜む気配を捉える。
「君は僕の気配を察知して、僕の死角から攻撃しているんだね?」
次の瞬間、妖魔の姿が霧の中に掻き消えた。
「これが気配なんだね――僕も君の気配を辿ればいいだけの話だ!!」
「くっ……!?」
背後から迫る影に、クラマは咄嗟に爪を交差させてガードに入った。
ガキィィンッ!!
重戦車のような重撃が両腕を襲う。
「ぐっ……あぁっ!?」
威力を殺しきれず、クラマの小さな身体は砲弾のように吹き飛ばされた。
ドゴォォン!!
背中から太い大木に激突し、木々が枯れ葉を散らす。
「クラマっ!!」
三体の狐精霊たちが悲鳴を上げる。クラマは肩で激しく息をつきながら、泥を払って立ち上がった。
(……ちと)
流れる血を拭いながら、クラマは目の前でゆらりと揺れる異形を睨み据えた。
(……やばいかもしれんのう……)
その頃――九十九たちは、N県風吹町の駅前に到着していた。
「……ちょっと、何よこの地図!」
駅前のベンチで地図を広げていた聖良が、思わず眉をひどく寄せて声を上げた。
「全然役に立たないじゃないの!」
「仕方ないだろ」
九十九が困り顔で頭を掻く。
「古い地図なんだからさ」
「だったら、どうやって探すのよ!? 目印らしいものなんて何ひとつ書かれていないわ!」
「とりあえず歩いて探せばいいじゃない」
横から葉月が気楽な調子で口を挟んだ。聖良はゆっくりと首を曲げ、冷ややかな視線を葉月へ向ける。
「……じゃあ、どっちに向かって歩く気かしら?」
「え?」
葉月は周囲の景色を見回すと、自信満々に山先を指差した。
「あっちよ! あの山!」
「……馬鹿じゃないの?」
聖良が心底呆れたように溜息を吐く。
「なによ!?」
「山がどれだけ広いと思っているのよ。あてもなく踏み入って遭難する気?」
「なによ……喧嘩売ってるわけ?」
葉月が身を乗り出すと、聖良も負けじと一歩前へ踏み出した。
「売ってるんなら、買ってあげるわ」
額がぶつかりそうなほどの距離で、二人の間につむじ風が巻き起こる。バチバチと不可視の火花が散り散りに弾けた。
「ちょっと待てって!」
九十九が慌てて二人の間に割って入る。
「今は喧嘩してる場合じゃないだろ!?」
「「じゃあ、どうするのよっ!!」」
二人から同時に怒声で睨みつけられ、九十九は冷や汗をダラダラと流した。
「……あ、あそこの食堂で飯でも食べながら、店員さんに聞き込みしてみようぜ」
「「……ふんっ!」」
九十九の提案に、二人は同時にそっぽを向いて鼻を鳴らした。
(……やっぱりめちゃくちゃ仲悪いな……)
九十九は胃の痛みに耐えながら、駅前の小さな定食屋の暖簾をくぐった。
運ばれてきた熱々の野菜炒め定食を、葉月が半信半疑で一口食べる。
「……なにこれ」
葉月は目を丸くした。
「美味しい……!」
向かいに座る聖良も静かに箸を進めると、表情を緩めた。
「……本当ね。味が染み込んでいるわ」
先ほどまでの険悪さが嘘のように、黙々と箸を進める二人。その様子を見て、配膳していた店主の女性が嬉しそうに微笑んだ。
「美味しく食べてくれてありがとうねぇ」
食事が一段落したところで、九十九が身を乗り出して店主に尋ねた。
「あの、すみません。この辺りに昔から祀られているような、大きな岩って心当たりありませんか?」
「大きな岩……?」
店主は少し顎に手を当てて考え込んだ。
「そうねぇ……あるにはあるわよ」
九十九の瞳が輝く。
「本当ですか!?」
「ただし――」
店主の表情が急に重く曇った。
「『風吹の森』を通らないと、そこには行けないわ」
「風吹の森……?」
「ええ。昔は一年中、心地よい風が吹き抜ける森だったんだけど……」店主は声を潜めた。「今じゃすっかり『神隠しの森』なんて呼ばれているの」
「神隠し……ですか?」
「深い霧が年中立ち込めていてね。一度入った人間が誰一人戻ってこないっていう噂なのよ。だから今じゃ、誰も近づかないわ」
九十九は少し思考を巡らせた後、力強く頷いた。
「その場所への行き方を教えてください」
「本当に行く気かい……?」
「ええ、どうしても確かめなきゃいけないことがあるんです」
九十九の真っ直ぐな目を見た店主は溜息を吐くと、小さなメモ用紙に簡易的な地図を書き込んでくれた。
「……気をつけるのよ。ここから森へ抜ける道筋を入れておいたから」
「ありがとうございます!」
九十九がメモを受け取り、よしと立ち上がろうとしたその時――。
「ねえ、おばさん」
葉月が店主へおねだりするように声をかけた。
「最後にクレープが食べたいわ!」
「クレープかい? うちは定食屋だからねぇ……代わりにバニラアイスならあるけど」
「アイス!?」
葉月の目が爛々と輝いた。
「食べるわ! 私それ食べたい!」
「私もいただくわ」
聖良も間髪入れずに手を挙げた。
「おい……」
九十九が呆れ顔で二人を見る。
「さっき満腹になるまで飯食ったばかりだろ?」
「甘いものは別腹よ」
「常識でしょう?」
二人の完璧なハモりに、九十九は返す言葉を失った。
ほどなくして運ばれてきたアイスを、二人はパクリと口に運ぶ。
「……っ!」
「美味しいわ……!」
二人の声が、今度は完璧なシンクロを見せた。互いに目を輝かせながらアイスを口に運ぶ姿に、九十九は思わず苦笑いを浮かべる。
「……なんだよ、お前ら」
「「何よ?」」
同時に冷たい視線で睨み返され、九十九は身を縮こまらせた。
「いや……何でもないです……」
二人が嬉しそうにアイスを食べ終えるのを待ち、九十九は立ち上がった。
「よし、今度こそ出発しようぜ」
九十九が声をかけると、二人は示し合わせたかのように、じーっと九十九を冷ややかな目で見つめてきた。
(……な、なんだよ……)
九十九は思わず目を逸らし、誰にも聞こえない声で小さく呟いた。
(……食い物がかかった時だけは、妙に息ぴったりなんだからな……)
握りしめた手の中には、神隠しの森への道標を頼りに、九十九たちは歩みを進めるのだった。




