第28話 封印石の異形と、赤き牙
「……ぬう、つまらぬ。強い妖気も、歯ごたえのありそうな面倒事も一向に見当たらんぞ」
落ち葉が舞う山道を歩きながら、クラマは退屈そうに小さな肩をすくめ、盛大な溜息を吐き捨てた。その頭上で、狐の耳が不満そうにペタリと伏せる。
「そんな都合よく、強い妖怪なんて転がってるわけないでしょ」
クラマの傍らを浮遊する水弧が、水球を揺らしながら呆れたように呟く。
「面白くねぇなぁ……。一暴れさせてくれねぇと身体が鈍っちまうぜ」
炎弧もあくびを噛み殺しながら、退屈そうに周囲の木々を見回していた。
その時――。
「あっ! おいクラマ、そこに人間がいるぞ!」
炎弧が突然、尻尾の先をボッと燃やして声を上げた。
「何じゃと!?」
クラマが勢いよく振り向く。少し離れた山道の脇に、柴刈りの背負子を背負った一人の老人が立ち尽くしていた。クラマは途端に爛々と目を輝かせると、小さな身体でタッタッと駆け寄った。
「おい、そこにおる爺さん!」
「な、なんじゃ……?」
突然目の前に現れた耳と尾を持つ若い少女に、老人は面食らったように目を丸くする。クラマは老人の前に立つと、ぽんっと小さな胸を張った。
「お主、何か困っておることはないか?」
「……困ったこと……とな?」
「そうじゃ。凶悪な妖怪でも恐ろしい化け物でも、何でもよい! わらわの手を借りたいほどの悩みはないのか!?」
老人はしばらく、鼻息荒く見上げてくるクラマの可愛らしい顔を見つめ――やがて、ぷっと噴き出した。
「……ふふ、いやいや、元気なお嬢さんじゃのう」
「笑っておらんで早く答えんか!!」
クラマがプッと頬を膨らませて怒る。老人は破顔しながら、山奥の深い樹海を愛おしそうに指差した。
「そういえば……あの山の麓に、昔から大きな岩があるんじゃ」
「岩……?」
クラマの狐耳がぴくりと跳ね上がった。
「昔から集落の御神体として祀られている大きな岩なんじゃが……数年前から、そこで人を襲う怪異が出るようになってのう。村の者も気味が悪がって近づけなくなってしまった。まあ……お嬢さん一人では、どうにもならんじゃろうが」
老人が言い終わるより早く、クラマの口元がぐにゃりと不敵に吊り上がった。
「……でかしたぞ、爺さん!」
「へ?」
「その化け物、このわらわが叩き潰してやるのじゃ!」
それだけ叫ぶや否や、クラマは風を切って山奥へと弾け飛ぶように駆け出した。
「お、お嬢さん!? 危ないからやめておきなさいっ!!」
背後から届く老人の制止の声を置き去りにし、クラマの足取りはどんどん速度を増していく。
「こんなところで『封印石』のありかが判明するなんて、クラマはついてるね」
水弧が嬉しそうにクラマの頭上を泳ぐ。
「これでまた九十九たちのやつらと巡り合えるかもしれないな」
雷弧も小さく笑った。だが、クラマは振り返りもせずに叫び散らす。
「ふん! 九十九の腑抜けなど、どうでもよいわ! わらわはその化け物をひねり潰す方が100倍楽しみなのじゃ!」
「まったく……相変わらず素直じゃないんだから」
雷弧が呆れたように溜息をつく。
「九十九が追いついて来る前に、さっさとその化け物を倒しておくのじゃ! そして奴が遅れてやって来たら、こう言ってやるのじゃ!」
クラマは胸を張り、偉そうに指を突き出した。
「『遅いぞ、馬鹿者め!』とな!」
「はいはい」
「分かった分かった」
「好きにしろよ」
雷弧、炎弧、水弧の三人は、息の合った呆れ顔で声を揃えた。
山道を深奥へと進むにつれ――周囲の空気が急速に変質していった。
「……やけに静かだね」
水弧が不穏な気配を感じ取り、声を潜める。
風が木々を揺らす葉擦れの音すら失われていた。鳥のさえずりも、虫の鳴き声も一切聞こえない。まるで空間そのものが世界から切り離され、死界へと変貌したかのような静寂。
「つまんねぇな。あの爺さん、出鱈目を言ったんじゃねぇだろうな?」
炎弧が退屈そうに肩を竦める。
「いや……馬鹿を言うな」
雷弧が厳しい眼光で密林を見回す。
「静かすぎるんだ。まわりの下等な妖魔どもが、恐怖で逃げ出すほどの『何か』がこの奥に居座っている」
「……」
クラマの足が、ピタリと止まった。
「……どうやら、当たりのようじゃのう」
目の前の木々が途切れ、開けた空間が広がる。
その中央に――神聖な注連縄を巻き付けられた、巨大な『封印石』が鎮座していた。長い年月にわたって人々に祀られてきた古の霊石。
「間違いない……封印石じゃ」
クラマが呟く。
しかし――その巨大な岩の前に、異質な影がたたずんでいた。
人間に似た二足歩行の影。だが、その醸し出す気配に触れた瞬間、クラマたちは息を呑んだ。
爛々と輝く赤黒い瞳。
肉食獣のように縦へ細く裂けた不気味な瞳孔。
そして――。
「……おい」
炎弧が低く、引きつった声を漏らす。
「こいつ……妖魔のくせに、どこか吸血鬼みたいな気を纏ってやがるぞ」
異形の妖魔が、ニヤリと口元を歪めた。
その唇の間から覗くのは――生き物の血を啜るための、二本の鋭利な長牙。
「……っ!!」
クラマが目を細め、身構える。
妖魔は嘲笑うように腕を振ると、その両指先から漆黒の太い爪をスッと引き伸ばした。
「来るぞ!!」
雷弧が叫んだ瞬間――。
ドンッ!!
大気が爆ぜ、妖魔の姿が一瞬で消失した。
「なっ――!?」
次の瞬間には、クラマの目と鼻の先に妖魔の狂気を帯びた顔が接近していた。
「くっ……!!」
クラマも瞬時に己の鋭爪を伸ばし、迎え撃つ。
ガキィィンッ!!
爪と爪が衝突し、凄まじい衝撃波が落ち葉を吹き飛ばす。
(速い……ッ!?)
ミシミシと押し込まれ、クラマは後方へと大きく弾き飛ばされた。
妖魔は着地の隙すら与えず、残像を残して肉薄してくる。
ガンッ! ガキンッ! ガンッ!!
漆黒の爪が激しい連撃となってクラマを襲う。クラマは自身の爪で必死に防ぐが、その威力を前に完全に防戦一方へと追い込まれていた。
「こいつ……速すぎるよ!」
水弧が叫ぶ。
「ならば――これならどうだ!」
水弧が両手を広げ、己の妖力を解放した。
瞬間、周囲一帯に濃密な白い霧が爆発的に立ち込める。
「これで視界を奪う!」
視界を完全に遮る純白の霧。妖魔の動きがピタリと止まった。
「……動きが止まった?」
クラマが身を低くし、霧の奥を浮かべ窺う。
「いや、違う!」と雷弧が分析する。
「あいつは音や気配ではなく、目視の感覚に依存して俺たちを追っていたんだ!」
「今のうちに離れて、距離を取って!」
水弧の叫びに応じ、クラマは素早く後方へ飛んで間合いを確保した。
そして――三本の尻尾のうち一本が、激しい青白い電撃を帯び始める。
バチバチバチバチッ!!
「食らうがよい……『轟雷』っ!!」
クラマが叫び、小柄な腕を妖魔の潜む暗雲へ突き出した。
ズドォォォォンッ!!!!
天から落とされた巨大な雷柱が地表を穿ち、妖魔の身体を真上から打ち砕いた。大地が激しく揺れ、舞い上がった土煙が視界を覆い尽くす。
「ふん……手間を取らせおって」
クラマは肩を軽く回しながら立ち上がり、不敵な笑みを浮かべた。
「もう終わりじゃ――」
「待って、クラマ!」
水弧の悲鳴のような制止。
「……なんじゃ?」
クラマが足を止めた。
風が吹き、砂煙が徐々に晴れていく。
そこには――。
「……っ」
落雷の直撃を受けたはずの場所に、傷一つ負っていない妖魔が平然と立っていた。その口元には、変わらず薄気味悪い嘲笑が浮かんでいる。
「なん……じゃと……!?」
クラマの顔が強張る。
「今の雷撃……まともに命中したはずなのに……っ!?」
雷弧も言葉を失っていた。
「……だが、まだ終わってはおらん!」
クラマは強気に爪を構え直した。
「ならば、至近距離で直接叩き込んでやるまでじゃ!!」
大地を強く蹴り、一瞬で妖魔の懐へと潜り込む。
「『雷震』っ!!」
クラマは幼い掌を、妖魔の胸元へ直接叩きつけた。
バリバリバリバリッ!!
凄まじい密度の電撃が、妖魔の体内へと直接侵入し、駆け巡る。
だが――。
(……効いて……いない……!?)
クラマの目が見開かれる。
妖魔は苦悶の表情どころか、微動だにしていなかった。
「なっ――」
次の瞬間。
ズシュッ!!
「ぐわぁぁぁぁぁっ!?」
妖魔の漆黒の爪が、クラマの右肩を深々と貫いた。
鮮血が夜空に舞う。
クラマは激痛に耐えかねて後方へと飛び退き、右肩の深い傷を強く押さえた。
「クラマっ!!」
雷弧たちが悲痛な叫びをあげる。
クラマは激痛に顔を歪ませながらも、血に濡れた目で妖魔を強く睨みつけた。
「……なるほど」
妖魔は余裕の足取りで、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「お前……なかなか楽しませてくれるではないか」
クラマの瞳に、激しい闘志の炎が宿る。
「ならば――」
炎弧の叫びが響き渡る。
「跡形もなく焼き尽くしてやるぜっ!!」
クラマの二本目の尻尾が、紅蓮の炎に包まれた。
「『轟炎』っ!!」
ゴォォォォォォッ!!!!
クラマの口から吐き出された巨大な炎の奔流が、妖魔の全身を呑み込み、周囲の密林ごと激しく照らし出した。
「……ふう」
クラマは小さく息を吐き出した。
「これで……どうじゃ」
燃え盛る炎がゆっくりと収まっていく。クラマは勝利を確信したように笑おうとした。
だが――。
炎の残滓の向こうから、静かに影が歩み出てくる。
「……嘘だろ……」
雷弧が震える声で呟いた。
完全に炎が消え去ったそこに立っていたのは――焦げ跡一つない、完璧な姿の妖魔だった。
「……どうすればいいんだよ……っ!!」
雷弧の声が絶望に震える。
妖魔は何も語らない。ただゆっくりと、獲物を追い詰める獣の足取りでクラマへと歩み寄ってくる。一歩。また一歩。
赤黒い瞳が、獲物を屠る絶好の瞬間を狙っていた。
クラマは右肩から溢れる血を無造作に拭うと――。
「……ふふっ」
不敵に、そして狂暴に笑った。
「久しぶりじゃのう……」
迫る異形を見据え、クラマは再び鋭爪を突き出す。
「ここまで手強い奴と出会うのは……!!」
その攻防の瞬間――。
――目の前の異形の妖魔は勝ち誇ったように、口元を醜く歪めて笑っていた。




