第3話 旅立ちの刻
「……先生……どうして……?」
震える声が、冷たい夜の静寂へと溶けていく。
九十九の問いに、担任教師は答える代わりに、肩をくっくっくっと震わせて低く笑い始めた。
「ははっ……くかかか、はははははっ!」
次の瞬間、先生の全身が禍々しい黒い靄に包まれる。
靄が晴れたそこに立っていたのは、もはや人間などではなかった。
肌は浅黒く変色し、口元からは鋭い二本の牙が覗いている。
赤く血走った瞳は獣のように細く裂け、その全身からは周囲の空気を歪めるほどの圧倒的な威圧感が放たれていた。
「……我が名は――ヴァンパイアロード・カイン」
カインは妖しく口角を上げると、
「せめて愛しい女に殺されるなら、おまえも本望だろう?」
そう呟き、由香の華奢な肩へそっと手を置いた。
ゆっくりと顔を上げた由香の肌は、死人のように雪のごとく白く染まり、瞳は深い血の赤へと変貌していた。その小さな口元からも、鋭い牙が覗いている。
「……由香」
九十九は金縛りに遭ったように一歩を踏み出す。
しかし、由香の虚ろな赤き瞳には、もう九十九の姿は映っていなかった。
「あいつを殺せ」
カインが静かに命じる。
その言葉だけを残すと、彼の姿は黒い霧へと姿を変え、夜の闇へと消えていった。
次の瞬間――
「グルルルル……!」
地獄から響くような獣の唸り声を上げ、由香が凄まじい速度で九十九へと跳びかかってきた。
「由香っ!!」
九十九が思わず黒刀を構えた、その瞬間だった。
刀身から漆黒の無数の腕が這い出し、九十九の意思を無視して勝手に動き始める。
ザシュッ――――!!
「うあぁぁぁっ!?」
鋭い斬撃が、由香の胸元を容赦なく切り裂いた。
夜空に散る鮮血。
由香は数歩よろめいたものの倒れることはなく、胸を押さえながら獣のような低い呻き声を漏らす。
「うぅぅぅ……っ」
「やめろ……頼むからやめてくれ!」
九十九は必死で左手を重ね、黒刀の暴走を押さえつけようとした。
「由香を……俺の幼なじみを傷つけるなっ!!」
その瞬間、頭の中に濁流のごとく無数の怨嗟の声が流れ込んできた。
『憎い……』
『殺せ……!』
『私の子どもを……返して……!』
脳を直接焼き切るような絶叫の叫び。
黒い腕はさらに九十九の肉体へ絡みつき、禍々しい黒い痣が全身の皮膚へと広がっていく。
「ぐぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
あまりの激痛に、九十九の意識はそのまま真っ暗な闇へと沈んでいった。
――ドォォン!!
強烈な衝撃が全身を襲い、九十九は蔵の壁へと激しく叩きつけられた。
手から離れた黒刀が、カランと虚しい音を立てて床を転がる。
「ぐっ……あ……っ」
激痛に耐えながら、ゆっくりと目を開く。
目の前に立っていたのは、胸から血を流した由香だった。
しかし、その佇まいは先ほどまでとは明確に異なっていた。
艶やかな黒髪は神秘的な銀色へと変貌し、血のように赤かった瞳は、吸血鬼のそれではなく、透き通るような瑠璃色へと染まっている。
「……馬鹿者」
由香の口から漏れたのは、どこか凛とした威厳のある少女の声だった。
「いい加減、正気へ戻れ」
九十九は目を見開く。
「……お前……瑠璃姫……なのか?」
銀髪の少女――由香の身体を借りた瑠璃姫は、静かに首を縦に振った。
「われがこの娘の精神を内側から抑え込んでいる。……だが、吸血鬼の毒に侵されたこの身体を抑え込める時間など、そう長くはないぞ」
「どうすれば……どうすれば由香を助けられるんだ!?」
九十九は立ち上がり、すがるように叫ぶ。
瑠璃姫は真っ直ぐに九十九の瞳を見つめ返し、静かに告げた。
「残る九つの封印を解き、この黒刀の力を……完全なものへと戻すのじゃ」
その瞬間。
「馬鹿を言うなっ!!」
蔵の中に激しい怒声が響き渡った。
転がっていた黒刀の傍らに、いつの間にか黒狐が姿を現していた。
「封印をすべて解くという意味が分かっているのか!?」
金色の瞳を釣り上げ、黒狐は瑠璃姫を激しく睨みつける。
「九尾の王が完全に復活してみろ! この国……いや、世界が滅びるぞ!!」
対する瑠璃姫は、眉ひとつ動かさずに言い返した。
「では、お主に聞く。今の弱り切ったお主たちに、あのヴァンパイアロードを倒す力があるとでも言うのか?」
「それは……っ」
黒狐は絶句する。
「このまま放っておけば、この娘は完全に吸血鬼と化し、いずれ人を喰らう本物の怪物となる。……それでもよいと言うのか?」
重い沈黙が、蔵の冷たい空気を支配する。
九十九は強く拳を握り締め、深く息を吐くと、ゆっくりと口を開いた。
「……俺は」
二人の視線が九十九へと集まる。
「黒刀の力を、集める」
黒狐は耳を疑うような顔をした。
「お、お前……本気で言っているのか!?」
九十九は瑠璃姫をまっすぐに指差した。
「九尾の封印も、黒刀の封印も、全部解く」
「なっ……!?」
「そして最後には――」
九十九は床に転がる黒刀へと視線を落とし、力強く言い放った。
「俺が……お前を倒せばいいだけの話だ」
静寂。
そして――
「ふふっ……あはははははっ!」
瑠璃姫は、お腹を抱えて可憐に笑い出した。
「面白い……真に面白い人間じゃ!」
瑠璃色の瞳に、初めて真意の混じった笑みが宿る。
「よいだろう。その時が来るまで、わらわも力を貸してやるぞ」
「おい……待て……それはあまりにも危険すぎる流れだろ……」
黒狐は前足で額を押さえ、頭を抱えるように呟いた。
そんな狐の様子に、九十九は苦笑いを浮かべる。
「嫌なら、お前はついて来なくてもいいぞ?」
「何を言うか!」
黒狐はカッと目を見開き、フサフサの尻尾を逆立てた。
「俺は黒刀に宿る付喪神だぞ! 俺がいなければ、お前のような素人に黒刀が扱えるはずがないだろう!」
「そうか」
九十九は少しだけ思案するような素振りを見せ、
「じゃあ、今日からお前の名前は『コン』な」
と言った。
「……は?」
「コン」
「ふざけるなぁぁぁぁっ!!」
蔵の中に、黒狐の情けない絶叫が響き渡った。
――その時だった。
ガラリ、と静かな音を立てて、由香の家の玄関扉が開いた。
暗闇の中から、一人の男が静かに姿を現す。
「……おじさん」
由香の父親だった。
九十九は胸を痛め、深く深く頭を下げる。
「ごめんなさい……俺……由香を守れませんでした……!」
だが、叔父は九十九を責める素振りすら見せなかった。
無言のまま、手に持っていた小さめの黒い細長い袋を九十九へと放り投げる。
受け取って中を開くと、そこには束になった札束と――月光を弾く黒刀の『鞘』が入っていた。
「これ……どうしておじさんが、黒刀の鞘を……?」
叔父は淡々とした声で答える。
「今のお前に、絶対に必要な物だからだ」
そして由香へと歩み寄ると、首元へ一筋の瑠璃色のペンダントを掛けた。
「由香を頼むぞ……クラマ」
その瞬間、瑠璃姫の表情が氷のように固まった。
「……なぜ、われの真の名を知っておる?」
叔父はそれに答えることはなかった。
ただ九十九へと視線を向け、静かに言葉を紡ぐ。
「東へ行け」
「え……?」
「東へ辿り着けば、お前は世界の『真実』を見ることになる。自分の目で見て、自分の心で感じ、お前自身の答えを見つけるんだ」
叔父はほんの少しだけ、温かい笑みを浮かべた。
「由香を……頼んだぞ、九十九」
そう言い残すと、叔父は深く追求を許さない背中で、静かに家の中へと戻っていった。
九十九はその背中に向かって、深く一礼した。
腰に鞘を収めた黒刀を差し、由香の身体を借りた瑠璃姫、そして黒狐のコンと共に、うっすらと白み始めた東の空を目指して歩き始める。
こうして――世界の運命を大きく揺るがす、長い旅が幕を開けたのだった。




