第2話 封印解除と赤き月夜
「……お前は、一体何者なんだ」
異様な空気に飲まれ、息を詰まらせながら九十九は檻の中の少女を見つめた。
少女は檻の木格子を両手で強く握りしめ、吸い込まれそうな瑠璃色の瞳をウルウルと潤ませてみせる。
「わらわの名は瑠璃姫。……愚かで悪しき人間どもによって、こんな狭い檻へ封じられてしまったのじゃ……」
可憐に肩を震わせ、弱々しい声でそう告げると、彼女は檻の入り口に深く突き刺さる一本の黒刀へ切ない視線を向けた。
「お願いじゃ……その黒刀を抜いて、わらわを助けてはくれぬか?」
「…………」
九十九は言葉を失ったまま、導かれるようにゆっくりと黒刀へ足を向けた。
怪しいとは思いつつも、その少女の儚げな瞳に心を毒されていたのかもしれない。
――その時だった。
「……お前は馬鹿か」
低く、冷ややかな声が蔵の暗闇に響き渡った。
九十九が驚いて振り向くと、檻のすぐ脇、積み上げられた古い木箱の上に一匹の黒狐が座っていた。
夜の闇を溶かし込んだような漆黒の毛並みに、妖しく輝く金色の双眸。
どう見ても、ただの野生動物ではない。
「……き、狐が喋った……!?」
呆然と声を漏らす九十九を完全に無視し、黒狐はしなやかな動作で跳躍すると、黒刀の柄の上に軽やかに降り立った。
「騙されるな。こいつは九尾の王だ」
黒狐の鋭い金色の瞳が、檻の中の瑠璃姫を射抜く。
「かつて、この国に暮らす人間すべてを喰らい尽くそうとした恐ろしい大妖……その果てに、この場所へ封印された存在だぞ」
ぴんと静まり返る蔵の中。
「……そんな化け物を、お前は解き放つつもりか?」
黒狐の冷酷な問いかけが脳裏に突き刺さった瞬間、九十九は膝の力が抜け、その場にすてんと尻もちをついた。
「チッ……くそっ、あと少しだったのに……!」
さきほどまでの可憐な表情を一変させ、瑠璃姫は心底悔しそうに唇を噛みしめる。
黒狐はあからさまに深くため息をついた。
「……もう帰れ。お前が無闇に立ち入って蔵の封印を緩めたせいで、外へ嫌な気配が漏れ始めている」
「っ……!」
九十九は一言も言い返すことができなかった。
恐怖と混乱に突き動かされるまま、逃げるように蔵を飛び出し、自分の部屋の布団へと潜り込んだ。
心臓がうるさいほど脈打ち、頭の中はぐちゃぐちゃに混乱していた。
翌朝。
「九十九ー! 起きなさーい!」
バタンッ!と勢いよく部屋の扉が開く。
毎朝恒例となっている、幼なじみの暴力的モーニングコール――のはずだった。
「……あれ?」
部屋に飛び込んできた由香が、きょとんと目を丸くする。
九十九はすでに完璧に制服に着替え、ベッドの端に腰かけたまま、虚空の一点を見つめていたのだ。
「どうしたの? 珍しい……っていうか、顔色悪いよ?」
「……原因が、分かった」
掠れた低い声で九十九が呟く。
「夜中の歌だ」
「え?」
九十九は極めて真剣な表情のまま、まっすぐに由香の目を見た。
「お前んちの蔵の中にさ……化け物と、喋る黒い狐がいて……そこで歌ってたんだよ」
一瞬の静寂。
そして――
「ぷっ……くす、あはははははっ!」
由香は腹を抱えて爆笑し始めた。
「な、なに言ってるのよ! どんな奇妙な夢見たの!?」
「夢じゃねぇ! 本当なんだって! マジでこの目で見たんだよ!」
「はいはい。じゃあ、そこまで言うなら証拠見せてよ!」
あまりの剣幕に押された由香の一言により、二人は学校へ行く前に中庭の蔵へと向かうことになった。
由香はためらう様子もなく、蔵の重い扉をぐっと押し開ける。
ギィィ……
九十九はゴクリと唾を呑み込み、恐る恐るその内部を覗き込んだ。
「……え……?」
そこに広がっていたのは、ごくありふれた古びた物置の光景だった。
錆びた農具、ホコリをかぶった木箱、古い家具が雑然と並んでいるだけ。
巨大な木の檻も、黒く美しい刀も、瑠璃姫も黒狐も――どこにも存在しなかった。
「そんな……嘘だろ……!? 絶対ここに……!」
呆然と立ち尽くす九十九の横で、由香は呆れたように肩をすくめる。
「嘘なのは九十九の頭の中でしょ。ほら、バカなこと言ってないで学校行くよ」
そう言って、由香は強引に九十九の腕を引っ張った。
神和中学校の教室の扉を開ける。
「あら、今日は珍しく遅刻じゃないのね」
まるで待ち構えていたかのように、生徒会長の白鳥聖良が腕を組んで立っていた。
だが、今の九十九には彼女に言い返す気力すら残っていない。返事もせず、ふらふらとした足取りで自分の席へと向かい、ぽつんと座り込む。
まるで魂がどこかへ抜けてしまったかのようだった。
「……あいつ、一体どうしたのよ?」
怪訝そうな顔をした聖良が由香に尋ねる。
由香は困ったような苦笑いを浮かべて答えた。
「なんか、変な夢でも見たらしくて」
その言葉に、教室内に小さなクスクス笑いが広がった。
だが、九十九だけは絶対に笑えなかった。
昨夜、あの暗闇の中で感じた肌を刺すような冷気と、黒狐の圧倒的な存在感――あれが単なる「夢」などとは、どうしても思えなかったからだ。
放課後。
帰宅した九十九は、着替えもせずに制服のままベッドへ腰掛け、昨夜の出来事を幾度となく反芻していた。
時計の針が静かにカチリと進み、午後十時を回った――その時だった。
「きゃあああぁぁぁっ────────っっ!!」
夜の静寂を破り、由香の絶叫が届いた。
「由香っ!?」
跳ね起きた九十九は、部屋の隅にあった金属バットを鷲掴みにすると、着の身着のまま家を飛び出した。
息を切らしながら由香の家の中庭へと駆けつけた瞬間、九十九は絶句した。
蔵の前に、人の形を不気味に歪めた灰色の怪物が、何十体と群がっていたのだ。
その中心で、由香が恐怖に腰を抜かし、震えながら後ずさっている。
「由香から……離れろぉぉっ!!」
九十九は叫びながら飛び出し、一番近くにいた怪物へ全身の体重を乗せてバットを振り下ろした。
ガキィィン!!
嫌な金属音が夜空に響き、手に強烈な痺れが走る。
金属バットが、まるで紙粘土のように根元からグニャリと折れ曲がっていた。
「な……なんだよ、こいつら……!?」
あまりの硬度に絶望が背筋を駆け抜けた、その瞬間。
ドゴォォォン!!
背後から大気を揺らす凄まじい衝撃音が響き渡った。
九十九が慌てて振り返ると――そこには、担任教師が立っていた。
先生が放ったただ一撃の拳が、肉塊のような怪物を一瞬で数メートル先まで吹き飛ばしていたのだ。
「せ、先生……!?」
「九十九、ここは俺が抑える! 由香を連れて下がっていろ!」
普段の気さくな雰囲気を完全に消し去り、先生は由香を片腕で素早く抱き寄せると、迫り来る怪物の群れを人間離れした膂力で次々と殴り倒していく。
(ダメだ……数が多すぎる! 何か……何か武器は……!?)
焦燥に駆られる九十九の脳裏に、あの妖しい光を放っていた黒刀の姿が閃いた。
迷っている時間はない。
九十九は弾かれたように蔵の扉へ手をかけ、力任せに開け放った。
――そこには、昨夜とまったく同じ光景が広がっていた。
木の檻の中で、瑠璃姫が勝ち誇ったように妖しく微笑んでいる。
そして、黒刀の柄の上で、黒狐が険しい顔で九十九を睨みつけていた。
「蔵の封印が緩んだせいで妖気が漏れだし、低級な妖魔どもが集まってきおった……!」
黒狐は苦々しく吐き捨てる。
「全部……お前がここへ足を踏み入れたせいだ!」
九十九は何も答えない。
真っ直ぐに檻の前へ進み出ると、黒刀の柄を両手で強く握りしめた。
「やめろバカ者!」
黒狐が悲痛な声を上げる。
「その刀を抜けば、九尾の封印が完全に解けてしまうぞ!!」
だが、九十九の手は止まらなかった。外で倒れていく先生と、恐怖に怯える由香の顔が浮かぶ。
九十九は歯をくいしばり、渾身の力で黒刀を引き抜いた。
ズズズズズズッ……!
重厚な音を立てて刀身が抜けた瞬間――刀から噴き出した漆黒の無数の「腕」が、九十九の両腕へと容赦なく絡みついてきた。
『憎い……!』
『殺せ……!』
『苦しい……苦しいよ……!』
『私に……返して……!』
数え切れないほどの憎悪と怨念の声が、脳内に直接なだれ込んでくる。
「ぐあぁぁぁぁぁっ!?」
狂気のような激痛に苛まれる九十九。
彼の黒髪が、根元からみるみるうちに神秘的な銀色へと染まっていく。白銀の光を宿した瞳が、妖しく異彩を放ち始めた。
同時に、背後から世界が壊れるような轟音が響く。
バキッ――――!! バキバキバキバキッ!!
数百年もの間、大妖を閉じ込め続けていた封印の檻が、木屑となって派手に崩壊した。
覚醒したような感覚の中、九十九が蔵を飛び出すと、外でうごめいていた怪物の群れが次々と黒い霧となって弾け、消滅していくところだった。
「なんで……もう、終わっ……たのか……?」
肩で息を吐きながら、九十九は呟いた。
その時、数メートル先に立つ由香の姿が目に入った。
「由香……!」
無事だったことに胸を撫で下ろそうとした九十九の表情が、一瞬で凍りつく。
由香の背後に立っていたのは、担任の先生だった。
しかし、その顔は人ではなく――口からは鋭く伸びた気味の悪い牙が生えていた。
その牙が、由香の白い首筋へと深く、深く突き刺さっている。
ドクッ、ドクッ……と、鮮血が滴り落ちる。
静まり返った悲劇の夜に、命を啜る生々しい音だけが残酷に響き渡っていた。




