第1話 深夜に響く歌声
「早く起きなさぁぁぁぁいっ!!」
耳元で爆発した雷のような怒鳴り声。
直後、右耳に鋭く激しい痛みが走った。
「いだだだだっ!? 耳、耳ちぎれるって!」
涙目で跳ね起きると、目の前には腕を組み、鬼の形相で仁王立ちする少女の姿があった。
幼なじみの楠由香だ。
腰まで伸びた艶やかな黒髪を怒りに揺らし、彼女は心底呆れたように大きなため息をつく。
「また遅刻する気? いい加減にしてよ」
「……いや、違うんだよ。最近さ、家の近くで夜中に大声で歌うバカがいるんだ。うるさくて全然眠れねぇんだよ」
寝ぼけ眼のまま必死に抗議する俺に、由香は氷のように冷たい視線を向けた。
「またそうやって妙な言い訳をする。そんな歌声、一度も聞いたことないけど?」
「本当なんだって! マジで信じてくれ!」
「はいはい。馬鹿なこと言ってないで、とっくに朝なんだから早く学校行くよ」
そう言われても、睡眠不足の体は鉛のように重い。
「……今日は休む」
そう呟いて布団を頭からかぶり直すと、
「私だって、出張中の九十九のお父さんに『九十九をよろしく』って頼まれてるの!」
容赦のない手が再び俺の耳を捉えた。
「いだだだだっ! わかった! 行く! 行けばいいんだろっ!?」
痛みに耐えかねて降参し、渋々制服に着替えて玄関へ向かう。
待ちくたびれた様子の由香は、手首の腕時計に目を落とすなり、
「走るよ!」
と叫び、俺の手首を掴んで強引にダッシュを開始した。
俺の名前は八神九十九。
俺たちが住むこの世界では、世界を創造したとされる存在――『真祖様』だけが唯一絶対の神として崇められている。
一神教以外の信仰は固く禁じられており、人々は幼少期からその厳格な教えを徹底的に叩き込まれるのだ。
俺が通う神和中学校でも、例外なくその神学教育が行われている。
……もっとも、俺自身はそんな退屈な宗教論にこれっぽっちも興味はないのだが。
「もうっ! 九十九のせいで今日もギリギリじゃない!」
始業のチャイムが校内に響き渡ると同時に、俺たちは教室の扉を蹴るように飛び込んだ。
息を荒らせて叫ぶ由香に、俺は肩をすくめて返す。
「だから、起こしてくれなんて頼んでねぇっての」
「お前ら、朝から本当に仲がいいなぁ」
教壇に立つ担任教師が苦笑いを浮かべると、俺と由香の声が綺麗に重なった。
「「誰がこんな奴と!!」」
一分の狂いもないハモリに、教室中がどっと爆笑の渦に包まれる。
俺と由香は互いに顔を真っ赤にしながら、そそくさと自分の席へ逃げ込んだ。
朝のホームルームが終わり、窓の外の雲をぼんやりと眺めていた、その時だった。
バンッ!!
強い衝撃で机が大きく揺れた。
驚いて視線を上げると、そこには一人の少女が胸の下で腕を組み、立ちふさがっていた。
生徒会長・白鳥聖良。
学年トップの頭脳に加え、運動神経も抜群。
容姿端麗で男女問わず絶大な人気を誇り、校内では密かに『白百合姫』などと称されている完璧超人だ。
……もちろん本人は、その乙女チックな呼び名を死ぬほど嫌っているのだが。
「…………白百合姫?」
思考がそのまま口から漏れた。
言った瞬間、脳内で警戒警報が鳴り響く。「やばい」と思った時には、もう遅かった。
聖良の白い頬が、みるみるうちに怒りで朱に染まっていく。
「誰が……白百合姫だぁぁっ!!」
教室の窓ガラスを振動させるほどの怒号が響き渡る。
周囲の生徒たちが一斉に察し、サーッと静かに目を逸らした。
(あ、終わったな……)
誰かが小さく呟いた気がした。
聖良は「コホン」と一つ意地らしく咳払いをすると、射抜くような鋭い視線で俺を睨みつけた。
「あなたたち、いつもいつも遅刻ばかり! 生徒としての自覚が足りないんじゃないの!?」
「だから! 夜中に近所で歌ってるヤツがいるんだって!」
「嘘ばっかり」
すかさず隣から由香のツッコミが入る。
「私、目と鼻の先に住んでるけど一度も聞いたことないよ?」
「ほら、ご覧なさい」
聖良は呆れ果てたように深くため息をついた。
「だから嘘じゃないんだってば!」
「だったら、夜に寝なければいいでしょう」
「それ何の解決にもなってねぇだろ!?」
しかし聖良は俺の反論など取り合う気もない様子で、凛とした足取りのまま教室を去っていった。
(くそっ……ふざけやがって)
(今日こそ……今日こそ絶対、その歌ってる奴を見つけ出して一発ぶん殴ってやる……!)
俺は机の下で静かに拳を握りしめた。
その日の夜。
壁の時計の針が、深夜零時を回った頃――
――また、聞こえてきた。
♪誰か~~いないの~~
♪私を~~見つけて~~
♪くれる人~~いないの~~
相変わらず、頭痛がしてくるほど音程が外れた歌声。
「うるっせぇぇぇ響くんだよ!!」
俺はベッドから跳ね起きると、私服のまま玄関を飛び出した。
夜の静寂に響く不協和音だけを頼りに、暗い夜道をひた走る。
声は少しずつ、けれど確実に大きくなっていき――
やがて、隣の家の奥深くに佇む、古い蔵の前でぴたりと足が止まった。
「ここ……由香の家の中庭じゃねぇか……?」
嫌な予感が背筋を駆け上がる。
俺は息を殺し、恐る恐る古びた蔵の重厚な扉に手をかけた。
ギィィィ……ギィ……
重い木擦れの音を立てて、扉が開く。
蔵の中はひんやりとした冷たい空気に満ちており、高窓から差し込む一筋の月明かりだけが、奥の闇を薄っすらと照らしていた。
そして、その最奥。
そこには、人間が丸ごと入るほど巨大な、木製の檻が鎮座していた。
檻の入り口付近には、一本の刀が深く、刺さるように突き立てられている。
月光を吸い込んで妖しく光る、恐ろしいほどに黒く、そして美しい刀身。
「……なんだよ、これ……」
あまりの光景に息を呑む。
その時だった。
――カサリ。
檻の奥の暗がりで、何かが動いた。
ゆっくりと視線を向ける。
吸い込まれそうな瑠璃色の瞳。
月光を反射して透き通るような、病的なまでに白い肌。
そして、闇の中で夜光塗料のように輝く、長くしなやかな銀の髪。
そこにいたのは、一人の神秘的な少女だった。
少女は細い手で木の檻を掴み、信じられないものを見るような目で俺を真っ直ぐに見つめていた。
そして、その薄い唇を微かに震わせ、鈴を転がすような、けれどどこか浮世離れした声で囁いた。
「……めずらしい事もあるもんだ。何百年ぶりの人間だのう……」




