第19話 街の色彩と、名もなき熱
翌朝。
九十九が目を覚まし、最初に視界に捉えたのは、向かいのベッドで所在なさげに横たわる葉月の姿だった。
昨日、群がる妖魔との激闘で負った脚の刺傷は、痛々しく包帯が巻かれている。
「……脚、大丈夫か?」
九十九が身体を起こし、心配そうに声をかけると、葉月はゆっくりと上半身を起こしながら答えた。
「私は式神よ? 妖力が戻れば傷なんて自然に塞がるわ。……ただ、今日は大事をとってゆっくり休むことにするけれど」
そう言うと、彼女は少し気まずそうに再びベッドへと身体を預けた。
「だから今日の特訓は、睦月と二人でやってくれ」
「分かった。今日は無理せず休んでてくれ」
九十九は頷き、睦月とともに静かに部屋を後にした。
静まり返った廊下を歩きながら、九十九は隣を歩く青髪の少女へ声をかける。
「睦月……悪いんだけど、今日はちょっと俺に付き合ってくれないか?」
「……何をするつもり?」
睦月は胡散臭そうな目を向けた。
「ちょっと、行きたいところがあるんだよ」
二人は最寄りの駅から電車に乗り込み、賑やかな隣町の繁華街へと向かった。
駅に到着し、改札を抜けた途端、睦月はピタリと足を止めた。
「……なによ、この人の数は」
駅前の広場には、色とりどりの服を着た大勢の人々が行き交っている。
睦月は圧倒されたように周囲を見回し、不機嫌そうに眉をひそめた。
「今日はお祭りでもあるの?」
「違うって。買い物とか、仕事とか……みんないつも通りここを利用してるんだよ」
「……人間って、こんなにたくさんいるものなのね」
どこか珍しそうに、けれど物珍しそうに目を輝かせる睦月を見て、九十九は思わず破顔した。
「ほら、迷子にならないように行くぞ」
「ちょっと、待ちなさいって――」
九十九はごく自然に睦月の華奢な手を取ると、波打つ人混みの中へと歩き出した。
「……っ!?」
突然温かい手で引かれた睦月は、一瞬驚いたように大きく目を丸くする。
しかし、その手を振り払うことはせず、少しだけ早足になりながら九十九の後ろをついていった。
しばらく歩いていると、香ばしく甘い魅惑的な香りが二人の鼻腔をくすぐった。
「……なによ、この匂い?」
睦月が鼻をヒクヒクさせ、顔を上げる。
「あれはクレープだよ。食べたことないだろ?」
街道沿いの小さなショップには、色鮮やかなフルーツやクリームが盛られたクレープの写真が並んでいた。
「クレープ……?」
「うん。食べてみるか?」
「……食べてみたい」
素直に頷く睦月。九十九は店員から出来立てのクレープを二つ受け取り、そのうち一つを睦月へ手渡した。
「こうやって包みを剥がして食べるんだ」
九十九が手本を見せるように一口かじる。
睦月も見よう見まねで、恐る恐るクレープを口元へ運び、小さな口でハムッと噛みついた。
「……ん?」
次の瞬間。
「……おいしい」
睦月の瞳が、内側から輝くように大きく見開かれた。
「何これ……すっごくおいしいわ……!」
思わず感嘆の声が大きくなり、通りかかるカップルや女子高生たちからクスクスと微笑ましい笑い声が漏れ聞こえてくる。
「……っ!?」
自分が周囲の注目を集めていることに気づいた睦月は、みるみるうちに耳の先まで真っ赤に染め上げ、俯いてしまった。
「……笑わないでよ」
「いや、だって……あんなに感動すると思わなかったからさ」
九十九は堪えきれずに吹いてしまった。
「もうっ!」
睦月は頬をぷくっと膨らませて膨れてみせる。
普段は冷血なほど無表情な彼女の、年相応で可愛らしいリアクションに、九十九はますます笑いを深めてしまった。
やがて二人は、煌びやかな看板が掲げられた映画館の前へとやって来た。
「……あれは何?」
「映画館。あの大きな建物の中で映画を見るんだよ」
「えいが?」
「まあ、見れば分かるって」
二人はチケットとポップコーンを買い、薄暗い館内へと入っていった。
指定の座席に座り、照明が落とされる。
巨大なスクリーンに突如として迫力ある映像が映し出された。
「……っ!?」
睦月は座席から跳ね上がり、目を丸くした。
「光る箱の中で人が動いてる……!?」
「しっ、声が大きいって」
スクリーンの中では、登場人物が凄まじい魔法のような攻撃をこちらへ向かって放っている。
「敵の攻撃よ……っ!」
睦月が本能的に迎撃の妖術を放とうと、手を高く掲げた。
「ちょっ、待て待て待てっ!?」
九十九は顔を青くして慌てて彼女の腕を掴み抑え込んだ。
「違う! あれはただの映像だ!」
「……えいぞう?」
「本物の敵じゃないから! 術を出すな!」
「……そうなの?」
睦月が不思議そうに首を傾げた、まさにその直後。
「おい! 静かに見てくれよ!」
「集中できないだろ!」
暗闇のあちこちから、客たちの厳しい苦情が飛んできた。
結局、二人は館内の係員に丁重に注意を受け、途中退場する羽目になってしまったのだった。
外の明るい日差しの中へ出ると、睦月は不満たらたらの様子でぶつぶつの呟いた。
「……人間の娯楽って、難解すぎるわ」
「ははははっ……!」
九十九はとうとうお腹を抱えて大声で笑い出した。
「何がおかしいのよ、九十九!」
睦月は頬を真っ赤に膨らませ、九十九をジロリと睨みつける。
「ごめんごめん。でもさ……」
九十九は涙を拭いながら、愛おしそうに頭を掻いた。
「こういう風に感情を表に出す睦月を見るの、初めてだったからさ。なんか……嬉しいよ」
「……もう」
睦月は照れくささを隠すように、プイとそっぽを向いた。
しばらく歩いたところで、九十九はハッと本来の目的を思い出した。
「あ、そうだ。そろそろ葉月へのプレゼントを探さないと」
「……葉月は、綺麗で華やかなものが好きよ」
「そっか。じゃあ、そういうものを扱ってる店を探そう」
二人はいくつかの雑貨屋やアクセサリーショップを回り、やがて高級感のあるシックな宝石店へと入った。
キラキラと光を反射するショーケースを覗き込みながら、九十九は隣の睦月に尋ねる。
「どれがいいと思う?」
睦月はしばらく真剣な目つきで考え込んだあと、ガラス越しに一つの赤いペンダントを指差した。
「……あれがいいんじゃないかしら。あいつの術の炎みたいで綺麗だし」
「これか。うん、すごく似合いそうだ」
九十九はその情熱的な赤いペンダントを手に取ると、迷わず購入した。
帰り道、駅へ向かう途中で睦月はふと足を止めた。
「……葉月にも、食べさせたいな」
「え?」
「あの甘いやつ……クレープ」
「ああ! いいね。じゃあ持ち帰りで三つ買って帰ろうか」
「……うん」
睦月は小さく頷いた。その声には、どこかとても嬉しそうな温かい響きが含まれていた。
夕方、ホテルへと戻ると、葉月はベッドの上で上体を起こして本を読んでいた。
扉が開いて入ってきた二人を見るなり、葉月は怪訝そうに整った眉をひそめる。
「……あれ?」
そして二人の姿を上から下までジロジロと見つめた。
「特訓に行ったはずなのに、ずいぶん小綺麗な格好で楽しそうに帰ってきたのね?」
「あー……それにはちょっと深い事情がありまして……」
九十九は頭を掻きながら、少し決意を固めた顔になった。
「葉月……ごめん」
「何がよ?」
「昨日、お前の大事な……千鶴様の独鈷を、俺のせいで壊してしまっただろ」
九十九はポケットから、綺麗にラッピングされた小さな箱を取り出し、中の赤いペンダントを葉月へ差し出した。
「だから……これ、お礼と謝罪」
「……っ」
葉月は差し出された赤い宝石を見つめたまま、しばらくの間言葉を失った。
やがてハッと我に返ると、ひったくるような勢いで九十九の手からペンダントを受け取る。
「……千鶴様の独鈷とは、比べるべくもないけれど」
そう言ってバッと顔を背けた。
「……せっかく買ってくれたんだから、もらっておくわ」
横顔の頬が、朱色に染まっているのを誤魔化すように、彼女はペンダントを強く握りしめた。
睦月はそんな葉月の様子を、廊下の陰からじっと見つめていた。
「……」
何も言わず、クルリと背を向けて部屋の外へ歩き出してしまう。
「……あれ? 気に入らなかったのかな」
九十九が不安そうに尋ねる。
「そんなことないわよ」
睦月は振り返らず、淡々と答えた。そしてそのままどこかへ去ろうとする。
「あ、睦月!」
「何よ?」
「睦月にも……今日一日付き合ってくれたお礼」
九十九が走って追いかけ、手渡したのは――一回り小さな箱に入った、青いペンダントだった。
「……これ……?」
睦月は驚いたように目を見開く。
「葉月のと同じデザインで、色違いなんだ。澄んだ青が睦月にぴったりだと思ってさ」
「……っ」
睦月は掌の上の青い宝石を、じっと見つめ続けた。
「……ありがとう」
消え入るような声でそれだけ呟くと、彼女は弾かれたようにその場から走り去ってしまった。
部屋の外の静かな廊下。
睦月は手の中の冷たいペンダントを、愛おしそうに自身の胸元へと押し当てた。
「……なんだろう、この感じ……」
胸の奥が、ドクドクと不規則に脈打ち、妙に落ち着かない。
顔が火照り、熱くてたまらない。
生まれて初めて抱くこの感情に、自分でもどう名前をつければいいのか分からなかった。
――そして、その様子を、少し離れた廊下の曲がり角から葉月が盗み見ていた。
「……睦月……?」
葉月は慌てて物陰に身を隠す。
照れくさそうに胸元を温める妹の姿を見つめながら、小さく呟いた。
「……そういうこと、だったのね」
葉月自身もまた、自分の胸の奥に芽生えた妙な熱の正体には気づいていなかった。
そんな、甘く切ない予感だけが静かに立ち込めていた。
一方、その頃――部屋の中では。
「……あ」
九十九は部屋のテーブルの前で、突然ガタッと立ち上がった。
「クレープ……っ!?」
買ってきた三つのクレープのうち、二人に渡す分を袋ごとフロント近くのベンチに置き忘れてきたことに気づいたのだ。
「……やばい、溶けちゃうっ!?」
九十九は顔を青くして、慌てて部屋を飛び出していった。
その頃、静まり返った廊下では――。
「……クレープ、まだかしら」
睦月が、お腹をすかせた様子でポツリと呟いていた。




