第18話 託された形見と芽生える歪み
「――追い詰めたぞ」
葉月は生い茂る森を抜け、開けた小高い広場へと出た。
目の前には、先ほど胸元から袋を奪い去っていった小さな妖魔が追い詰められ、逃げ道を探すようにキョロキョロと周囲をうろたえながら見回している。
「もう逃げ場はないわ」
葉月は冷ややかな目で威嚇し、純銀の重厚な錫杖を静かに構えた。
まさに、引導を渡そうとしたその瞬間――。
ガサッ……ガサガサッ!!
周囲を囲む森の木々が一斉に激しく揺れ始めた。
「……ッ!?」
葉月が瞬時に周囲へ警戒の視線を走らせる。
直後、鬱蒼とした木々の影から、這い出るように無数の歪んだ妖魔たちが姿を現した。
一匹。
二匹。
十匹、二十匹――。
瞬く間に広場は異形の群れで埋め尽くされ、葉月は完全に退路を絶たれてしまった。
「なるほどね……誘い込みの囮だったというわけ」
葉月は眉ひとつ動かさず、冷静に錫杖を握り直す。
すると群れの正面から、一際巨大な体躯を誇る大妖魔が、地面を揺らしながらゆっくりと歩み出てきた。
「ヒヒッ……お前……あの憎き女と同じ匂いがするな」
大妖魔の濁った赤い双眸が、殺意を込めて葉月を睨みつける。
「同じ匂い?」
「とぼけるな。あの女の仲間だろうが!」
葉月は鼻で小さくあざ笑った。
「集団で群れなければ人間一人襲えないような下級妖魔の集まりが、随分と偉そうな口を利くのね」
「……なんだと、ガキが?」
「用があるなら早くかかってきなさい」
葉月は美しく凛とした立ち姿で錫杖を突きつける。
「こっちは、手のかかる教え子を待たせているのよ」
「はっはっはっ!!」
大妖魔は腹を抱えて不気味に大笑いした。
「威勢だけはいいガキだのう!!」
しかし、次の瞬間にはその顔から一転して嘲笑が消え去った。
「あの女の居場所を素直に白状するなら、苦しませずに一瞬で殺してやるぞ?」
「断るわ」
「ならば――」
大妖魔が太い腕を容赦なく振り上げる。
「死なない程度に、じっくり叩きのめしていたぶってやれ!!」
その咆哮を合図に、群がる無数の妖魔が一斉に葉月へと躍りかかった。
「――遅いっ!!」
葉月が気合とともに、純銀の錫杖を地へと力任せに叩きつける。
「炎法――ッ!!」
ゴォォォォッ!!
葉月の正面から、紅蓮の巨大な火柱が壁となって噴き上がった。
「ギャアアアッ!?」
「熱い! 熱いぃぃぃっ!!」
火炎に包まれた妖魔たちが悲鳴を上げ、次々と灰となって消滅していく。
だが、敵の数はあまりにも多すぎた。
葉月は死力を尽くし、錫杖を振るい続けた。荒れ狂う炎が夜の森を赤く染め上げ、迫る妖魔を次々と焼き払っていく。
「まだ……負けるわけには……っ!」
しかし、大量の妖魔との絶え間ない戦闘によって、身体に蓄積していた疲労はすでに限界を超えていた。
「……っ!?」
急激に視界が歪み、脳震盪を起こしたように膝からふっと力が抜ける。
ドサッ。
葉月は吐き気をこらえ、地面に激しく片膝をついた。
「はぁ……はぁ……っ」
体内の妖力が、ほとんど底をつきかけている。
その弱り切った姿を見た大妖魔が、下品な笑みを浮かべながらゆっくりと近づいてきた。
「ヒヒッ、ようやく大人しくなったか」
「……っ」
葉月は重い錫杖を支えにし、どうにか身体を起こそうと抗う。
しかし――。
ズブッ!
「――ぐっ、あぁぁぁっ!?」
大妖魔の手に握られた、禍々しい大針のような武器が、葉月の右足の太ももを容赦なく深く穿った。
激痛に顔を歪め、絶叫をあげる葉月。
「まだあの女の居場所を吐かぬか?」
大妖魔は歪んだ快感に口元を吊り上げ、愉悦に浸る。
そして、今度は――。
ズブッ!
「――あっ、があぁぁっ!!」
容赦なく左足にも大針が突き刺された。
激痛で全身に激しい汗が噴き出し、葉月は溢れ出そうになる悲鳴を噛み殺して歯を食いしばる。
「……殺すなら……さっさと殺しなさい……っ」
「はっはっは! 馬鹿め!」
大妖魔が腹を揺らして嘲笑う。
「楽に死ねるなんて思うなよ? じっくりとな――」
――その時だった。
ドゴォォォォンッ!!
「な、なんだぁ!?」
突如として氷の法術が展開され、大妖魔の巨体が激しく吹き飛ばされた。
猛烈な砂煙が舞い上がる。
その向こうから、一人の少年が勢い余って転がるように飛び出してきた。
「……いっつつつ!?」
九十九だった。
九十九は泥だらけになって地面を転がりながらも、咄嗟に葉月の足元へ落ちていたあの小さな布袋を目ざとく拾い上げる。
「これだ……っ!!」
そして、その袋を葉月に向かって夢中で投げつけた。
「葉月っ!!」
「……っ!?」
葉月は驚愕に目を見開いた。
飛んできた袋を、震える両手で慌てて受け止める。
「九十九……!?」
「ハァ……ハァ……やっと……追いついた……っ!!」
九十九が肩を上下させて息を切らしていると、木々を押し分けて睦月も追いついてきた。
「はぁ……はぁ……もう……本当に無茶苦茶よ……」
葉月は信じられないものを見るような、驚きと怒りの混ざった瞳で九十九を睨みつけた。
「お前……っ!」
その声は、恐怖と震えを帯びていた。
「なんで……なんでここに来るのよ!!」
「え……?」
「守られる側の立場のお前が、どうして私なんかを助けに来るのよっ!?」
葉月の悲痛な怒鳴り声が、森の静寂を破って響き渡る。
「私は――っ」
葉月は悔しさに言葉を詰まらせ、胸を固く締め付けられた。
「私は、お前を守れと……千鶴様に命じられているのよっ!?」
血を吐くような叫び。
「お前が死にに来てどうするのよ……っ!!」
九十九は何も言わず、ただまっすぐに葉月を見つめ返した。
そして――。
「……それでも」
静かに、しかし力強い声で口を開く。
「俺は、お前を助けに来る」
「……ッ!?」
「たとえ、また同じような状況になったとしてもだ」
九十九は一歩も引かず、まっすぐに葉月の瞳を見つめた。
「俺は、お前を助けに行く」
葉月は息を呑み、言葉を完全に失った。
「……馬鹿なの?」
ぽつりと、掠れた声で小さく呟く。
そして葉月は、震える手で受け取った小さな袋を見つめた。
「……千鶴様」
袋の紐をゆっくりと解く。
中から現れたのは、重厚な気品を纏った一握りの法具――『独孤』だった。
「……使わせていただきます」
葉月はそれを愛おしそうに両手で高く掲げた。
途端に、彼女の残された全妖力が独孤へと引き寄せられ、激しく溢れ出す。
「――浄化ッ!!」
その言葉を叫んだ瞬間。
目も眩むような眩い黄金の聖光が、広場全体を包み込んだ。
「な、なんだこの光はぁぁぁっ!?」
妖魔が怯え切った叫びを上げる。
光は津波のように一気に広がり、葉月を取り囲んでいた無数の妖魔たちを容赦なく飲み込んでいった。
「ギャアアアアッ!!」
「助けてくれぇぇぇっ!!」
妖魔たちは浄化の悲鳴を上げながら、光の粒子となって次々と消滅していく。
やがて、狂乱のあとに静寂だけが残された。
葉月の手の中にあった独孤は――。
パキッ……。
切ない小さな音を立てて、粉々に砕け散った。
「……」
葉月はその手のひらに残る欠片を静かに見つめる。
ほんの一瞬だけ、その横顔に深い悲しみが影を落とした。
しかし、彼女はすぐに九十九へと向き直る。
ズカズカと怒りを剥き出しにして近づいてくると――。
「この……馬鹿っ!!」
九十九の胸ぐらを力任せに掴み上げた。
「痛っ!?」
「お前は本物の大馬鹿なの!?」
「えっ、なんで俺が怒られて――」
「私たちはお前を守れと、千鶴様から仰せつかっているのよ!?」
葉月の瞳に揺らぐのは、激しい怒りと、隠しきれない動揺。
「なのに、どうして自分から死地へ飛び込んでくるのよっ!!」
「それは……」
「二度とするな! 命がいくつあっても足りないわ!」
「……」
九十九はしばらく無言で葉月を見つめていた。
そして、静かに、けれど揺るぎない声で答える。
「……無理だ」
「なにい……?」
「たとえ、また同じ状況になったとしても――」
九十九は強く葉月の目を見据えた。
「俺は、やっぱりお前を助けに行く」
「……っ!?」
葉月は息を呑み、呆然と固まった。
やがて我に返ると、弾かれたように九十九から手を離す。
「……弱いくせに」
葉月はぷいっと顔を背けた。
「……邪魔なんだよ、お前なんか」
そう吐き捨てるように言うと、傷ついた脚を押さえ、錫杖を杖代わりにして一人で歩き出した。
「お、おい……葉月!」
「ついてくるな!」
「でも怪我が――」
「来るなと言っているでしょう!!」
葉月は二度と振り返らなかった。
足を引きずりながら、一人で森の闇奥へ消えていく。
その胸の奥が、嫌になるほど強くざわついていた。
腹が立つ。
言いつけを守らない九十九に腹が立つはずなのに――。
なぜか、先ほどの九十九のまっすぐな言葉が頭から離れない。
『俺は、お前を助けに行く』
「……なんなのよ、これ……」
葉月は激しく打ち鳴る胸元にそっと手を当てた。
生まれてこの方、こんな感情を抱いたことなど一度もない。
怒りなのか。
戸惑いなのか。
それとも――。
葉月自身にも、それが一体何という感情なのか、どうしても分からなかった。
その後。
「なあ、睦月」
「何?」
九十九は、先ほど葉月が使った法具のことがどうしても気になり、睦月に尋ねた。
「さっきの『独孤』って……そんなに大切なものだったのか?」
「……ええ」
睦月は少しだけ寂しそうに、暗い瞳を伏せた。
「私たちがこの世に生まれた時、千鶴様の血液が入った小さな瓶と一緒に手渡されたものなの」
「血液……?」
「ええ。そして、あの独孤も」
睦月は遠い昔を懐かしむような目をした。
『これは私が昔、愛用していた法具よ。二人を守る大切なお守りにしてね』って……千鶴様が微笑みながら渡してくださったの」
九十九は息を呑み、言葉を失った。
「……じゃあ、あれは……」
「私たちに残された、千鶴様の唯一の形見だったわ」
「……っ」
九十九は悔しさに強く拳を握りしめた。
「そんな大切なものを……俺なんかのために使わせちまったのか……」
胸が押し潰されるように重くなる。
「俺……葉月に、ちゃんと本当のお礼と謝罪を言いたい」
「そう」
「明日、買い物に付き合ってくれないか? お礼になるものを探したいんだ」
「嫌よ」
「……即答!?」
睦月はぷいっと顔を背けた。
「一人で行けばいいじゃない」
「頼むよ……!」
九十九は睦月に向かって深々と頭を下げた。
「俺だけじゃ、女の子がどんなものを喜ぶのかさっぱり分からないんだ……!」
「……」
「頼む、睦月!」
「……はぁ」
睦月はしばらくの間だまり込んだあと、諦めたように大きくため息を吐いた。
「分かったわよ」
「本当か!?」
「行けばいいんでしょ、行けば」
そう素っ気なく言うと、睦月は逃げるようにサッサと歩き出した。
「明日、朝一番で迎えに行くからな!」
九十九がその背中に向かって明るい声をかける。
睦月は振り返らなかった。
ただ――。
「……分かったわよ」
暗闇の向こうから、かすかに照れくさそうな小さな声だけが返ってきたのだった。




