第0086撃「河川敷に流れる、愛犬ぺるとふたりの静かなひととき」の巻
平成4年1992年、8月、高校1年の夏休み。
母と祖母は留守にしていました。
小生は学校の宿題にも手をつけず、
なんとなく愛犬ぺると遊びたくなって、
彼女を呼びました。
「ぺる吉っさーん!」
「へーえ〜!」
いつもの掛け声です。
しかし、呼んでも寄ってくる気配がありません。
「どこかなあ?」
ダイニングテーブルの下を覗き、
祖母の部屋まで探しました。
それでも見つからないときは、
たいてい決まっています。
小生のライティングビューローの真下。
収納型の机の下に出来たわずかな隙間を、
ぺるは秘密基地にしていることが多かったのです。
床に這いつくばって覗き込むと、
案の定、中で丸くなっていました。
「ぺる。おいで」
手を伸ばして抱き寄せようとすると、
「ガルル……」
低く唸って歯を剥きました。
どうやら、今日はご機嫌斜めのようです。
しかし小生は、どうしてもぺると遊びたかったのです。
「ぺる。散歩行こっか?」
「さんぽ?さんぽ?」
そう繰り返すと、
ぺるは条件反射のように飛び出してきて、
しっぽを振り始めました。
散歩という言葉は、
ぺるにとって魔法の呪文だったのでしょう。
もっとも、小生はこれまで何度もこの呪文を唱えながら、
結局散歩へ連れて行かなかった前科があります。
普段の散歩は、ほとんど母に任せきりでした。
ぺるにとって、
散歩だけは特別な時間だったのかもしれません。
家の中では味わえない匂いを嗅ぎ、
風を浴び、
自由に歩ける時間。
今日だけは、裏切ってはいけないと思いました。
首輪にリードを付け、一緒に玄関を出ます。
真夏の熱気が、むんと身体にまとわりついてきました。
まずはマンションの隣にあった、
グラウンド跡地へ向かいました。
工事は着々と進み、
昔ぺると走り回った広場の面影は、
もうどこにもありませんでした。
「じゃあ、淀川行こっか」
マンションフォーエバーと淀川河川敷の間には、
四車線の国道が走っています。
近道をするなら、横断歩道や陸橋を使わず、
タイミングを見計らって一気に渡るしかありません。
かなり危険です。
それでも小生が走ると、
ぺるも必死についてきました。
河川敷の堤防へ上がると、
「行くぞ!」
そう叫んで、砂道を走り出しました。
ぺるは、自分が案内役だと言わんばかりに、
一瞬で小生を追い抜いていきます。
耳を揺らしながら、
どんどん前へ進んでいきました。
気づけば、隣町の橋まで来てしまっていました。
「ぺる!こっちやで!」
呼び戻して、今度は来た道を引き返しました。
途中で息が切れ、
土手に寝転がって休憩しました。
しばらく走り続けたせいでしょう。
頭の中が空っぽになっていました。
ぺるは草の匂いを嗅ぎ、
淀川の川面はゆったりと流れています。
「可愛いぺるちーん、ハイハーイ♪」
中尾ミエの『可愛いベイビー』のメロディーに乗せて、
ぺるへ向かって歌いました。
その姿は、
まるで白いワンピースを着た少女が、
大きな麦わら帽子を風に飛ばされないよう押さえながら、
こちらを振り返った瞬間のようでした。
ぺるは美しい。
小さな犬の姿を借りて、
愛というものが地上へ降りてきたようでした。
夏の風を吸い込みすぎて、
喉が渇いてきました。
そういえば、ぺるはもっと喉が渇いていたのではないか。
今さらのように気づきました。
「ぺる。ごめんよ。水、飲みたいよな」
ぺるはしっぽを振りました。
そろそろ帰ろうと思いました。
帰り道は、大切なリードを離してしまうのが怖くなりました。
もし国道でバイクやトラックに轢かれでもしたら、
一生悔やんでも悔やみきれません。
小生はぺるを壊れやすい宝物のように胸へ抱き上げ、
今度はちゃんと陸橋を渡りました。
家へ帰ると、
マッサージをするように丁寧に足を拭いてやりました。
それから皿にたっぷり水を注ぐと、
ぺるは顔を埋めるようにして、
夢中で飲み始めました。
その音を聞いているだけで、
小生は今日ちゃんと散歩へ連れて行けたことを、
少しだけ誇らしく思えたのでした。
TUBE「夏だね」(1992年)
YouTubeで視聴する https://youtu.be/Mgg2f7E-tp8?si=f2CkIpMEzUzBhYnO
続く。果てしなく続く……。
(まだまだ続くよーっ!お楽しみに〜!)
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