第67話 木陰の逢瀬と、白百合に捧ぐ失恋
午前中の講義が何事もなく終わり、学園内が昼食の賑やかさに包まれる頃。
私はいつも通り、目立たないように周囲の喧騒からそっと離れ、天気の良い日にだけ足を運ぶお気に入りの場所へと向かった。
学園の敷地外れにある、緑豊かな古い庭園。大きな木が心地よい木陰を作っているその場所に、ぽつんと置かれた古びたベンチがお決まりの席だ。人通りもほとんどなく、背景に徹したい私にとってはこれ以上ない至高の聖域である。
ベンチに腰掛け、学食で買ってきたサンドイッチの包みを開こうとした、その時だった。
「……突然すまない、アルトレイン嬢」
カサリ、と芝生を踏む微かな音と共に、頭上からかけられたのは、耳に心地よいほど穏やかで静かな声音だった。
あら、と思いながら顔を上げると、そこには木漏れ日を浴びて佇む、一人の男子生徒の姿があった。
「ここに君の姿が見えたから、少しだけ、話をしてもいいだろうか」
私はその容姿を目にした瞬間、自分の脳内にある最重要顧客リストの引き出しを瞬時にひっくり返した。
絹のように柔らかな銀髪に、どこか憂いを帯びた深い群青色の瞳。筋骨逞しい武闘派が揃うことで有名なヴァレンタイン辺境伯家において、奇跡のように生まれたと社交界で噂の美形、お隣のクラスのレオナード・ヴァレンタイン様だ。
我がアルトレイン伯爵家がエルバ商会を通じて裏で卸している、胃腸を整えるハーブブレンドや良質な保存食。その最大にして最高の大口顧客こそが、国境警備を担うこのヴァレンタイン辺境伯家なのである。
彼らヴァレンタイン家は、我が家が新作の保存食を発表するたびに、品質を直に確かめるため、血縁の誰かが必ずアルトレイン領へと直々に赴くという徹底ぶりなのだ。
目の前にいるレオナード様とは、昨年の新作発表の際、エルバ商会の奥の部屋で少しだけ言葉を交わしたことがあった。あの時は、辺境伯家の次男坊様自らがわざわざ商会にまで足を運んでくださったことに、裏方の研究担当としてひどく恐縮したものである。
つまり、私にとって彼は絶対に粗相があってはならない、超高位のロイヤルクライアントの次男坊様。
私はすぐにサンドイッチを膝に置き、背筋を正して完璧なビジネス用の淑女の微笑みを浮かべた。
「ええ、ヴァレンタイン様。お久しぶりですわ。私のような者に何かご用でしょうか?」
失礼のないよう、最大級に丁寧に応対したつもりだった。けれど、レオナード様は私の言葉に、なぜか今にも消えてしまいそうなほど切なく、ほんのり悲しそうな表情を浮かべた。
その胸が締め付けられるような儚い美貌に、私の脳内で一気に警戒警報が鳴り響く。
えっ、なに、この不穏な空気。もしかして、最近エルバ商会経由で納品した保存食の品質に、何か致命的な欠陥でも見つかったのかしら。辺境の騎士団の皆さまのお腹を壊してしまったとか。
裏方として最悪の事態が頭をよぎり、背中に冷や汗が流れる。
そんな私の焦りを知る由もないレオナード様は、静かに視線を落とした。彼の群青色の瞳がじっと見つめているのは、私が手に持っていた、学食のサンドイッチ、を通り越して、それを支える私の左手の薬指だった。そこには朝から学園中を騒がせている、あの深く澄んだ琥珀色のトパーズが嵌まっている。
間近でその指輪を見た瞬間、レオナード様の肩が微かに震え、その綺麗な瞳がひどく寂しげに揺れた。
けれど、そんな彼の葛藤など露ほども知らない私は、彼の熱烈な視線の先にあるものを見て、ぽんと手を打った。
なんでヴァレンタイン様は私の手を、というか、手元をそんなに悲しそうに見つめているのだろうか。
……もしかして、お腹がすいているのかしら。
そういえば、辺境伯家の方々はとにかく大食漢で逞しいと聞く。彼だけは細身だけれど、やはり血筋には抗えず、学食の昼食だけでは足りなくて行き倒れかけているのかもしれない。大口顧客の御子息を飢えさせるわけにはいかないわ。
完敗を悟り、泣き出しそうなほど綺麗な諦めの微笑みを浮かべたレオナード様に向けて、私は親切心からサンドイッチをそっと差し出した。
「ヴァレンタイン様、よろしければこれ、食べます? まだ私は口をつけていませんし。あ、ちなみにこのサンドイッチは学園の食堂で購入したものですが、近々エルバ商会から、これに使われているものより遥かに滋養のある、保存肉の新作が出る予定なんですのよ!」
ちゃっかり新商品の営業まで織り交ぜて微笑む私を見て、レオナード様はハッと息を呑み、痛々しいほどに端正な顔を歪めた。
「そ、そうか……。僕に、食べろと……」
彼は私の手を切なげに見つめたまま、今にも泣き出しそうな声を絞り出す。
「僕のような男が手を伸ばしても、君のその指にあるものに阻まれて、決して受け取ることはできないという、優しい拒絶の洗礼なのだね……。それに、新作……。近々、僕たちが逆立ちしても敵わないような高位の御方との、新しい正式な婚約が控えているということか」
「え? 婚約?」
なぜサンドイッチと干し肉の話から婚約の話になるのか、私のビジネス脳が完全にフリーズする。
すると、レオナード様は群青色の瞳を伏せ、深く、深く、ため息をついた。その姿は辺境伯家に咲いた一輪の白百合の噂通り、風に折られそうなほど儚く、ひどく落ち込んでいるように見える。
「……その指輪、とてもよく似合っているよ。……いつ、その、婚約をされたんだい?」
消え入りそうな声で尋ねられ、私はようやく合点がいった。
ああ、なんだ、指輪の話だったのね。そういえば朝から教室でカトリーヌ様たちとそんな話をしていたし、それが隣のクラスの彼の耳にも入ったのだろう。
「つい最近ですわ。本当に、急に決まった契約――いえ、お話なんですの」
「つい、最近……。やはり、噂は本当だったのだね」
レオナード様は目に見えてがっくりと肩を落とした。その纏う空気があまりにも重苦しく絶望に満ちているため、私はますます確信を深める。
つい最近決まった指輪のお話。解禁されたばかりの他家とのホットライン。そして、それと同時にヴァレンタイン様がここまで魂が抜けたように落ち込んでいる。
点と点が一瞬で繋がった。
間違いないわ。この指輪の存在を知ったことで、彼はアルトレイン伯爵家が、別の超高位貴族とガッチリ強固なビジネスラインを結んだという事実を察してしまったのだ。だから、今後の勢力図や交易のパワーバランスを考えて、ヴァレンタイン家としての優位性が失われると絶望しているに違いない。
「あの、ヴァレンタイン様。そんなに悲観なさらないでくださいな。この指輪はあくまで個人的な『虫除け』としての実用性を重視したものですから、我が家のこれまでの体制が大きく変わるようなものではありませんわ。ですから、ぜひ前向きに……!」
他家との契約に怯えるロイヤルクライアントを引き留めるべく、私は必死に営業スマイルを浮かべて宥めた。
しかし、私の体制は変わらないという精一杯の慰めは、彼にはまったく違う意味で届いてしまったらしい。
「悲観するな、か。僕がどれほど想っていようと、君にとってはただの羽虫に過ぎず、その心が変わることはないと……。はは、手厳しいな。慰めになっていないよ、アルトレイン嬢」
「え? 慰めになっていませんでした?」
私の必死の顧客対応をバッサリ切り捨て、レオナード様は寂しげに微笑みながら、ゆっくりと一歩後ろに下がった。群青色の瞳には、もう完全に戦意を喪失した男の哀愁が漂っている。
「急に声をかけてすまなかった、アルトレイン嬢。君のこれからの幸福を、僕は心から祈っているよ」
どこまでも優しく、切ない引き際で、彼はそのまま静かに去っていった。木漏れ日の中に消えていくその後ろ姿は、信じられないほど儚かった。
ポツンと一人、ベンチに取り残された私は、血の気が引いていくのを感じていた。
幸福を祈っている、ですって。
それって、遠回しに「もうお前たちとの取引はない、他所の高位貴族と勝手に幸福になりやがれ」という、最大級の決別宣言なのではなくて。あんなに悲壮な顔で去っていかれるなんて、やっぱり最近納品したハーブブレンドの塩梅を間違えて、辺境伯領の偉い方の胃腸を大破させてしまったに違いないわ。
「大変だわ。早くナタリーに連絡して、原因を究明しなくては」
せっかくのサンドイッチを大慌てで口に放り込みながら、私は深刻な経済的危機感に震えていた。
自分の左手の指輪が、実はさっきの儚げな美青年の恋心を木っ端微塵にへし折った主犯であることなど、私はこれっぽっちも気づいていなかった。




