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夢で出会ったモブ令嬢を王太子は絶対に手放さない  作者:


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第66話 撃沈する羽虫たち

 翌朝、私は姿見の前で、自分の左手の薬指をじっと見つめていた。


 細身のゴールドのリング。その中央で、温室の夕日を閉じ込めたかのように深く澄んだトパーズが、朝の光を浴びてきらきらと主張の激しい輝きを放っている。


 なんだか、すごく変な感じがするわ。


 指をグーパーと動かしてみるけれど、今まで指輪なんて嵌め慣れていないものだから、どうにも皮膚がそわそわして落ち着かない。触れると、少しだけひんやりとした金属の重みを感じる。


 生き残るためのビジネス契約の証、あるいは、学園で変な男に絡まれないための形式的な虫除け。殿下は確かにそう仰った。


 この国では婚約者のいる令嬢は指輪をするのが決まりだから、売約済みのポーズを示しておけば面倒な羽虫を寄せ付けずに済む、と。


 可愛げのない私に、そもそも羽虫が寄ってくるなんてこれっぽっちも思っていないけれど、これで余計なリスクが防げて平穏が買えるなら、安い生存戦略だ。私は自分を納得させるように深く頷くと、鉄壁の令嬢の仮面を被り直して馬車へ乗り込んだ。


 けれど、その安易な目論見は、学園の教室のドアを開けた瞬間に脆くも崩れ去ることになる。


 一歩教室へ足を踏み入れた瞬間、妙な違和感に足を止めた。


 いつもなら最低限の儀礼的な挨拶しか交わさない女子生徒たちが、なぜか一斉に私の手元に視線を注いできたのだ。隠すようなものでもないと普通に鞄を持っていたのだけれど、朝の光に照らされた琥珀色のトパーズは、どうやら私が思っている以上に目立ちすぎたらしい。


「セ、セレナ様……? その、左手の薬指のものは……?」


 一人の令嬢が、ひどく興味津々といった様子で声を潜めて尋ねてきた。それを皮切りに、周囲の令嬢たちが一気に私を囲むようにして距離を詰めてくる。


「お相手はどなたなんですの!?」

「いつの間に婚約を結ばれましたの!?」


 予想以上の食いつきっぷりに、私は内心で少しだけ頬を引き攣らせた。どこの誰が贈った指輪なのかを隠したままでも、単に売約済みのサインとして機能すればいいと思っていたのだけれど、やはり年頃の令嬢たちにとって、この手の話題は格好の娯楽なのだ。


 あまり騒がれて、万が一にでも王太子の婚約者だとバレてしまっては困る。


 けれど、ここで殿下の名前を出すわけにはいかない。これはあくまで秘匿の契約なのだから。


「あえなく実家が、私に相談もなく他の方からの縁談を受けてしまわないための、ちょっとした形式的なものですの。お相手は……まぁ、大した方ではございませんわ」


 カモフラージュの契約相手なのだから大した方ではないという表現は間違っていないはずだ。私はそう思って、穏やかに微笑んで見せた。


 その瞬間、背後からふわりと甘い花の香りが漂ってきた。


「あら、あらあ。素晴らしいお話が聞こえてきましたわ」


 耳に心地よい鈴を転がすような、その声。

 振り返ると、そこには綿菓子をそのまま形にしたような、おっとりと柔らかな笑みを浮かべた少女が立っていた。殿下の従妹にして、ロシュフォール公爵家の令嬢、カトリーヌ様だ。


 いつも遠くから風景として愛でていた高嶺の花が、私の目の前でぱちぱちと長い睫毛を揺らしながら、私の左手の薬指をじっと見つめている。


 カトリーヌ様は私の指輪を目にした瞬間、うっとりと夢見るように両手を頬に当てられた。その琥珀色の瞳をきらきらと輝かせ、まるで極上の物語の結末でも見届けたかのような、ものすごい熱量の喜びを全身から醸し出している。


 彼女は私を囲む令嬢たちをふわりと遮るように一歩前に出ると、周囲には絶対に聞こえないような小さな、けれど弾んだ声音で、私の耳元にそっと唇を寄せた。


「まあ……。お兄様ったら、ついに、本当に……。うふふ、おめでとうございます、セレナ様」


 お花にお水をあげるようなおっとりした口調のまま、至近距離で囁かれたとんでもない言葉に、私の心臓が跳ね上がる。


 お相手は大した方ではない、という私の苦し紛れの嘘も、カトリーヌ様のお花畑のような包容力の手にかかれば、すべて都合よく変換されてしまっているのが分かった。あの特別保健室の時のように、彼女の強固なロマンチック脳が何かとんでもない勘違いをして、お兄様への初々しい照れ隠しだと百パーセント確信している目だ。ここで私が必死に否定したところで、全てはのろけ話として飲み込まれてしまうに違いない。


 合心の底からゴシップ好きの下位貴族の令嬢たちが、二人の秘密めいた様子に「カトリーヌ様、もしかしてお相手をご存じなのですか?」と、なおも気になる様子でさらに身を乗り出そうとする。


 するとカトリーヌ様は、私からすっと体を離し、ふふっと可愛らしく首を傾げながら、今度は周囲に向けておっとりと微笑んだ。


「いいえ。どなたかは存じ上げませんけれど……でも、他の方の秘めやかな幸福を、無作法に詮索するものではありませんわ。ねえ、皆さま?」


 それは、どこまでも優しく穏やかな淑女としてのマナーの言葉だった。


 きっと事前に殿下から、余計な真似をして周囲に勘繰らせるなとでも釘を刺されているのだろう。カトリーヌ様は実に楽しそうに微笑みながらも、それ以上は周囲に一切のヒントを与えようとはしなかった。


 もっとお相手の身元を突っ込みたかった下位貴族の令嬢たちは、筆頭公爵令嬢である彼女にそう笑顔で釘を刺されてしまっては、残念そうにしながらも大人しく引き下がるしかない。


 ただ、クラスに数人いる高位貴族の令嬢たちだけは違った。カトリーヌ様がわざわざ私にだけ耳打ちをして、その上で完璧な笑顔で周囲を遮ったという異常な状況に、彼女たちは本能的な危うさを察知したのだ。


 ロシュフォール公爵家の令嬢が、その正体を知った上で隠匿に加担している。これは絶対に表沙汰にしてはいけないレベルの案件だと気づいた数人の令嬢は、引き攣った顔でそっと視線を逸らした。


「さあ、皆さま。もうすぐ講義が始まりますわ。席に着きなさい」


「は、はいっ!」


 カトリーヌ様の一言で、群がっていた令嬢たちが一気に自分の席へと引き下がっていった。


 私もようやく解放されて自分の席へと向かったのだけれど、ふと、教室のあちこちで、数人の男子生徒たちが目に見えてがっくりと肩を落としているのが目に入った。


 いつもならそれなりに賑やかな彼らが、どういうわけか机に突っ伏していたり、遠い目で窓の外を見つめていたりして、ひどく元気がない。


 あら。あの方たち、朝からどうされたのかしら。


 季節の変わり目ですし、風邪でも流行っているのかもしれないわね。学園を休まずに登校してくるなんて、皆さん意外と勤勉ですのね。


 私がそんな場違いな感心をしながら席に着くと、背後から視線を感じた。


 振り返ると、カトリーヌ様がその元気のない令息たちをそっと見つめ、それから私と目が合うと、うふふ、と全てを察し切った極上の慈愛の笑みを浮かべて小首を傾げられた。


「ふぅ……」


 私は小さく息を吐き、教科書を机に出す。

 あまり構われすぎると王太子の婚約者だとバレてしまうのではと少し心配したけれど、本当に杞憂だったようだ。


 殿下が仰っていた『羽虫』が一体何のことだったのかはよく分からないけれど、カトリーヌ様まで味方についてくださるなんて、本当に効果抜群の、素晴らしい魔除けですわ!


 自分の薬指のトパーズが、実はその元気のない令息たちの心をへし折った主犯であり、殿下が仕掛けた完璧な『男除けのマーキング』であることなど、私はこれっぽっちも気づいていなかった。


 窓の外から差し込む朝日は、私の指元で、どこまでも不穏に、そして甘やかに輝き続けていた。

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