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夢で出会ったモブ令嬢を王太子は絶対に手放さない  作者:


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第65話 虫除けと称したマーキング

 そして、運命の日がやってきた。


 放課後の鐘が鳴り響くと同時に、私は周囲の賑やかな声をすり抜けるようにして、学園の奥にひっそりと佇む温室へと向かった。


 歩きながら、私は何度も制服のスカートの裾を整え、自分の顔が強張っていないかを確かめる。昨夜、さんざん待ちぼうけを食らわされたというのに、今日の私はまるで試験の合否を待つ受験生のように緊張していた。


 私はただ、これからの生存戦略のために、最も有利な条件で契約を結びに行くだけだ。楽しみになんて、これっぽっちもしていない。


 そう自分に言い聞かせ、鉄壁の令嬢の仮面をしっかりと被り直す。夕日に照らされた温室のガラスは、まるで燃えるような黄金色に輝いていた。重い真鍮しんちゅうのドアノブに手をかけ、ゆっくりと押し開ける。


 一歩足を踏み入れると、むっとするような温気と、咲き誇る薔薇の甘い香りが五感を満たした。ガラス越しに差し込む西日の光の中に、その人はいた。


 背もたれの高い椅子に深く腰掛け、長い足を組んで優雅に書類に目を通している殿下。その佇まいは、ただそこにいるだけで周囲の空気を支配してしまうほどに完璧で、絵画のように美しかった。


 入り口の音に気づいた彼が、ゆっくりと顔を上げる。その琥珀色の瞳が私を捉えた瞬間、昨日の廊下での一秒の微笑が脳裏をよぎり、心臓が痛いほど跳ねた。


「来たか、セレナ。こちらへ」


 殿下は手元の書類をテーブルに置くと、対面の椅子を長い指先で示した。

 私は努めて冷静に、足音が響かないようしとやかに歩み寄り、一礼して席に着く。ここで気後れしては、対等な交渉など望めない。


「お呼び出しに応じ、参上いたしました。それにしても、殿下。昨夜の女子寮の庭は、随分と静かで平和な夜でしたわね。風の音ばかりが響いておりましたわ」


 我ながら、可愛げのない小さな皮肉が口を突いて出た。昨日あれだけ必死に髪を乾かし、夜着を選んで身構えていた自分のプライドを、少しだけ取り戻したかったのだ。


 すると、殿下は意外そうに目を細め、それから愉しげに唇の端を上げた。


「ほう。お前がそこまで私の訪れを待ちわびていてくれたとは、嬉しい誤算だな」


「なっ……! 誤解です! 私はただ、不用心な不審者が現れなくて安眠できたと申し上げただけで……」


「安心しろ。昨夜は、お前がちゃんと言いつけを守って髪を乾かしているか、窓の外から覗きにいくつもりだった。だが、あいにく夜遅くまで公務が長引いてな。お前を寝不足にさせるわけにもいかないだろう?」


 さらりと恐ろしいことを言う殿下に、私は言葉を失った。本当に来るつもりだったのだ。あの完璧な包囲網を敷いておきながら、私をお預け状態にした張本人は、少しも悪びれる様子なく私を視線で射抜いてくる。


 呆然とする私から視線を外さないまま、殿下はふっと上体をわずかに前に傾けた。西日に照らされた彼の瞳が、ひときわ深く艶やかにきらめいている。


「今夜は、お前をたっぷり寝不足にさせてやってもいいんだが。……その前に、まずはその可愛い口から、返事を聞かせてもらおうか」


 低く、鼓膜を甘く揺らすような声音。

 からかうような余裕を崩さないまま、けれどその眼差しには、もう私を逃がすつもりはないという明確な執着が宿っていた。


 私はゴクリと息を呑み、必死に乱れそうになる呼吸を整えて背筋を伸ばした。

 ドキドキさせられっぱなしなのは、どうにも癪だ。からかわれ、流されるだけの無力な獲物だと思われたままでいるつもりはない。


 私は逃げるように逸らしそうになった視線をぐっと堪え、真っ直ぐに殿下の琥珀色の瞳を見つめ返した。


「はい。……殿下からの秘匿の婚約の申し出、謹んでお受けいたしますわ」


 私の口から飛び出したのは、一切の躊躇のない、あまりにも素直な承諾 of 言葉だった。


 その瞬間、楽しげに目を細めていた殿下の動きが、ピタリと止まった。

 いつも完璧な余裕を崩さない彼の美しい顔に、明らかな動揺が走る。形の良い眉がわずかに跳ね上がり、その瞳が驚きに大きく見開かれた。


 からかうつもりが、完全に裏をかかれたのだ。西日に照らされた殿下の耳が、ほんのりと赤く染まっていくのが見えて、胸の奥ですっと快感が走る。


 ほんの数秒の、心地よい沈黙。

 殿下は形の良い片手を口元に当て、ふっと視線を斜め下に落とした。まるで、自身の急激な動悸を私から隠そうとするかのように。


「……お前というやつは、本当に油断がならないな」


 ぽつりと漏らされた声は、いつもより少しだけ低く、掠れていた。喉を鳴らすようにして男らしく笑い直した殿下を前に、私は今度は自分のターンだとばかりに、鞄から丁寧に折り畳まれた羊皮紙を取り出した。


「素直に頷くだけだと思われては困ります。……こちら、新しく書き換えた契約書ですわ。内容をご確認ください」


 私はそれを広げ、テーブルの上で殿下の前へと滑らせた。

 この契約の肝である前提条件、そしてあの夜のルール。私が自室でじっくりと考え、不備のないように明記した書面だ。


 殿下は口元から手を離すと、その羊皮紙へと視線を落とした。長い指先が、私が書き連ねた条文を静かになぞっていく。


『前提:セレナ・アルトレインは、学園を卒業するまでの期間、王太子殿下の「秘匿の婚約者」となるものとする。この事実はいかなる第三者にも秘匿されなければならない』


 そこまで読んだ殿下が、ふっと不敵な笑みを漏らして顔を上げた。


「『いかなる第三者にも秘匿』、か。お前の言う『秘匿』の範囲を、少しすり合わせておきたいのだが」


「え……? 何か不都合でもございますか?」


「お前の望み通り、学園の生徒どもや、お前の実家にはこの『婚約』の事実は一切漏らさない。お前の両親は欲のないのんびりとした気質だ。我が家に『娘が国母に!?』などという野心がないのは分かっているが、それだけに、この事実を知れば驚きと心労で倒れかねないからな。……だが、俺の両親にはすでに伝えてある」


「ええっ!? 陛下と王妃様にですか!?」


 思わず椅子から腰が浮きそうになった私を、殿下は長い指先を軽く振ってなだめた。


「当然だろう。国の次期最高権力者たる者が、いくら秘匿とはいえ婚約者を決めたのだ。親元にだけは筋を通しておく必要がある。安心しろ、父上も母上もお前の事情を理解し、この件は完全に秘匿すると約束してくれた。もちろん、お前の実家に圧力がいくような真似もしない」


 殿下は組んだ指に顎を乗せ、呆然とする私をひどく愉しげに目を細めて見つめる。


「それから、お前のあずかり知らぬところで、お前の両親が他の方から持ち込まれた縁談を『あら、いいお話だねぇ』などと受けてしまわないよう、すでに手を回してある。今後、お前に持ち上がる縁談は、すべて俺が裏で跡形もなく叩き潰すから安心しろ」


「は、はあ……」


 そもそも、この可愛げのない私に他の殿方からの縁談なんて舞い込むはずがないと思うのだけれど……。


 けれどこの人は、万が一の可能性すらも許さないと言わんばかりに、すでに完璧な包囲網を敷いている。私が危惧するより前に、国家権力と自身の特権をフル活用して、一番安全で確実な私だけの檻を作り上げていたのだ。


 殿下は再び羊皮紙に視線を戻し、続きの条文へとなぞっていく。


『第一条、殿下または私の心境に変化が生じた場合、即座に、かつ円満に本契約を解消すること』


『第二条、解消の際、それまでに提供された薬等の返還義務および賠償責任は一切負わないものとする』


『第三条、解消後、いかなる理由があろうともセレナ・アルトレインの安全と、速やかな隠居生活を保証すること』


『第四条、殿下が夜間に訪問する際は、必ず窓を三回叩く合図を行い、部屋の灯りがついている時間帯にのみ、セレナ・アルトレイン自身の意思によって鍵を開け、室内に招き入れるものとする』


 そこまで読み進めた殿下の唇が、愉しげに弧を描いた。あの夜、自分が口にしたルールを一言半句も漏らさずにきっちりと明文化した私の生真面目さを愉しむように。


「……なるほど。あの夜の約束を、そのまま第四条に仕立ててきたか。俺が言った通り、部屋の灯りがついている間だけ、とな」


「当然です。殿下自らそう仰ったのですから、一文字たりとも誤魔化されないよう、こうして形に残させていただきました。これでお互いに同意の上での密会になりますし、私の健康を害さないためにも、この条件で合意していただきます」


 殿下は低く笑声を漏らした。


「ふっ。卒業までの秘匿、カモフラージュに隠居生活、法的な解消、か。……お前らしいな、セレナ。だが、俺の心が変わることも、お前の心を変えさせる隙を与えるつもりも毛頭ない。お前が熱心に書き連ねた一から三条など、俺にとっては最初から必要のない無意味なものだ」


 殿下は細長い指先で、トントンと羊皮紙の最後の一行を叩いた。


「実質、意味があるのはこの第四条のルールだけだな。いいだろう、お前のその生真面目さに免じて、その条件すべて呑んでやる。国一の権力者になる俺の力を、お前の生存戦略のためにいくらでも使うがいい」


 あっさりと、それでいてこちらの逃げ道を嘲笑うかのように承諾され、私は拍子抜けして目を丸くした。けれど、安堵の息を漏らすよりも早く、殿下がテーブルに身を乗り出してきた。彼の大きな影が私を覆い、温室の空気が一気に熱を帯びる。


「ただし、俺からも追加の条件がある」


「追加、ですか……?」


「当然だろう、これは契約だ。俺はお前の望みを叶える。代わりに、お前は学園を卒業するその日まで、俺の唯一の婚約者として、俺のすべてを受け入れろ。……たとえ俺がその第四条の決まりを守って、毎晩のように窓を叩きに現れたとしても、な」


 すべて、という言葉と、不穏な含み笑いに、私の心臓が再び警鐘を鳴らす。

 すべて、とは一体どこまでのことを指しているのだろう。まさか、卒業前の身でありながら、あの夜のガウン姿以上の、既成事実を本当に作られてしまうのだろうか。


 ぐるぐると最悪の事態を想定し、一気に血の気が引いていく私を見て、殿下はふっと目元を和らげた。


「安心しろ。お前の懸念しているような不埒な真似は、卒業するその日までしてやらない。お前のその……純潔を無下に散らすようなことはしないさ」


「なっ……!」


 直球すぎる殿下の言葉に、私の頭は今度こそ沸騰した。

 安堵よりも先に、己の不謹慎な想像をすべて見透かされたような羞恥が押し寄せ、頬から耳の後ろまでが一気に真っ赤に染まっていく。顔が熱くて、とても殿下の顔を正面から見られない。


「な、何を仰っているのですか! 私はそんなこと、これっぽっちも考えてなど……!」


「そうか? ならばなぜ、そんなに顔を赤くしている。……愛いやつだな」


 殿下は心底おかしそうに低く笑うと、私のその反応すらも愉しむように視線を注じた。男としてのあけすけな本音を混ぜつつも、最後の一線だけは絶対に守るという奇妙な誠実さを見せられては、こちらはもう、これ以上怒ることもできない。


 からかわれ、翻弄され、けれどどこかで安堵している自分に嫌気がさす。

 殿下はそんな私の様子を見届けると、ポケットから小さなベルベットの箱を取り出し、私の目の前で開いた。なめらかな布地の上に鎮座していたのは、細身のゴールドのリングだった。中央には、彼の瞳の色を思わせる、深く澄んだ琥珀色の最上級のトパーズが嵌め込まれている。


「これは……?」


「婚約指輪、と言いたいところだが……まあ、一種の虫除けだ」


「虫除け、ですか?」


 思わずオウム返しに尋ねると、殿下は綺麗に整った眉をわずかに上げ、当然だろうと言わんばかりに上体を戻した。


「この国では、婚約者のいる令嬢は指輪を身に嵌めるのが決まりだろう? 秘匿とはいえ、お前がすでに誰かのものだと示しておけば、面倒な羽虫を寄せ付けずに済む。お前だって、学園で変に他の男から声をかけられたくはないはずだ。ほら、手を貸せ」


「なるほど、それは実用的で助かりますわ……」


 どこの誰が贈った指輪なのかを隠したままでも、単に売約済みのサインとして身に付けられるなら都合がいい。


 差し出された指輪はあまりにも美しく、虫除けにしては豪華すぎる気もしたが、これからの快適な学園生活のための便利アイテムだというなら文句のつけようがない。これを通した瞬間、私は名実ともにこの美しい肉食獣の共犯者となるのだ。


「後戻りは、できませんのね」


「させるつもりはない。お前が自分の意思で、俺の手を取るんだ」


 逃げ道は最初から用意されていなかった。私は覚悟を決め、震える手をゆっくりと伸ばした。夕日に照らされた温室の中で、私の指に冷たいゴールドの輪が滑り込んでいく。


「契約成立だな、俺の可愛い共犯者」


 殿下は私の指先を優しく、けれど容易には解けない強さで握り締めると、勝利を確信した極上の微笑みを浮かべた。その瞳の奥に、深く、酷く熱い独占欲が潜んでいることに、私はまだ気づいていなかった。


 彼が「形式的な虫除け」と言って差し出したその指輪が、公には一切知られていない、王家の男が生涯の伴侶と定めた唯一の女性にのみ贈る真のプロポーズの指輪であるということを。


 卒業後に解消するカモフラージュの契約のはずが、その指輪を自ら嵌めた時点で、他の男を近づけないどころか、未来の妃としての誓いを完璧に立てさせられてしまっている事実にセレナが気づくのは、まだ随分と先の話だった。


 薔薇の香りが、いつもより深く、私の理性を狂わせるように漂っていた。

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