第64話 まるで来てほしかったみたいじゃない
学園の朝はいつも通りに始まった。
けれど私にとっては、昨日までとは景色が違って見えていた。鏡を見るたびに、殿下に触れられた額がまだ熱を帯びているような気がして、必要以上に髪をいじってしまう。
あくまで私は自分の生存戦略のために、最強の盾である彼を利用しようとしているだけだ。まだ返事もしていないし、正式な契約も結んでいない。それなのに、昨夜押し付けられた秘密のルールが、じわじわと私の日常を侵食し始めていた。
そんなもやもやとした思いを抱えたまま、私は午前の講義を終えて中庭に面した渡り廊下を歩いていた。
人通りの途絶えた、静かな時間。前方から歩いてくる人影に気づき、私は思わず足を止めた。
そこにいたのは、いつも連れているはずの側近たちも、取り巻きの令嬢たちもいない、殿下だけだった。
いくら学園内の警備が厳重であろうとも、王太子が護衛もなしに歩いているなど本来ならあり得ないことだ。けれど、今は不思議なほど周囲に誰もいない。その偶然の静寂に気圧されるようにして、彼との距離が詰まっていく。
気づかれませんように、そのまま通り過ぎて。そう願って視線を逸らしたけれど、心臓の鼓動は耳の奥まで響くほど激しくなった。
一定の歩調で近づいてくる軍靴の音が、私の真横でぴたりと止まる。
息を呑み、伏せていた視線をわずかに上げた。そこには、彫刻のように整った殿下の横顔がある。
他者の目が一切存在しないその場所で、殿下は私だけに、ふっと確かな熱を持った笑みを浮かべた。
学園内では決して私に接触しない、そう言っていたはずの彼が見せたあの微笑。
心臓に悪いなんてレベルではない。これはもう、心臓への暴力だ。
声にならない悲鳴が喉の奥で詰まった。時間にして、わずか一秒。
殿下は何も言わず、ただ一瞬だけ私を射抜くような視線を向けると、何事もなかったかのように再び歩き出した。
その後、何の講義をどう受けたのかも覚えていない。無難に課題をこなし、放課後のざわめきを避けるようにして寮へと逃げ帰った。
夕食も味がよく分からなかった。食堂の喧騒がどこか遠くに感じられ、私は早々に食事を終えて自室に戻る。
それからは自分でも呆れるほど手早かった。いつもより急いでお風呂を済ませ、湯上がりの肌に乳液を馴染ませる。選んだ夜着は、昨日のような流行りの官能的なものではなく、上までしっかりボタンのある、来客があっても失礼のない落ち着いたデザインのものを選んだ。
そして鏡の前で、普段なら適当に済ませるヘアドライに、これ以上ないほど時間をかける。次はちゃんと髪を乾かしてから迎えろという殿下の声が、耳元で再生されるのを止められなかった。
これは念には念を、という準備だ。もし本当に出向いてこられた時に、また看病を理由に居座られたら困る。そう自分に言い聞かせ、指の間を抜ける髪が完全に乾ききるまで、丁寧にブラシを通した。
準備は整った。いつでも、窓を叩く三つの音が響いてもいいように。
けれど、十九時を過ぎ、二十時が過ぎても、窓の外はただ夜の静寂が広がるばかりだった。
時折、風が枝を揺らす音がするたびに肩を揺らしたが、警戒していた合図が聞こえることはなかった。
「……そりゃあ、そうよね。あの方だって暇じゃないんだし。昨日の今日で、来るわけがないわ」
私はぽつりと独り言を漏らし、部屋の明かりを消した。
カーテンの隙間から差し込む月光が、ひっそりと片付けられたティーセットを照らしている。
ベッドに入り、毛布を首まで引き上げた。暗闇の中で、なぜだか胸の奥が少しだけ、冷えたように頼りない。
何よ、私。まるで、来てほしかったみたいじゃない。
自分の不甲斐なさに枕へ顔を埋める。結局、あの不遜な肉食獣のペースに、私は最初から最後まで巻き込まれっぱなしなのだった。




