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夢で出会ったモブ令嬢を王太子は絶対に手放さない  作者:


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第68話 勘違い営業のツケは、夜の女子寮で

 月明かりだけが差し込む、夜の女子寮の自室。

 私は昼間の興奮冷めやらぬまま、机に向かって必死に羽根ペンを走らせていた。


「大変だわ。ヴァレンタイン家との取引がもし本当に途絶えたら、エルバ商会を通して得る我が家の裏の利益が、最低でも三割は吹き飛ぶ計算になるわ」


 平日の今は、王都のタウンハウスにいるナタリーに相談することもできない。たった一人でこの危機に立ち向かわなければならないのだ。


 私は焦燥感に駆られながら、週末に帰宅した際、ナタリーへ渡すための緊急原因究明レポートを必死に書き殴っていた。


 昼間、古い庭園のベンチで納品物の品質を疑われるような不穏な決別宣言をされてしまったのだ。最近納品したハーブブレンドの乾燥が甘かったのか、あるいは塩梅を間違えて辺境伯領の偉い方の胃腸を大破させてしまったのか。的外れな原因をいくつもノートにリストアップし、一人で頭を抱えて悶絶する。


 その時だった。


 トントン、トン。


「ひゃいっ!?」


 夜の静寂を破って響いたのは、部屋のドアのノックではない。バルコニーの窓ガラスを、外から規則正しく三回叩く微かな音。


 それは先日、私がこの手で開けると約束させられてしまった、あの殿下からの合図だった。


 何でこんな時に限ってと焦るけれど、一秒でも躊躇えばまた正面のドアから出て行くと脅されている。


 私は大慌てで机から立ち上がると、窓へと駆け寄り、カチリと鍵を開けて内側から窓を引きずり開けた。


 夜風と共に部屋へ滑り込んできたのは、月光を背に負って優雅に佇む、この国の次期最高権力者だった。


「夜更かしが過ぎるな、セレナ。ちゃんと髪は乾かしているようだが、今度は何に熱を上げている?」


 アルフォン殿下は滑らかな動作で窓枠を跨ぎ、室内に侵入してくる。私が自分の手で招き入れてしまったのだという事実に、心臓が内側からうるさく鐘を鳴らした。


「で、殿下。お約束通りすぐに開けましたわ。でも、見ての通り私は今、非常に重要な書類仕事の最中でして」


「座れ。そんなものは後回しだ」


 殿下はフッと目を細めると、私の机の上に広げられたノートを覗き込んだ。ヴァレンタイン家への言い訳とハーブの配合がびっしり書かれたページを一瞥した途端、彼の澄んだ瞳の奥に、じわりと冷たい、けれどどこか愉しげな暗い光が灯る。


 ゆっくりと歩み寄ってくる殿下から放たれる、圧倒的な王者の覇気。低く心地よく響くその声音に、私の背筋が凍る。


「……随分と面白い報告が、影から上がってきていてな。昼間、古い庭園のベンチで、別の男に熱心に食事を貢いでいたそうじゃないか」


「は、はい?」


「……随分と面白い報告が、影から上がってきていてな。昼間、古い庭園のベンチで、別の男に熱心に食事を貢いでいたそうじゃないか」


「は、はい?」


「俺がわざわざお前の指にそのトパーズを嵌めてやったというのに。あの木漏れ日の中で、ヴァレンタイン家の次男坊に食事まで差し出して、一体何の話をしていたんだ? 以前お前が分析していたあの資料の読書感想会でもしていたわけではあるまいな?」


 殿下は私のすぐ目の前まで来ると、机に片手をついて、上から覗き込むように私を追い詰めた。向けられた瞳には、余裕を装いきれない切実な苛立ちと、昏い独占欲が入り混じっている。よく見れば、いつもより僅かに呼吸が荒い。遠くから報告を受けただけで、居ても立ってもいられずにここへ来たのだと言わんばかりに。


 しかし、そんな殿下の剥き出しの怒りを、私のビジネス脳はこれまた斜め上に解釈した。


 違うわ、殿下は怒っていらっしゃるのだ。自分がわざわざ用意してくれた魔除けの指輪があるのに、私が男を近づけてしまったから、指輪の性能に泥を塗ったと、契約の履行違反を責められているに違いない。


 私は青ざめながら、他家との契約に怯える大口顧客を引き留めるための、命がけのビジネス戦略だったのだと必死に弁明を開始した。


「ち、違います殿下! あれは密会などではなく、我が家の最大顧客であるヴァレンタイン家のレオナード様への、命をかけた顧客対応ですわ! あの方は細身ですが大食漢の辺境伯家のご血筋ですから、きっとお昼ご飯が足りなくて、内心お腹を空かせていらっしゃるのだと察しましたの。ですから今後の商売のために、我が家の新作保存肉のプレゼンを兼ねて、学食のサンドイッチを差し出しただけですの!」


「干し肉の、プレゼン?」


 殿下の完璧な美貌が、一瞬だけぽかんと固まる。


「ええ! なのに、あの方は私のこの指輪を見て、他家との新しい契約を察してしまわれたようで。パワーバランスが崩れると絶望され、今後の取引打ち切りの危機なんですの! だから私、殿下とはただの虫除けの実用性を重視したビジネス契約だから我が家のこれまでの体制は変わりませんわ、と必死に弁明したのですが、慰めにならないと一蹴されてしまい」


 我が家の経済的危機なんです、と涙目で訴える私を前に、殿下はしばらくの間、完全に絶句していた。


 やがて、殿下は深く、深いため息をつくと、片手で美しく整った額を押さえた。


 ああっ! やっぱり殿下も、我が家のロイヤルクライアント喪失という事態の深刻さに、頭を抱えてしまわれたのだわ! バックアップしてくれるはずの殿下まで絶望させるなんて、私の対応はそこまで壊滅的だったのかしら。


 私が内心でガタガタと震えていると、殿下は呆れ果てたように肩を揺らし、それから酷く疲れたような声で呟いた。


「お前というやつは、本当に恐ろしい女だな」


「へ? 恐ろしいだなんて、私はただ必死にロイヤルクライアントを繋ぎ止めようと」


「その男が今後、お前に個人的に近づくことは二度とない。それは俺が保証してやる」


 殿下はノートを塞ぐように、私のすぐ横の机をもう一度低く叩いた。逃げ道を塞がれ、至近距離で見つめ合う形になる。彼の琥珀色の瞳が、夜の闇の中で怪しく光った。


「だが、俺以外の男に、お前が口にするはずの食べ物を与えるな。これは明確な契約違反だ」


「えっ!? こ、顧客への試食もダメなんですの!?」


「ダメに決まっているだろう。お前がその無防備な手で誰かに施しを与えること自体、俺は気に入らない。……それとも何か? お前はあの男に、そんなに自分のものを分け与えたかったのか?」


 殿下の長い指が、私の顎をくいっと上向かせる。触れた指先が、微かに熱を持って震えているのが分かった。

 熱い体温が触れた場所に、昼間の指輪の感触どころではない、全身がそわそわとして心臓が爆発しそうなほどの緊張が走る。


「その鈍すぎる頭に、自分が誰の契約者なのか、今ここで叩き込んでやる必要があるようだな」


 不敵に微笑む殿下の綺麗な顔が、じりじりと私の唇に向けて近づいてくる。


「大人しく俺の言う通りにするか。それとも、大声を上げて周りの生徒たちをここに呼び集めてみるか? お前が選べ」


 意地悪く細められた瞳が、お前にそんな選択ができるはずがないと勝ち誇っている。大声を上げたら、それこそ深夜に王太子殿下を自室に連れ込んだという、絶対に背景に徹したい私にとって最大の破滅が待っている。


 上客の危機から一転、今度は自分の貞操と心臓の危機に直面し、私はノートを抱きしめたまま息を呑むことしかできなかった。

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