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夢で出会ったモブ令嬢を王太子は絶対に手放さない  作者:


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第62話 既成事実の作り方

背後に回った殿下の掌は、驚くほど慎重で、それでいてひどく熱を帯びていた。


 分厚いタオル越しに、私の濡れた髪を慈しむように包み込む。時折、タオルがずれて耳の後ろや無防備な首筋を掠める熱い指先に、そのたび背筋を稲妻が走ったような感覚に襲われた。


「……殿下、もう、そのくらいで。自分でできますから」


「動くな。まだ湿っているだろう。……お前の髪は、案外柔らかいのだな」


 至近距離で降ってくる低い声が、風呂上がりの心地よい余韻をすべて塗り替えていく。


心臓の鼓動が耳の奥まで響き、激しく打ち鳴らされる音が自分でもうるさいほどだ。


 私はといえば、殿下にタオルを奪われたことで心許なくなった胸元を、両腕を深く交差させて必死に覆い隠していた。


組んだ腕の指先が、透けるほど薄いシルクの布地をきつく掴み、白くなるほど強張っている。


「……そもそも、殿下は何をしにこちらへいらしたのですか? 当然のように窓から入ってくるなんて……王族としての自覚が欠如しすぎです」


 震える呼吸を整え、精一杯の抗議を絞り出した。すると、髪を愛でていたタオルの動きが微かに止まった。


「……近くに用があった。そのついでに、次回の逢瀬の日時を直接伝えに来ただけだ。明後日の放課後、温室へ来い」


 ぶっきらぼうなその声は、いかにも「ついで」であることを強調していた。けれど、そのためにわざわざ女子寮の壁を登り、夜陰に乗じて侵入してくる用事がどこにあるというのか。


「明後日の放課後ですね。……そうですか、でしたらちょうど良かったです。次の逢瀬の時にお渡ししようと用意していた書類がありますので、今、内容の確認だけでもお願いします」


 私はそのからかいを振り切るように、強引に椅子から立ち上がって殿下から距離を取った。


「ほう、書類か。……なんだ、そんなに早く俺と正式に結ばれたいのか? 『婚約届』なら、今この場でも受理してやるぞ」


 耳元で楽しげに囁かれた低音に、思考が一瞬真っ白になった。


 何を言っているの、この人は! 殿下の口角が意地悪く上がっているのが、見なくても気配でわかる。


 私は少し離れた場所に置いていたガウンを急いで羽織り、前合わせをこれでもかというほどきつく締め上げた。


ようやく鎧を手に入れた心地で、ベッドサイドの引き出しから用意していた羊皮紙をひったくるように取り出し、テーブルに広げた。


「違います! そんなわけないでしょう! むしろ逆です。不法侵入に、この……あり得ない状況。これについては、新たに第四条として追加させていただきますわね!」


「第四条? ……ふん、何を追加するつもりなんだ」


 殿下が面白そうに琥珀色の瞳を細めて尋ねてくる。私は彼を睨みつけ、努めて事務的な口調で書類を指し示した。


「……ご確認ください。これらが、私が殿下の提案を前向きに検討するための絶対条件です。卒業までの『秘匿』を守っていただくためにも、必要なことですので」


『第一条、殿下または私の心境に変化が生じた場合、即座に、かつ円満に本契約を解消すること』


『第二条、解消の際、それまでに提供された薬等の返還義務および賠償責任は一切負わないものとする』


『第三条、解消後、いかなる理由があろうともセレナ・アルトレインの安全と、速やかな隠居生活を保証すること』


 殿下は静かにテーブルに手をつき、琥珀色の瞳でそれらをなぞった。だが、読み進めるうちにその眉間に深い皺が刻まれていく。


「……なんだ、この『婚約破棄』を前提としたような不吉な書類は」


「違います。破棄ではありません。双方の合意に基づく『解消』です」


「どちらも同じだ。貴族の婚約をなんだと思っている」


「いつ、殿下の心境に変化が生じるか分かりませんから」


 私は努めて淡々と、逃げ道を作るように言葉を重ねた。


「私のような可愛げのない女よりも、殿下にはもっと相応しい、光り輝くような方が他におられるはずです」


 入学式のあのヒロインや、もっと高貴な令嬢たちの姿を脳裏に並べ、自分を無理やり納得させるように告げる。


「……そうなった時に、速やかに身を引ける準備をしておきたいだけですわ」


 私が最後の一言を吐き出した瞬間、部屋の空気が凍りついた。


 殿下は心底呆れたように大きな溜息をつくと、一歩、また一歩と私との距離を詰めてくる。逃げ場を失い、テーブルの端に腰が当たったところで、殿下は両手を私の横につき、私を檻の中に閉じ込めた。


「相応しい相手、だと? ――まだそんなことを言っているのか」


「ひっ……」


 覗き込んできた瞳には、怒りよりも深い、昏い情熱が揺らめいていた。


「いいか、セレナ。俺の心は、お前の前世を含めて……お前という存在だけに囚われている。他の誰かが入り込む隙など、最初から一分たりとも存在しない」


 あまりに重く、逃げ場のない断言。私はその気迫に押されながらも、手元の余白に羽ペンを走らせて一気に「第四条」を書き込もうとした。


「――第四条、女子寮、および……っ」


 書き上げるより早く、殿下の大きな手が、私の持つペンを上から力強く押さえ込んだ。テーブルに身を乗り出した殿下との距離が、一気にゼロになる。


「何をするのですか! ちゃんと『無断侵入の厳禁』と書かせてください!」


「その第四条は認められないな。……俺の訪問がそれほど不満なら、もう窓から帰るのはやめにしよう」


 殿下は私の手からペンを奪い取ると、事も無げにテーブルに放り出した。カタン、と虚しい音を立てて転がるペン。


 殿下はそのまま、迷いのない足取りで部屋のドアへと向かった。その冷たい金属のノブに長い指がかけられ、ラッチが外れる小さな音が部屋に響く。


「な……っ、殿下!? 何を、そちらは廊下ですわよ!」


「分かっている。堂々とこの扉から出て、廊下を歩いて帰るだけだ」


 殿下は振り返らず、淡々とした声で告げた。だが、その背中からは拒絶を許さない威圧感が放たれている。


「この時間に、お風呂上がりでガウン姿のお前を残して、俺がこの部屋から出て行く姿を誰かに見られたらどうなるか」


 そこで言葉を切り、殿下はようやく顔だけをこちらに向けた。琥珀色の瞳が、獲物を追い詰めた猟師のように鋭く光る。


「明日の朝には学園中の誰もが、俺たちの仲を疑いようのない事実として受け入れるだろう。そうなれば、お前が望む『秘匿』の必要もなくなるし、俺も手間が省ける。お前に不届き者呼ばわりされる理由もなくなるな」


 長い足が、一歩、外の世界へと踏み出そうとする。


「ま、待ってください! 既成事実を作ろうとしないでください!」


 私は真っ青になって駆け寄り、今にも開かれようとするドアを押さえつけるようにして、殿下の腕に必死に縋り付いた。


 振り返った殿下の瞳には、困惑する私を愉しんでいるような色と、獲物を逃さない肉食獣のような、強固な意志が宿っていた。

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