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夢で出会ったモブ令嬢を王太子は絶対に手放さない  作者:


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第61話 19時の静寂、途切れた待ちわびの声

 学園内を吹き荒れる不穏な視線の連鎖に神経をすり減らした、あまりに長い一日が終わった。私は逃げるように女子寮の自室へと帰り着くと、まずは重たい鞄を放り出し、大きく息を吐き出す。


 そのまま、何事もなかったかのように学生食堂へと向かった。幸いなことに、そこには私を射抜く琥珀色の瞳も、何かを呪詛のように呟くヒロインの姿もない。


 ようやく訪れた平穏な時間の中で、私は温かい夕食を心ゆくまで楽しむことにした。


 今夜のメニューは、鶏肉の白ワイン煮込みに、香ばしく焼き上げられた厚切りのライ麦パン。それに彩り豊かな温野菜のサラダ。柔らかな鶏肉が口の中で解け、白ワインの芳醇な香りが鼻に抜けるたび、トゲトゲしていた心も少しずつ解きほぐされていく。


 そして、今夜のデザートは格別だった。それは、林檎のキャラメリゼを添えた「ハニートーストのマスカルポーネ仕立て」。カリッと焼き上げられたパンの熱で、冷たいチーズクリームと蜂蜜がじゅわりと溶け出し、キャラメルのほろ苦さと絶妙に絡み合う。その背徳的なまでの甘美さは、自分が泥沼のシナリオに片足を突っ込んでいる現実を、一時でも忘れさせてくれる魔法のようだった。


 満足感とともに自室へ戻ると、私は昨日届いたばかりのナタリーからの荷物へ手を伸ばす。


中に入っていたのは、箱を開けた瞬間に思わず蓋を閉じそうになったほど、上質で、そして不可解な夜着であった。


「……淑女の嗜み、ね。確かにナタリーの言う通りだわ」


 私は自分に言い聞かせるように呟き、その布地を抱えてバスルームへ向かった。


 この時はまだ、窓の外には夕刻の淡い光が残っていた。だから私は、寝室の灯りをつけぬまま入浴を始めた。


 湯船で一日のストレスを溶かし、贅沢な時間を過ごす。しかし、その安らぎに浸っている間に、外ではすっかりと帳が落ちていた。


 風呂上がり、私はついに例の最新流行に袖を通す。鏡に映った自分を見て、激しい後悔が押し寄せた。


 肌が透けるほどに薄いシルク。鎖骨から胸元にかけて施された繊細なレースは、隠すためというよりは、そこにある肌を際立たせるために存在しているように見えた。


「これ、初夜でも迎える時に着るものじゃないの……?」


 王都の流行とはこれほどまでに過激なのか。驚きと困惑に包まれながら、私は濡れた髪をタオルで拭きつつ、半分自暴自棄な足取りで寝室へと戻った。


 灯りをつけていない寝室は、お風呂を楽しんでいる間にすっかり日が落ちて、濃い闇が支配する空間へと変貌していた。


 その静寂の中、本来あるはずのない影が椅子の背に凝縮されているのを、肌を刺すような違和感として察知する。


「なっ……!?」


 私の漏らした驚愕の声が、部屋に高く響く。その声に反応して、闇に沈んでいた長身のシルエットが、滑らかな動作でこちらへとゆっくり向き直った。


「……遅かったな。待ちわび……」


 低く心地よく響いていた声が、唐突に途切れた。


 殿下は、19時前という早い時間に、私が既に風呂を済ませて戻ってくるとは思っていなかったらしい。


 どこか余裕を感じさせる笑みを浮かべていた殿下であったが、私を正視した次の瞬間、その表情が劇的に凍りついた。


 月光が、風呂上がりの熱を帯びた肌に吸い付き、身体のラインを露骨に浮かび上がらせる薄いシルクと、あらわになった私の姿を残酷なほど克明に照らし出す。


「…………っ」


 殿下は言葉を失い、微かに息を呑んだ。

琥珀色の瞳が驚きに見開かれ、その視線は私の首筋から胸元、細い素足へと、吸い寄せられるようにゆっくりと這い上がっていく。


「その格好……。返事を聞く前に、俺を誘惑するつもりか?」


 絞り出すようなその声に、私は頭に血が上るのを感じた。


 見られている。この、今すぐ初夜が始まってもおかしくないような、目のやり場に困る格好を、こともあろうに殿下に見せてしまうなんて。


 私は反射的に、手に持っていたタオルを広げ、無言で胸元から腿にかけてを必死に隠した。抗議の言葉すら羞恥心で喉に張り付いて出てこない。


 ただ、顔が一瞬で沸騰し、視界が熱くなるのだけがわかった。


「……っ、不法侵入者に、そんなサービスをする義理はありません! そもそも殿下、 今はまだ19時前です! 登るのだって危険ですし、こんな時間に来たら誰かに見つかるに決まっています!」


 ようやく絞り出したのは、精一杯の強気な言葉だった。余裕を装っている殿下だが、よく見ればその耳の端は、隠しきれない熱を持って赤く染まっているように見える。



「それなら心配無用だ。俺ほどの腕があれば、これくらいの高さなど容易い。誰にも見られず、音も立てずにここへ辿り着くことなど、造作もないことだ」


 殿下は椅子から立ち上がり、私の方へ歩み寄る。だが、その歩調はいつもより僅かにぎこちない。


 私のすぐ目の前で足を止め、背後の窓を指差す殿下の指先が、微かに震えているように見えた。


「それより、また窓の鍵がかかっていなかったぞ。前回は敢えて指摘しなかったが……いい加減、不用心すぎるのではないか?」


「……ここは学園ですよ!? 高位貴族の屋敷と同じくらい警備は厳重です。まさか2階の窓から、こんな時間に堂々と入ってくる不届き者がいるなんて想定外です!」


「俺を不届き者呼ばわりか。だが、鍵を開けっ放しにしていたお前にも責任はある。……今のその姿を、もし俺以外の男が目にしていたらと思うと……」


 殿下はそこで言葉を切り、喉を鳴らした。向けられた瞳には、呆れを通り越した切実な心配と、それを上回るほどの昏い独占欲。そして……私と同じ、戸惑いが入り混じっている。


 殿下の指先が、タオルの隙間から覗く私の濡れた髪に、熱を帯びたまま触れた。


「……今すぐにでも、お前をどこかへ閉じ込めてしまいたくなるな。他の誰の視線も届かない場所に」


「……っ、近いです、殿下! それに、髪が濡れたままでは風邪を引きますので、早くお引き取りを!」


「なら、俺が拭いてやろう。……座れ。まだ帰るつもりはないからな」


「えっ、あ、自分でっ……!」


 拒絶する間もなく、殿下は強引に私を椅子へと促し、私の手からタオルを奪い取った。隠していた胸元が一瞬露わになり、私は慌てて腕で自分を抱きしめる。


 背後に回った殿下から、清潔な香りと、隠しきれない激しい鼓動が伝わってくる。

 

 至近距離で髪を拭われる。タオル越しに伝わる手のひらの熱。


 商談どころではない。私の心臓は、この薄いシルク一枚を隔てて、今にも破裂しそうなほど激しく打ち鳴らされていた。

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