第60話 狂い出したシナリオの足音
温室であの秘密の婚約という、甘い毒を含んだ提案を突きつけられてから数日が経過した。
学園内でのレオナルト殿下の出現頻度は、相変わらず……執拗なまでに多いままだった。直接声をかけられることはなく、あの方が私の目の前で不自然に足を止めて語りかけてくることもない。しかし、その存在感だけが、影のように私の背後に張り付いて離れない。
講義棟の長い廊下を歩けば、窓際で取り巻きの生徒たちに囲まれ、優雅に微笑んでいるあの方の姿がある。中庭の噴水近くを通りかかれば、二階のバルコニーから手摺りに身を乗り出し、こちらを見下ろしているあの方と目が合う。
学園内のどこを移動していても、息を吐く間隔でふと気がつくと、必ず殿下が視界の端に入り込んでいる。そんな、心臓を針でつつかれるような不自然な日常が続いていた。
以前の私なら、この状況を「ああ、またヒロインであるミレイユを追っている射線上に、運悪く私が重なってしまっただけなのね」と、道端の石ころか背景の岩にでもなったつもりでやり過ごせただろう。不本意ながらも、自分をただの風景だと思い込むことで、平穏なモブ生活を維持できていた。自分自身に嘘をつくことこそが、私の最大の防御策だったのだ。
けれど、今はもう知っている。
あの琥珀色の瞳は、ミレイユを通り越し、明確な意思と逃がさないという確信を持って、この私だけを射抜いているのだということを。
あの方は非の打ち所がない完璧な王子様だ。一分一秒を国務や学業に捧げるべきあの方が、わざわざ私の移動ルートを熟知したかのように姿を現し、こちらが反射的に目を逸らせないほどの熱量で視線を寄越してくる。
それはもはや偶然の範疇を遥かに超え、私の視界そのものを支配し、精神的な包囲網を完成させに来ていると言っても過言ではない。あの方は間違いなく、私が何時にどの扉から出、どの階段を使い、どこで足を止めるのかを完全に把握して楽しんでいるのだ。
逃げ場のない檻の中で、出口を求めて右往左往する獲物の動向を、静かに、そして愉悦を込めて眺める捕食者のように。
一方で、週も半ばを過ぎた頃、ミレイユの様子も目に見えて変わり始めていた。その変化は、学園全体の温度を数度下げるような、じっとりとした不気味さを孕んでいる。
王太子の気を引くために他の男たちを侍らせ、嫉妬を煽ることで恋の主導権を握ろうとする。そんな、転生者としての知識を過信した計算高い余裕は、今の彼女から完全に消え失せている。
取り巻きの令息たちは、彼女の異変に気づかぬまま相変わらず女王を囲む騎士のように傅いているけれど、ミレイユの視線は、もはや彼らを一切見ていなかった。
彼女が見つめているのは、ただ一人、王太子レオナルト殿下だけだ。その瞳に宿っているのは、恋焦がれる乙女の清らかな情熱などではない。それは、当然手に入るはずだった未来の椅子を奪われた者の憎悪か、あるいは予定調和の崩壊を認められない者の、壊れた執念。
ある日の放課後、花を摘みに行った時のことだ。一番奥の個室の中から、掠れた声でぶつぶつと呪文を唱えるような不気味な声が聞こえてきた。
「おかしい。こんなの絶対におかしいわ。私をこんなに熱い目で見つめているくせに。なんでレオナルトに婚約者がいるのよ。シナリオと違うじゃない。それとも何、これってファンディスクか何かのおまけシナリオなの? それともバグなの?」
ドア越しに漏れ聞こえるその言葉に、私は全身の血が凍りつくかと思った。ファンディスク。その単語で彼女が私と同じ前世の知識を持つ転生者であることを改めて確信すると同時に、彼女の認識が致命的なまでに狂っていることに強い恐怖を覚えた。
彼女は、殿下のあの執着心に満ちた視線が、今でも自分に向けられていると頑なに信じ込んでいる。そして、学園のどこからか嗅ぎつけた殿下の婚約者という噂に、激しい焦燥と殺気すら孕んだ怒りを募らせている。
殿下が私を観測し、その殿下をミレイユが凝視する。その歪な三角形の連鎖の中で、ミレイユ様の視線がふとした瞬間に、周囲の女生徒たちへ鋭く向けられることが多くなった。
この中に、自分の輝かしい予定を狂わせた殿下の婚約者が潜んでいるに違いない。彼女はそう確信しているのだろう。誰彼構わず品定めするように、あるいは不具合のあるプログラムを見つけ出そうとするデバッガーのように、彼女の目は濁った色を湛えて教室中の令嬢や廊下ですれ違う令嬢達を舐めるように見つめるようになった。
いつ、あの鋭く光る瞳が私で止まり、排除すべき対象として確定されるか分からない。このままでは秘密の婚約者として甘い汁を吸うどころか、契約が成立して守られる前に、私は彼女の手によって社会的に抹殺されてしまう。
「だめ。次の逢瀬で、この現状をすべて殿下に知らせなければ」
学園での出現頻度を極限まで減らしてほしいこと。そして、執念深い一人の令嬢が殿下の視線の先を血眼になって探り、全生徒を監視下に置いていること。このリスクを放置したままでは、私は秘密の婚約を引き受けることはできない。それは商売人としてあまりに割に合わない、命をかけた無謀なギャンブルでしかないのだから。
殿下の静かなる包囲網と、全方位に疑いの刃を向け始めたヒロインの昏い眼差し。挟み撃ちにされた私の唯一の武器は、日記帳の奥深くに隠した、不敬極まりない内容を連ねた契約書だけ。
次回の逢瀬。そこでこの書類を叩きつけ、リスクに見合うだけの鉄壁の条件を突き通さなければ、私の安穏とした隠居生活は、ミレイユの執念か、殿下の独占欲のどちらかに食い尽くされてしまう。
私は足早に廊下を駆け抜け、背後に感じる二つの異なる熱い視線と、耳の奥にこびりつく呪文のような呟きから逃げるように、教室へと滑り込むのだった。




