第59話 生存戦略は羊皮紙に、乙女の誇りは枕の中に
冷たい床の感触と、膝の上にずっしりと載った本の重みが、少しずつ私の意識を現実に引き戻してくれた。
いつまでも扉の前で座り込んでいるわけにはいかない。私は膝に置いた本を落とさないよう大切に抱え直し、震える脚を叱咤してどうにか立ち上がった。一度大きく深呼吸をして、肺に溜まった熱を吐き出す。
ふらつく足取りで机へ向かい、抱えていた爆弾をようやく事も無げに置くことができた。
『冷徹公爵の甘き略奪~従順な小鳥は夜ごと啼く~』。
……よりによって、これを私にくれるなんて。
殿下は貸すとは言わなかった。これはもう、所有権の完全な移行、明確な譲渡だ。……つまりは、餌付けである。
あの時、王都の書店で散々悩んで断念した、あの優柔不断な姿を殿下に夢の中で観測され、あまつさえ本人から直接手渡されることになるなんて。私の人生の羞恥ポイントは、一体どこまで更新されれば気が済むのだろうか。
「……本当、私のプライバシーってどこにあるのかしら」
この本を与えるという行為一つとっても、殿下は私の嗜好を完璧に把握した上で、断れない形……それこそ罠にかかった小動物に好物を与えるような手つきで、私を自分の庭に誘い込んでいるのだ。
幼い頃からエルバ商会と渡り合い、自力で研究資金を稼ぎ出してきた身としては、この一方的な贈与が、後でどれほど高くつくかを知っている。対価のない利益ほど、恐ろしいものはないのだから。
「……でも、条件が良すぎるからこそ、逃げ道だけは完璧に作っておかないと」
私は気合を入れ直して椅子に座ると、引き出しから学園指定の高級な羊皮紙を一枚取り出し、ペンを握った。
殿下は去り際、余裕の笑みでこう言った。
『それまでに、お前がどれだけ俺の条件に抗えるか、じっくりと考えておくといい』
おそらく殿下は、私が次回の逢瀬で、必死に断るための屁理屈を並べ立てると踏んでいるのだろう。……けれど、残念でした。私はこれでも、七歳の頃から自分の足で商売をしてきた女なの。
感情で抗うなんて効率の悪いことはしない。提示された利益が最大なら、それを有難く享受しつつ、自分にかかるリスクを徹底的に削ぎ落とし、ゼロにする方向へ舵を切るだけだ。
「ええ、喜んでお受けしますわ。……ただし、この契約書にサインをいただけるなら、ね」
卒業までの秘匿、そして希少な薬の提供。
この甘い蜜をすべて飲み込む代わりに、私は王太子の秘密の婚約者という、本来シナリオには存在しない……そしてヒロインであるミレイユから見れば最大の邪魔者の席に座ることになる。
もし今後、殿下がゲームの強制力でミレイユを選んだ時。あるいは、私が悪役として断罪の危機に瀕した時。その瞬間に、未練なく、かつ安全にこの契約を解消し、誰にも邪魔されない隠居生活を送るための脱出口が必要だ。
『一、殿下または私の心境に変化が生じた場合、即座に、かつ円満に本契約(婚約)を解消すること』
『一、解消の際、それまでに提供された薬等の返還義務および賠償責任は一切負わないものとする』
『一、解消後、いかなる理由があろうともセレナ・アルトレインの安全と、速やかな隠居生活を保証すること』
さらさらと、我ながら厚かましいほど自分に都合の良い条項を書き並べていく。一国の王太子を相手に心変わりを前提とした書類を突きつけるなんて不敬罪ものかもしれないけれど、殿下が考えろと言った結果がこれなのだ。ならば、これは対等な取引を望む者としての正当な準備だろう。
「……よし。これを次の逢瀬の時に叩きつけてやるわ。あの方の、あの余裕そうな顔がどう変わるか楽しみね」
少しだけ気分が晴れた私は、草案を丁寧に折り畳んで、日記帳の奥深くに隠した。
やるべきことを終えた私は、吸い寄せられるようにベッドへ潜り込み、改めて『冷徹公爵の甘き略奪』を手に取った。
せっかくいただいたのだから、まずは一通り目を通しておかなければ。私は精神を落ち着かせるため、深く布団を被ってから、そっと一ページ目をめくった。
「……うわぁ、書き出しから文体がすごく艶やかだわ」
以前、深夜にこっそり読んでいた『囚われの乙女は、傲慢な竜騎士に愛を乞う』も、なかなかに刺激的で私の心拍数を脅かしたものだけれど……この本は、それとは比較にならないほど攻めていた。
ページをめくるたびに、描写の解像度が上がっていく。
公爵の指先がヒロインの項をなぞる描写一つとっても、質感や体温が伝わってくるような生々しさだ。前世でも今世でも、清く正しく経験値ゼロを貫いてきた私には、この解像度は毒を通り越して劇薬に近い。
心臓がドクドクと警鐘を鳴らし、耳の奥まで熱くなる。物語が進むにつれ、公爵の独占欲は文字通り略奪の牙を剥き出しにしていった。
「……だめ。もう見ていられないわ……っ」
これ以上読み進めたら、知恵熱を出して明日から一週間は寝込んでしまう。
私は震える手でそっと本を閉じ、胸に抱えたまま、はぁはぁと乱れた呼吸を整えた。
「……異世界のエンタメを、完全に舐めていたわ……」
私は一体、殿下になんてものを贈らせてしまったのだろう。
次回の逢瀬で、どんな顔をしてあの方と向き合えばいいというのか。
私は真っ赤になった顔を枕に押し込み、逃げ場のない羞恥心と、言葉にできない不穏な予感に悶えながら、あまりにも濃密すぎた長い一日を終えるのだった。




