第58話 冷めた紅茶と、完敗の味
殿下の足音が完全に消えて、温室には不気味なほどの静寂が戻ってきた。
私は椅子の背にもたれたまま、天井のガラス越しに見える空を、ただ呆然と見上げていた。
「……無理。……絶対に、無理よ、こんなの」
ようやく絞り出した声が、温室の空気に力なく溶けていく。
正直、なめていた。一国の王太子が、目立たないように必死に気配を消していた私なんかのために、ここまで至れり尽くせりな譲歩をしてくるなんて、誰が想像できるっていうの?
卒業までの秘匿、周囲の視線からの隔離、そして喉から手が出るほど欲しい他国の薬。
私が必死に、泥にまみれて組み立ててきたモブとして生き残るための生存戦略は、彼の提示した破格の条件によって、音を立てて崩れ去ってしまった。
「……っ」
私は震える手で、テーブルに残っていた食べかけのスコーンを掴んだ。
ヤケクソ気味に口に放り込むと、バターの香りが驚くほど甘く広がる。美味しい。悔しいけれど、めちゃくちゃに美味しい。
そして、この美味しさの分だけ、私はもう彼から逃げられないのだと、胃のあたりが重くなる。
私の弱点を正確に撃ち抜き、逃げ道を笑顔で塞いでいったあの琥珀色の瞳を思い出す。
「……勝てるわけないじゃない、あんなの」
思わず零れた本音と一緒に、すっかり冷めてしまった紅茶で残りのスコーンを無理やり流し込んだ。
……でも、一つだけ重大な問題がある。
私がこのまま「王太子の秘密の婚約者」なんてメインキャラの座に座ってしまったら、ヒロインであるミレイユはどうなるの?
最近の彼女は、攻略対象じゃないモブ貴族たちを侍らせるばかりで、全然メインシナリオの攻略をしようとしている様子がない。
以前のようにイベント発生ポイントを必死に回っていた熱意はどこへ行ったのかしら。
けれど、この前は私に直接「殿下と何を話していたのか」と詰め寄ってきた。彼女の中に、殿下への執着がまだ燻っているのは確かだ。
「……これ、ミレイユにとって本来居ないはずの悪役令嬢ポジションに収まっちゃったんじゃ……?」
背中に冷たい汗が流れた。
ゲームのシナリオをぶち壊した想定外の邪魔者。それが今の私だ。
もし彼女が本来の結末を取り戻そうと動き出したら、私は平穏どころか、ヒロインの天敵として排除される側に立たされてしまう。
でも、殿下は「卒業まで婚約したとしても秘匿してくれる」と言ってくれた。
表向きはただの地味な令嬢のままでいられるなら、ミレイユが私を敵と認識して攻撃してくるリスクも低いはず。
「……とりあえずは、今まで以上に慎重に。彼女のことは警戒しつつ、やり過ごすしかないわね」
最後の一口を飲み干し、一点の曇りもなく空になった皿とカップを見つめて、私はようやく重い腰を上げた。
温室から寮までの帰り道、私は誰一人ともすれ違うことはなかった。
殿下が事前に手を回し、人払いをしたと言っていた通りだ。夕暮れ時の校舎に人の気配はなく、石畳を叩く自分の足音だけが虚しく響く。
誰にも見つからない安心感。
けれど同時に、自分の意志とは無関係に世界が作り変えられているような、底知れない不気味さ。
この静まり返った学園の光景そのものが、「お前はもう逃げられない」という無言の宣告のようで、背筋がゾクリとした。
自室に戻り、扉に背を預けて鍵をかけた瞬間、私はその場にへなへなと座り込んだ。
「……返事は、次まで、かぁ……」
考える時間をくれたようでいて、その実、選択肢なんて最初から一つしかなかった。
夢の中で私を見つけ、現実で私を追い詰め、ついには私の願いを全部叶える形で首輪をかけてきた、あの完璧な王子様。
熱を持ったままの頬を両手で押さえながら、私はただ、自分がとんでもない運命の渦に捕まってしまったことを、ようやく自覚した。




