第57話 返事は、次の逢瀬で
温室の湿った空気の中に、甘い茶の香りと、言葉にできないほど濃厚な沈黙が満ちていた。
私は、殿下から手渡された『冷徹公爵の甘き略奪』を、まるで爆弾でも扱うような手つきで膝の上に置いていた。
表紙に描かれた公爵が、今の私の状況を嘲笑っているように見えて、直視できない。
「先ほどまでの威勢はどうした。セレナ。資料を前にして、検証する勇気も失せたか?」
殿下の声は、どこまでも愉悦に満ちている。
彼は優雅な動作でスコーンを二つに割り、クロテッドクリームをたっぷりと塗りたくった。
その完璧な所作を見ているだけで、こちらの心臓の摩耗が激しい。
「……勇気の問題ではありません。殿下が、その……あまりにも私の『断片』を効率よく、かつ最悪なタイミングで観測しすぎていることに、眩暈がしているだけです」
私はようやく絞り出した声で反論した。
そう、数分間の断片だ。殿下が十数年にわたって見てきた夢が、一日わずか数分程度の映像に過ぎないのだとしたら、その限られた時間の中に「TL小説の棚の前で悶絶する姿」が選ばれたのは、もはや天文学的な確率の悪意……いや、運命だろう。
「効率、か。確かにそうかもしれんな。俺にとってその数分間は、一日のうちで最も価値のある、唯一心が休まる時間だったのだから。……たとえそれが、お前が奇妙な薬草を煎じて顔をしかめている姿でもな」
殿下の言葉が、不意に熱を帯びる。琥珀色の瞳が、過去を慈しむように細められた。その視線に、私は思わず息を呑む。
「……けれど、不思議でなりません。もっと他に、美しくて、健康で、殿下に相応しい令嬢の夢を見る可能性だってあったはずでしょう?」
思わず零れた問いに、殿下はティーカップを置くと、椅子から立ち上がりゆっくりと私に歩み寄った。逃げ場を塞ぐようにテーブルに手をつき、至近距離から私を覗き込む。
「他、だと?」
殿下は短く繰り返すと、自嘲気味に口角を上げた。
「……ありえないな。俺の夢に現れるのは、最初から、そして今も、お前一人だけだ。お前以外の何者も、俺の視界に入ることは許されなかった」
大きな手が私の頬をそっと包み込み、熱を帯びた親指がゆっくりと輪郭をなぞる。その熱に、思考が白く染まりそうになる。
「前世で雨に打たれながら、必死に走っていた姿」
殿下の声が、記憶を愛おしむように低く響く。私の脳裏にも、あの日流した雨の冷たさが一瞬だけ蘇った。
「今世でその白い手を泥にまみれさせて、懸命に薬草を育てていた姿……。どの表情も、仕草も、その息遣いの一つ一つまで、俺は毎晩のようにこの目に焼き付けてきたんだ」
慈しむような視線が、膝の上で震える私の指先に落とされる。泥臭い努力の跡まで、彼は「断片」などではなく、一つの人生として見守り続けていたのだ。
「セレナが生きるために必死に足掻き、明日を掴もうとしていたその強さが、どれほど俺を救ってきたか……。お前には想像もつかないだろうな。……お前こそが、俺の唯一の『運命』だ」
吐息が重なる距離で、琥珀色の瞳が私を射抜く。そこには隠しきれないほどの独占欲と、祈りにも似た切実さが混ざり合っていた。
「だからセレナ、俺と正式に婚約を結んでくれ。……これが、今日お前をここに呼んだ本当の理由だ」
「……っ、こん、やく……っ?」
あまりに直球な言葉に、心臓が跳ね上がる。呆然とする私を逃がさないよう、殿下はさらに距離を詰め、甘く囁いた。
「俺の婚約者となれば、お前が心血を注いでいる薬草も、他国の薬も容易く手に入る。お前を真の健康へと導くための道も、俺がすべて切り開いてやろう」
「……他国の、薬……」
その言葉に、私の生存戦略がピクリと反応した。この世界で独り、手探りで健康を模索してきた私にとって、それは喉から手が出るほど欲しい未来だ。迷いを見せた私を見逃さず、殿下は追い打ちをかけるように微笑む。
「資金のことは気にするな。国庫ではなく、すべて俺の個人資産から出す。……お前にとっても、決して悪い話ではないだろう?」
圧倒的な財力と権力。目の前に提示されたのは、愛の告白という名の「最強のスポンサー契約」だった。
「……お言葉ですが、殿下。私は王太子妃……ひいては次期王妃となるための教育も受けておりません。それに、殿下にはもっと相応しい方もいらっしゃるはずです」
私は脳裏に、入学式の日に華麗に転んで注目を集めていた、あの愛くるしいヒロインの姿を浮かべた。彼女こそが物語の主役であり、殿下の隣に立つべき正解のはずだ。
「……例えば、入学式の時にあんなに印象的に転んでいらした、あの方のような……」
私が必死に、学園で見かけた相応しそうな誰かへと話題を逸らそうとしたその時だった。
完璧な微笑を浮かべていた殿下の眉が、不機嫌そうにピクリと跳ね上がる。
「相応しい相手、だと?」
殿下は低く、地を這うような声で繰り返した。私の顎を掬い上げていた指先に、逃がさないと言わんばかりの力がこもる。
「……笑わせるな。十数年もの間、俺の夢の中に現れ続け、俺の心をかき乱し続けてきた当事者が、今さら何を言っているんだ」
琥珀色の瞳が、これまでにないほど鋭く私を射抜く。その視線の強さに、私は呼吸をすることさえ忘れてしまいそうになる。
「お前以外の誰を、俺の隣に置けというのだ。名も知らぬ『誰か』などではない。雨に打たれ、泥にまみれながらも、俺の視界のど真ん中で生き抜いてきた……お前こそが、俺の唯一だ」
あまりに重く、逃げ場のない断言。殿下は鼻で笑い、私が引き合いに出した「誰か」など一瞬で記憶の彼方へ追いやった。彼が積み上げてきた歳月の前では、他の令嬢など存在しないも同然だったのだ。
「教育? 学ぶ必要などないだろう。お前は試験でわざと手を抜いているが、その実力は学年首位を狙えるほどだ。それに、領地でのあの鮮やかな改革……」
殿下の指先が、私の唇をなぞるように滑る。
「それだけの才覚があれば、王妃の座など造作もないはずだ。……お前のその賢さは、俺の隣に立つためにあるのだと思えば、実に愉快な巡り合わせじゃないか」
「……っ、なぜ、そこまで……」
領地の改革も、試験での加減も。すべてを観測されていた事実に、私は言葉を失う。生存戦略のつもりが、すでに盤面は王手をかけられていた。
「婚約の事実は、お前が卒業するまで秘匿しよう」
殿下は、私の不安を見透かしたように低く囁いた。その声には、周囲の雑音から私を守り抜くという、絶対的な自信が宿っている。
「学園での平穏を望むなら、周囲の目はすべて俺が逸らしてやる。……その代わり、週に何度かこうして俺と逢瀬を重ねてくれ」
剥き出しになった耳元に、熱い吐息が触れる。殿下は一度身を引き、確信に満ちた、残酷なまでに美しい微笑を浮かべた。
「お前にとっても、決して悪い話ではないだろう?」
薬草、健康、他国の薬、そして絶対的な庇護。提示された条件は、私がこの世界で生き抜くために必要なピースを、あまりにも正確に埋めていく。
「……っ、そんな、急に言われても……」
混乱する頭でそれだけを絞り出すと、殿下は満足げに目を細め、立ち上がって私の頭を軽く撫でた。
「構わない。返事は、次の逢瀬の時に聞かせてもらおう。……それまでに、お前がどれだけ俺の条件に抗えるか、じっくりと考えておくといい」
次があることは確定事項だと言わんばかりの、余裕に満ちた背中が遠ざかっていく。
私は動悸の収まらない胸を押さえながら、去っていく彼の足音を数えていた。
差し出された他国の薬という名の、あまりに甘く抗いがたい誘惑。
自らの生存戦略を根底から揺さぶるその『条件』を前に、私はただ、熱を帯びたままの頬を両手で包み込むことしかできなかった。




