第56話 夢の境界線、羞恥の防衛線
殿下の手によって注がれたお茶は、驚くほど透き通った黄金色をしていた。
「精神を鎮める茶葉」という言葉に嘘はないようで、温室内に広がる香りは確かに心地よい。
けれど、対面に座る男から放たれる圧倒的な圧迫感までは消し去ってくれなかった。
「……どうした。飲まないのか?」
「い、いただきます……」
促されるまま、私は震える手でカップを口に運んだ。
悔しいけれど、身体の隅々にまで染み渡るような深い味わいだ。
けれど、安堵したのも束の間。殿下はカップを置くと、組んだ足の隙間に肘をつき、獲物を値踏みするような鋭い眼差しで私を見据えた。
琥珀色の双眸は、まるで獲物を追い詰めた肉食獣のような、静かな熱を孕んでいる。
「少しは落ち着いたようだな」
殿下は満足げに口角を上げると、先ほどまでの刺すような気配をふっと霧散させた。
まるで上質な絹で包み込むような、穏やかで完璧な貴公子の微笑み。
「昨夜は、随分と熱心に資料に目を通していたようだが。……お前が興味を持っているのは、あの『竜騎士』だけではないだろう?」
殿下は事も無げに、テーブルの下から一冊の本を取り出した。
私はその装丁を一目見た瞬間、心臓が跳ね上がった。それはこの前の休みにタウンハウスへ戻った際、王都の本屋で私が散々悩んだ末に、購入を断念した一冊だった。
タイトルは、『冷徹公爵の甘き略奪~従順な小鳥は夜ごと啼く~』。市井で竜騎士と同じく爆発的な人気を誇る、扇情的な物語だ。
「なっ……! なぜ、それを殿下が!?」
「なぜ、だと? ……お前が夢の中で、この本を前にひどく悩んでいたからな」
さらりと吐き出された言葉に、私は持っていたティーカップを危うく落としそうになった。
この方は、私と学園で出会うずっと前から、私の人生を特等席で眺めてきた「観測者」だ。
けれど、殿下が一度に見る夢は、わずか数分間の断片に過ぎないはず。
「……待ってください。殿下が見る夢は、ほんの数分の出来事だと仰っていましたよね? なのに、なぜそんなピンポイントに……」
「ああ。俺が見る夢は短いが、その数分間、お前はずっとその本を握りしめて棚の前で固まっていたんだ。……よほど執着しているのだなと、嫌でも印象に残る」
「……っ、う、嘘でしょう……。よりによって、その数分間を見られていたなんて……」
私は顔を覆って呻いた。誰にも見られていないはずの、一番恥ずかしいプライベートが丸裸にされている。
「……あ、あの、殿下。一つ、勇気を出してお伺いしてもよろしいでしょうか。その『数分間の断片』には……その、私が入浴していたり、……着替えをしていたりするような場面も、含まれているのでしょうか……?」
温室の空気が、一瞬で凍りついた。
完璧な微笑みを浮かべていた殿下の表情が、見たこともないほど派手に崩れる。
「……っ!?」
殿下は弾かれたように顔を背け、拳を口元に当てた。耳の付け根まで朱に染まっているのが、逆光の中でもはっきりとわかる。
「……いや。……あいにくと、そこまでは見ていない。決定的な瞬間の前で目が覚めるか、霧がかかったようになるんだ」
殿下はひどく狼狽したように声を荒らげた。
けれど、すぐにその熱を帯びた琥珀色の瞳を私へと戻し、低く、掠れた声で付け加える。
「……おかげで、こちらは想像するくらいしかできていない」
「……っ、そんな想像、禁止です! 今すぐ記憶から消去してください……っ!」
「断る。……セレナ。そんなに誰かを夢想したいのであれば、俺だけを想え。架空の男などに頼らずとも、お前が望む以上の『実践』を、俺が直々に授けてやる」
壊れ物を扱うような優しさと、決して逃がさないという冷徹な執着。
注ぎ足されるお茶の香りはどこまでも甘く、逃げ場のない檻のように私を包み込んでいた。
「……さて。お代わりはどうだ、セレナ。時間はたっぷりあると言っただろう?」
「……っ、まだ帰してくれないんですか……?」
「当然だ。まだ茶菓子も食べていないだろう」
殿下が満足げにティーポットを傾ける。その瞳の奥には、夢の中でしか触れられなかった存在をようやく現実で手に入れた男の、深く、暗い悦びが宿っていた。
私は震える手で、その本を受け取った。温室の静寂の中に、自分の心臓の音だけが、警鐘のように激しく響き渡っていた。




