第55話 健康寿命を削る男
朝、目が覚めた瞬間に願ったのは、「昨夜の出来事がすべて質の悪い悪夢であってほしい」ということだけだった。
けれど、サイドテーブルに置かれた冷めきったハーブティーと、不自然に閉じられた恋愛小説が、無慈悲な現実を突きつけてくる。二階の窓を叩くあの執拗な音も、カーテンを揺らして侵入してきた琥珀色の瞳の主も、すべては現実に起きたことなのだ。
「……ああ、私のモブ人生が……」
私は鏡の中の、寝不足で青白い自分の顔を恨めしく見つめた。目立たず、騒がれず、卒業後は適当な領地で平穏に暮らす。そんな完璧なライフプランが、王太子の窓からの強襲という規格外の暴挙によって、いまや風前の灯火だ。
約束の午後二時を迎える少し前。私は重い足取りで、学園の敷地にある温室へとやってきた。
ここは珍しい熱帯の植物を育てるために常に一定の温度が保たれた、静かな場所だ。緑の葉が幾重にも重なり、色鮮やかな花々が湿った空気に濃厚な香りを振りまいている。外の世界からは完全に遮断された、ガラス張りの鳥籠のような空間。
遅れるなという殿下の言葉は、絶対だ。もし一分でも遅れれば、彼は本当に白昼堂々、拐いに来るだろう。私は震える手で、温室の重厚な扉を押し開けた。
シダ植物が壁のように生い茂る通路を抜け、中央の開けたスペースに出る。そこには白磁のテーブルセットが設えられ、すでに一人の男が優雅に椅子に腰を下ろしていた。
「……感心だな。俺を待たせるとはどういうことか、よく分かっているようだ」
約束の数分前だというのに、彼はすでにそこにいた。逆光を浴びて、彫刻のように整った顔立ちに深い影が落ちる。昨夜、月光の下で見た不審者と同じ人物だとは信じられないほど、今の彼は完璧な王太子としての威厳を纏っていた。
「……ご、ごきげんよう、レオナルト殿下。お招きに預かり、光栄に存じます」
私は弾かれたように足を止め、深々とカーテシーを捧げた。心臓の音が、温室の静寂に響いてしまいそうで怖い。
「座れ。……ずいぶんと顔色が悪いな、セレナ。昨夜は、あの竜騎士に愛を乞う小説に夢中になりすぎて、眠れなかったのか?」
不敵な笑みを浮かべた殿下の口から、昨夜の恥部がさらりと暴露される。私は真っ赤になった顔を伏せ、膝の上で拳を握りしめながら、消え入りそうな声で弁明を絞り出した。
「そ、それは……私は今まで、ずっと領地に籠っておりましたから! 市井でどのような書物が流行っているのか、純粋な興味を持って手に取っただけです……っ。決して、その、あのような破廉恥な展開を期待していたわけでは……っ」
「ほう。純粋な興味、か。では、あの竜騎士が王女を力ずくで組み伏せる描写についても、お前は冷静に分析していたというわけか?」
「うっ……あ、あれは、その……緊迫した状況下での人間心理を学ぶための、資料として……っ」
羞恥にまみれ、声が震える。殿下は私の必死な言い訳を鼻で笑うこともせず、椅子に深く背を預けたまま、愉しげに目を細めた。
「資料、か。分析するのは結構だが、セレナ。座学だけでは真実は見えてこないぞ。その『人間心理』とやら……。分析するより、今ここで俺が実践してやった方が、よっぽど身に付くんじゃないか?」
「……っ!?」
出た。二人きりの時の、あの傲岸不遜な一人称。
「……な、何を。殿下、ここは学び舎たる学園ですわ。あまりに不適切な振る舞いは……っ」
精一杯、淑女としての理性を保とうと牽制するが、声の震えまでは隠しきれない。
「誰も来ないように手は打ってある。……安心しろ、あの小説の竜騎士ほど手荒な真似はしない。お前がその資料を読み込んで、どんな反応を期待していたのか……それを一つずつ、俺が確かめてやるだけだ」
殿下はゆっくりと立ち上がり、逃げ場を塞ぐように私の隣へと歩み寄った。シダ植物の濃厚な香りと、彼が纏う高貴な香りが混ざり合い、私の思考を麻痺させる。
「まずは、あの場面だったか。――『逃げようとする王女の細い手首を掴み、壁へと押しやる』。……お前の分析によれば、この時のヒロインの心境はどうなっているんだ?」
熱を帯びた指先が、私の手首にそっと触れる。
「……っ、あ……」
「声が出ないか? まぁいい。実践はこれからだ。お前のその『モブでいたい』という歪な願望ごと、俺が直接、その体に現実を刻み込んでやるよ」
……もう嫌だ。健康だった前世とは違い、今世のこの体は驚くほど脆い。
そんなハンデを背負ってでも、少しでも長く、健やかに、静かな余生を送るために今日まで必死に養生を重ねてきたというのに。殿下が振りかざす心臓に悪い刺激の数々は、私の生存戦略を根底から叩き壊そうとしている。
必死に手に入れた今世の平穏も、命を繋ぐための日々の摂生も、この温室の蒸せ返るような空気の中で、一瞬にして奪われてしまいそうだった。
「……さて。これ以上お前を苛めると、本当に泣き出しそうだな。今日は特別に、お前の荒れた精神を鎮める茶葉を用意させてある。座れ、セレナ。これを飲み終えるまでは、お前を帰してやるつもりはないからな」
殿下は満足げに、再び王太子の顔に戻ってティーポットを傾けた。




