第54話 逃げ場なき夜の密会
金曜日の深夜。私は女子寮の自室で、ようやく安堵の溜息を吐いていた。
机の上には、あの重厚な封筒が置かれたままだ。中身は、明日午後二時の呼び出し状。……けれど、私は決めていた。
「気づかなかったことにしましょう。そうよ、教科書の間に紛れ込んでいて、うっかり見落としていたことにすればいいわ。後で殿下に問い詰められても、『申し訳ございません、全く存じ上げませんでした』と、震えながら謝れば、きっと……」
そんな、モブキャラとしての精一杯の「知らぬ存ぜぬ作戦」を頭の中で練り上げ、私はようやく安堵した。完璧だわ。我ながら、これほどしっくりくる言い訳はない。
私はナイトドレスに着替え、入眠を助けるハーブティーを用意した。さらに、手持ち無沙汰を解消するために手に取ったのは、最近市井で流行っているという恋愛小説だ。
『囚われの乙女は、傲慢な竜騎士に愛を乞う』――。
それは、身分違いの竜騎士に拐われた王女が、彼の強引で情熱的な愛に次第に溺れていくという、少し過激な内容だった。
「……ふふ、凄いわね。現実にはあり得ないけれど、これほどまでに一途に愛されたら、幸せなのかしらね……」
湯気と共に広がる穏やかな香りに包まれ、普段なら鼻で笑うような甘く扇情的な描写に、ついつい引き込まれてページをめくる。これこそが私が望んでいた、あるべき週末の姿だ。
ページをめくる音だけが響く、静かな深夜。
ついつい読書に没頭し、深夜二時を告げる鐘が遠くで鳴り響いた、その時だった。
――コツ、コツ。
静まり返った部屋に、あってはならない変な音が響いた。
音がしたのは、背後の窓。
……え?
ここは二階だ。こんな時間に、誰かが窓を叩くなんてあり得ない。鳥がぶつかったのかしら。それとも、風の悪戯?
――コツ、コツ。
音は止まない。まるで、私の「気づかなかったことにしよう」という魂胆を、すべて見透かしているかのような、規則正しくも執拗なノック。
私は震える手でカップを置き、恐る恐る振り返った。
月光に照らされた窓の向こう。
そこには、窓枠の僅かな出っ張りに足をかけ、重力など存在しないかのように平然と佇む、琥珀色の瞳をした影があった。
「……夜更かしは感心しないな、セレナ。だが、起きていてくれて助かった」
低く、窓越しでもはっきりと聞こえる、あの傲岸不遜な声。
「……れ、レオナルト……殿下……っ!!?」
私が悲鳴を押し殺して窓際に駆け寄ると、殿下は事も無げに、内側からかけられていたはずの鍵を容易く開け、音もなく室内に滑り込んできた。
「な、なぜ、ここに……っ。今は深夜ですわ! 見つかったら……」
「見つからなければ、問題ないと言っただろう。……それより、君のことだ。『手紙に気づかなかった』などという可愛らしい言い訳を用意しているのではないかと思ってな。こうして、念を押しに来た」
殿下は琥珀色の瞳を愉しげに細め、呆然とする私の顎を、冷たい指先で掬い上げた。
「逃げようなどと考えるな。もし明日、温室に君が現れなかったら――私は今度は、白昼堂々、この窓から君を拐いに来ることになるが、構わないか?」
「……っ!」
以前、無理やりこの部屋に居座った時のような、有無を言わさない威圧感。
殿下は私の顎から手を離すと、ふと、ベッドの上に放り出されていた小説に目を留めた。
「……『傲慢な竜騎士に愛を乞う』? ……なるほど、君はこういう、強引に奪われるシチュエーションが好みなのだな」
「あ……っ、それは……っ」
殿下は意地悪く目を細め、そのまま私の姿を、頭の先から爪先まで、ゆっくりと品定めするように舐め回した。
……ハッとした。今の私は、薄手のナイトドレス一枚。月光に透けているわけではないけれど、あまりにも無防備な格好だ。
殿下は再び琥珀色の瞳を私の顔に戻すと、少しだけ暗い独占欲を滲ませて首を振った。
「わざわざ小説に愛を乞わなくとも、私の前でその可愛い唇を開けば、いくらでも愛してやるというのに……。趣味が悪いな、セレナ」
「……っ!」
彼はゆっくりと歩み寄り、私の耳元に唇を近づけた。
「……それに。いくら安らぎのハーブティーを嗜んでいるとはいえ、そのような格好で、こんな扇情的な小説を読んでいるなんて……。お前の無防備さは、少し刺激が強すぎる」
小説の中の竜騎士よりも、よっぽど傲慢で、有無を言わさない圧倒的な独占欲。
「……わ、分かりました……。行きます、行けばいいのでしょう……っ」
私は顔を赤くし、屈辱と胃痛に震えながら、消え入るような声で答えるしかなかった。
「……よろしい。では、明日の午後二時、温室だ。遅れるなよ」
殿下は満足げに唇の端を吊り上げると、そのまま音もなく窓の外へと消えていった。
ふわりとカーテンが揺れ、彼が消えた空白の窓枠を、私はただ呆然と見つめていた。
……ここは二階。やっぱり、この人は人間をやめている。
私は震える手で窓の鍵をかけ、投げ出されたままの恋愛小説を閉じた。ハーブティーの安眠効果なんて、一瞬で吹き飛んでしまった。
「……小説の方が、まだ、健全だったわ……」
深夜の静寂を切り裂くように、無情にも午前二時の鐘が鳴り響いた。




