第53話 逃げ場なき籠城
あの日、特別保健室でレオナルト殿下に「最愛」などという世迷い言を吐き捨てられて以来、私の生活は劇的に、そして最悪な形で変化した。
殿下との直接のやり取りは、幸いにも今日まで一度もなかった。けれど、それが平穏を意味するわけではない。
講義の合間、中庭を歩いている時。図書室の窓際で調べ物をしている時。ふと顔を上げれば、そこには必ずと言っていいほど、殿下の姿があった。
遠くで側近たちと談笑しながらも、その冷徹な琥珀色の瞳だけは、獲物を逃さない鷹のようにじっと私を射抜いている。
一度だけ、廊下の向こうから真っ直ぐに私を見据えたまま、唇の端を吊り上げて「待っているぞ」とでも言いたげな笑みを浮かべられた時は、本気で胃が裏返るかと思った。
そんな、精神を削り取るような視線だけの包囲網に耐え続け、ようやく金曜日を迎えた。
今日さえ乗り切れば、明日からは待望の二日間の休みがやってくる。
いつもなら王都にある伯爵家のタウンハウスへ帰るところだけれど、今回はあえて寮の自室に引きこもることに決めていた。
前回の帰宅時、殿下からあの希少な薬草が届けられた際、ナタリーは「公的、にしては少々、お心がこもりすぎている気もいたしますが」と、鋭い指摘を私に投げた。
彼女は私の一番の味方であり、私の平穏を誰より案じてくれている。
だからこそ、彼女のいるタウンハウスへ帰れば、彼女は私に代わって「断るべきか、どう接すべきか」と、私以上に心を痛めてしまうだろう。
それに、あの薬草の素晴らしさに抗えず、夢中で鍋を振るって琥珀色の液を調合してしまった姿を見られた手前、今さら彼女にどんな顔をして殿下の愚痴を言えばいいというのか。
幸い、この学園には王都にタウンハウスを持たない遠方の令嬢たちも多いため、休日期間中も女子寮の食堂は開放されている。
身の回りの世話を自分でする必要はあるけれど、食事に困ることはない。
今の私にとって、唯一の聖域はこの女子寮の自室だけだ。
ここなら誰に気兼ねすることもなく、ただ一人、天蓋付きのベッドに潜り込んで嵐が過ぎ去るのを待つのだ。
私は最後の一踏ん張りとばかりに、完璧に身なりを整えて教室へ入った。
クラスメイトたちは相変わらず、私を未来の王妃様として崇めるような、どこまでも温かい目で見守ってくれている。
その視線の雨を潜り抜け、私はいつもの風景の一部である自分の席へと辿り着いた。
鞄を下ろし、一限目の準備をしようとした、その時だった。
教科書を取り出そうとした手が、机の中に潜んでいた異物に触れた。
嫌な予感に指先が震える。
そっと引き抜いたのは、真っ白な、けれど重厚な厚みを持った封筒。
そこには、あのレオナルト殿下の、力強くも傲岸不遜な筆致で私の名前が記されていた。
ロシュフォール様のような柔らかな花の香りではなく、どこか冷たく、けれど有無を言わさない権力の圧を感じさせる封蝋。
――呼び出し。
それも、この週末。逃げ場のない、休みの初日を指定して。
一週間の沈黙は、私を安心させるためのものではなかったのだ。
外堀をロシュフォール様に完璧に埋め立てさせ、私がクラス全員の「味方」という名の監視によって逃げ場を失うのを、殿下はただ静かに、愉しみながら待っていただけなのだ。
「……嘘でしょう……?」
私の小さな呟きは、クラスメイトたちの温かい沈黙に吸い込まれて消えた。
待望の休日は、始まる前に、無慈悲な王太子の手によって最前列の戦場へと書き換えられてしまった。
私は震える手で机を掴み、引き出しの奥に隠しておいた本日二錠目の胃腸薬を、水もなしに飲み込んだ。




