第52話 公爵令嬢の秘密工作
一限目から放課後まで、私はかつてないほど生きた心地がしなかった。
授業の合間、クラスメイトたちは表面上、いつものように接してくれた。朝の挨拶も、最低限の事務的なやり取りも、昨日までと何も変わらない。腫れ物に触るような露骨な避避はなく、私は「ああ、やっぱりいつもの背景に戻れたんだわ」と、午前中のうちは胸をなでおろしていた。
けれど、時間が経つにつれて、奇妙な違和感がじわじわと私の胃を締め付け始めた。
ふとした瞬間に目が合うと、クラスメイトたちは決まって、これまでに見せたこともないような、どこまでも「温かい目」を向けてくるのだ。
それは、迷子を見守る母親のような、あるいは、嵐の中を耐え抜いた一輪の花を慈しむような、あまりにも優しすぎる眼差し。
いつもなら事務的に声をかけてくる令嬢が、今日はわざわざ一歩引いて、聖母のような微笑みを浮かべながら道を譲ってくれる。男子生徒たちも、なぜか私が近くを通るたびに、背筋を正して「……お先にどうぞ」とでも言いたげな、恭しくも誠実な会釈を返してくる。
……おかしい。
挨拶もやり取りも「いつも通り」のはずなのに、教室全体が、目に見えない巨大な「敬愛の繭」で私を包み込もうとしている。この、逃げ場のない温かさは一体何なのだろう。
結局、その違和感の正体を掴めないまま、私は夕食を済ませて女子寮の自室へと逃げ帰った。
ドアを閉め、鍵をかけ、ようやく深い溜息を吐き出す。
「……終わった。なんとか、平穏な一日を乗り切ったわ……」
そう自分に言い聞かせ、着慣れた綿のネグリジェに着替えようとした私の目に、床に落ちている白いものが飛び込んできた。
ドアの隙間から差し入れられていたのは、高級な封筒。そこには、あの眩しいロシュフォール様の、流麗な筆跡で言葉が綴られていた。
『親愛なるアルトレイン様へ。
昨日の今日ですもの、きっと不安な一日を過ごされたことでしょうね。
でも、どうか心配しないでくださいませ。
昨夜のお茶会で、クラスの皆様とはしっかりとお話ししておきましたわ。
皆様、アルトレイン様の味方であり、大切な秘密を共有する仲間です。
「彼女は今、とても繊細で、大切に守られるべき状態にありますの。ですから、昨日のことは決して口に出さず、彼女がいつも通りに過ごせるよう、皆様で静かに見守りましょう」……と。
今のクラスは、貴女の味方です。
誰一人として、無粋な真実を口にする者などおりませんから、どうぞ安心してお休みになってね。
貴女の健やかな明日を祈って。
カトリーヌ・ロシュフォール』
手紙を読み終えた瞬間、私の指先から力が抜け、紙がひらりと床に落ちた。
「……味方、って……仲間、って……」
膝から崩れ落ちそうになるのを、必死で机に縋って堪える。
ようやく分かった。今日一日、教室を支配していたあの、居心地の悪いほど温かい目の正体が。
ロシュフォール様は、昨日私を連れ出したことの釈明どころか、クラス全員に「彼女こそが兄様の特別な人なのだ」と、公爵令嬢としてのお墨付きを与えてしまったのだ。あろうことか、未来の王妃様をみんなで支えるという、鉄の結束を誇る包囲網を無意識のうちに結成して。
廊下で道を譲ってくれたあの微笑みも、恭しすぎるあの会釈も。すべては、王太子殿下の心を射止めた私に対する、敬意と期待の表れ。
胃の奥が、昨日以上の速度でキリキリと痛み始める。
上書きされたのは、平穏などではなかった。私のモブとしての人生が、ロシュフォール様の慈愛という名の大筆で、黄金に輝く「王妃候補」の背景へと塗り替えられてしまったのだ。
私は震える手で、もう一錠、予備の胃腸薬を求めて引き出しに手を伸ばした。
明日、あの期待に満ちた視線の嵐の中に、一体どんな顔をして飛び込めばいいというのか。




