第51話 上書きされた平穏
昨夜の祈りが通じたのか、目覚めは驚くほど穏やかだった。
窓から差し込む朝日は柔らかく、小鳥のさえずりさえ聞こえる。鏡に映る自分は、隈もなく、胃の痛みも今は感じない。今日からまた、ただのモブに戻るだけ。私は自分にそう言い聞かせ、丁寧にアイロンをかけた制服の襟を正した。
部屋を出る直前、私は机の引き出しから小瓶を取り出し、慣れた手つきで胃腸薬を一錠、白湯で一気に流し込んだ。
この一錠が、私の胃に鉄壁の盾を張ってくれる。これから向かう食堂で、あるいは教室で、どんな不穏な噂や視線に晒されようとも、この盾がある限り私は平静を保てるはずだった。
万全の準備を整え、私は部屋の鍵をかけた。目立たない歩幅で、まずは朝食のために食堂へと向かう。
朝の食堂は、夕食時に比べれば静かなものだった。
私は配膳台で、胃に優しい温かなオートミールと、軽くトーストしたパン、それに新鮮な果物が入ったヨーグルトを受け取った。事前に飲んだ薬が馴染んでいるおかげで、過度な緊張に胃が収縮することもない。ふっくらとしたパンの小麦の香りと、ヨーグルトの爽やかな酸味を、私は純粋に味わうことができた。
周囲では登校前の生徒たちが小声で談笑しているが、昨日ほどの熱狂はない。誰もが今日一日の講義や予定に意識が向いているようだ。一晩経てば、みんな忘れる。あんな突発的な騒動、喉元過ぎれば熱さ忘れるはず。私は最後の一口まで綺麗に平らげ、温かいハーブティーで喉を潤した。
体調は万全。薬の加護も完璧。これなら、今日一日の講義もその他大勢として無難に乗り切れる。そう確信して食器を片付け、軽やかな足取りで校舎へと向かった。
中庭を抜け、慣れ親しんだ教室の扉の前に立つと、心臓がさきほどから早鐘のように打ち始めた。
扉を開ければ、きっと昨日の騒動の続きが待っている。クラスメイトたちは一斉に私を振り返り、質問攻めにするか、あるいは腫れ物に触れるような同情の視線を向けてくるに違いない。何せ昨日、私はクラス全員の視線を浴びる中、ロシュフォール様に連れられて教室を出たまま、結局戻ってこなかったのだから。
私は一度、ぎゅっと目を閉じ、小さく息を吐いてから扉に手をかけた。
――ガラリ。
身構えながら、教室へと足を踏み入れる。
一瞬、教室内の会話が止まり、全視線が私に集まる……。そう覚悟していたのに、現実は驚くほど静かだった。
拍子抜けするほど、そこにはいつも通りの朝があった。
生徒たちは昨日の観劇の感想や、週末の予定について賑やかに談笑している。誰一人として私を振り返る者はおらず、入り口で立ち尽くす私に視線を送る者さえいなかった。まるで、昨日のあの衝撃的な出来事など、最初から存在しなかったかのような空気だった。
困惑しながらも、私は目立たないよう壁際に沿って自分の席へと移動し始めた。クラスメイトたちの横を通り過ぎる際、男女問わず盛り上がっている会話が断片的に耳に入ってくる。
「……昨日は本当に、夢のようなひとときでしたわ」
「ああ、同感だ。クラス全員をロシュフォール様のお茶会に招待していただけるなんて、一生の誉れだよ」
「あんなに素晴らしいおもてなしを受けたら、昨日の疲れなんてすっかり吹き飛んでしまったわ」
昨日の放課後、彼女たちは、そして彼らも、全員がロシュフォール様に連れられてお茶会に行っていたというのだ。
昨日、私が連れ出された後の事件の記憶も、その後の不穏な空気も、ロシュフォール様が全て上書きしてしまったのだ。豪華な茶会という名の、優雅で絶対的な口封じによって。あのお茶会は、事実上の箝口令だったのだと私はようやく理解した。
自分の机に辿り着く直前、ふと、窓際の特等席に座るロシュフォール様と目が合った。
彼女は、いつものように優雅に頬杖をつき、私を見つめていた。
視線が重なった瞬間。彼女は、美しく整えられた唇の端を少しだけ上げると、悪戯っぽく、けれど完璧な動作で一度だけウインクをしてみせた。
ああ、この方だ。この方が、私の平穏を守るために、この場にいた全員の手綱を握りつぶしてくださったのだ。
圧倒的な貴族の権威。そして、その裏にある底知れない策略。私は、ロシュフォール様という存在の恐ろしさと、それ以上に大きな安心感に包まれ、膝から力が抜けそうになるのを必死で堪えた。




