殿下の甘い罠
ようやく自分の部屋の前に辿り着き、私は微かな期待を込めて足を止めた。
エスコートはここまで。これ以上は、寮監さんとの約束もあるし、何より私の心臓がもたない。
「……あの、殿下。送ってくださって、ありがとうございました。鍵、開けますので……」
私は彼の手をそっと離し、震える手でポケットから鍵を取り出した。
自室に入り、扉を閉めてしまえば、この恐ろしいほど甘い地獄から解放される――。そう思った瞬間だった。
「…………」
取り出した鍵を、殿下の長く白い指先が、横からひょいと奪い去った。
「あ……」
抗議する間もなかった。殿下は迷いのない動作で鍵穴を回し、カチリ、と軽やかな音を立てて扉を開け放つ。
「さあ、入ろうか」
……え?
短い一言と共に、殿下は当たり前のような顔をして、そのまま室内へと足を踏み出そうとする。
「あ、あの、殿下!? ここからは一人で大丈夫です! 寮監さんも長居は無用と仰っていましたし……っ」
私が必死に食い下がると、殿下は扉のノブを掴んだまま、ふっと口角を上げた。
「……何を言っている。容態を見極める必要があると言ったはずだ。室内で再び倒れないか、この目で見届けるまでは送り届けたとは言えないからな」
「え、あ……っ」
あまりに堂々としたその理屈に圧倒されている間に、殿下は私の背を抱くようにして、そのまま強引に室内へと一歩を踏み出した。
抗う術もなく、私は彼に促されるまま、自分の部屋の中へと連れ込まれてしまう。
そのまま、背後で重厚な扉が閉められ、カチリと、内側から鍵をかけられた音が、静まり返った部屋に重く響いた瞬間。
私の背筋に冷たいものが走った。
「え……っ、で、殿下!? なぜ鍵を……っ」
慌てて振り返ると、殿下は事も無げにドアノブから手を離したところだった。
未婚の男女が施錠された密室にいる。それがどれほど不謹慎で、言い逃れのできない状況か。
「あ、開けてください! いくら体調を案じてくださったとはいえ、扉を閉め切るなんて……。せめて、少しだけでも開けておかないと、外聞が……っ」
必死に鍵に手を伸ばそうとする私を、殿下はひょいと腕で遮り、楽しげに目を細めた。
「外聞? ……おかしなことを言うな。もし扉を少しでも開けていたら、巡回に来た寮監にお前の正体が筒抜けになるぞ」
「……っ!」
殿下の指摘に、私は息を呑んだ。そうだ。あの寮監さんは、学生たちの色恋沙汰には目がなく、とにかく噂話が大好きなことで有名だった。
「教官達なら、理事である私の叔父の顔を立てて口を噤むだろうが、あのひとは違うだろう? もし扉が開いていれば、親切心を装って間違いなく中を覗き込んでくるぞ」
「それは……っ」
「以前も言ったはずだ。お前の名は、まだ誰にも教えてやるつもりはない、と。……今ここでお前の正体がバレないように、私がわざわざ鍵をかけて『守って』やっているんだ。感謝こそすれ、文句を言われる筋合いはないな」
確信犯だ。この人は、保健室でヴィクトール様に命じて私の午後の講義を休ませた時から、こうなることを予見していたのではないだろうか。
「それでも開けたいと言うのなら、今すぐ開けてやってもいい ……どうする。あの噂好きな寮監に、今この瞬間『王太子の最愛はセレナ・アルトレインだった』と教えにいくか?」
殿下はそう言って、背後のドアノブにわざとらしく手をかけた。
意地悪く細められた瞳が、「お前がそれを選べるはずがない」と勝ち誇っている。
「……っ、……閉めておいて、ください」
私は顔を赤くして、消え入るような声で答えるしかなかった。
自分の意思で、私は殿下との密室を選んでしまったのだ。




