甘やかなる強制送還
「ま、待って、ください……っ!」
廊下へと消えた第二王子殿下の足音が、非情にも遠ざかっていく。
このまま彼に行かせてはいけない。陛下たちに報告などされたら、私の「モブとして平穏に生きる」という願いどころか、実家の家族全員が望みもしない王室の激流に飲み込まれ、二度と静かな暮らしには戻れなくなってしまう。ご両親だって、腰を抜かすどころの話ではないはずだ。
私は焦燥に突き動かされ、力の入らない腕でベッドの縁を掴んだ。一秒でも早く彼を追いかけ、このとんでもない誤解を解かなければ――。
けれど、やはり私の脚は、生まれたての小鹿のように笑ったまま一歩も動いてはくれなかった。
「……っ、……ぁ」
情けなさに唇を噛む。
先ほど殿下が放った「最愛」という名の爆弾発言の余波が、まだ体の芯を凍りつかせているのだ。逃げたい。今すぐこの場から背景の中に溶け込んで消えてしまいたいのに、気力とは裏腹に、石のように重くなった脚が床を蹴ることさえ拒絶している。
焦るあまり、もつれる脚で無理に立ち上がろうとした瞬間、均衡を失った視界が大きく傾いた。――激突を覚悟して目を閉じたが、衝撃は来ない。
「無茶をするな、セレナ」
繋がれたままの手を優しく、けれど強引に引き寄せられ、私はそのまま殿下の逞しい胸の中に収まっていた。頭上で響く声はどこまでも慈愛に満ちている。それが、今の私には死刑宣告よりも恐ろしい。
「……っ、殿下……大丈夫、です……。今なら、まだ……追えば、間に合い……」
「……ふむ。そんなに弟が気になるのか? ……妬けるな。だが、お前は自分の体のことだけを考えていればいい」
殿下の腕の力が、さらに強まった。彼はすべて分かっているのだ。私が必死に止めようとしている理由も、弟君の報告が何を意味するかも。殿下にとって、弟の独断は望むところ。だからこそ、彼は私の必死の訴えをあえて「嫉妬」という言葉ですり替え、私の言葉を封じている。
「ヴィクトール。教官には伝えておけ。セレナは心身の疲労が激しいため、午後の講義は欠席。私が直接、寮まで送り届けると」
「畏まりました。……ロシュフォール様も、お付き添いいただけますか?」
「ええ、もちろんですわ! お兄様、安心してお任せくださいませ。わたくしたちが責任を持って、教官へ事情を説明して参りますわ!」
ロシュフォール様は、殿下の意図を完璧に汲み取ったような晴れやかな笑顔を浮かべると、ヴィクトールと共に足早に部屋の出口へと向かった。
殿下は私の抗議を甘く遮ると、あろうことか私の膝裏に腕を差し入れ、軽々と私を横抱き――お姫様抱っこの形で抱え上げた。
「あ、……なっ!? 殿下っ!」
「暴れるな。落ちたら危ないだろう?」
学園敷地内にある寮まで、歩いてすぐの距離。けれど、殿下の腕の中に完全に収まった状態で、予鈴が止んだ直後の生徒で溢れかえる廊下を歩くなど、私にとっては永遠に続く公開処刑のランウェイでしかない。
せめて……せめて顔さえ知られなければ……!
私は羞恥にまみれ、なりふり構わず殿下の胸元に顔を押し当てた。
ここで顔を見られ、正体がバレてしまえば、私の「平穏なモブ人生」は粉々に砕け散る。一縷の望みをかけ、私は殿下の制服の香りに包まれながら、必死に自分を「ただの荷物」だと思い込ませようとした。
そんな私の涙ぐましい抵抗を、殿下はどう受け止めたのか。
私の耳元で、愉悦を隠しきれない低い声が響く。
「……そうやってしがみつかれるのも、悪くない」
殿下のその言葉を合図に、出口にいたヴィクトール様が左右の重厚な扉を音もなく、恭しく開け放った。
「――っ!」
――背景に戻らせて。お願い。誰か私を、今すぐただの石ころに変えて。
祈り虚しく、殿下はヴィクトールが開いた扉の先へ、堂々と足を踏み出した。
その先には、廊下を埋め尽くす生徒たちの驚愕と、悲鳴に近いざわめきが、津波のように待ち構えていた。




