逃がさない。俺が決めたことだ
結局、私が必死に繰り出した反撃も、殿下の深い愛の海に飲み込まれてしまうだけだった。
指先に落とされた熱い口づけの余韻に震えながらも、私は殿下に手を握られたまま、残りのスープを交互に口に運ばされるという、甘美な拷問のような時間を過ごした。
「……ふぅ。ごちそうさまでした、殿下。……あの、お陰様で完食いたしました。もう本当に、体調は万全ですので」
空になった器を横目に、私はどうにか繋がれた手を引き抜こうと試みる。
「そうか。お前の体力が戻ったのなら何よりだ」
殿下は満足げに目を細めたが、その指は依然として私の指の間に深く絡みついたままだ。
「……ですので、午後からの講義には戻らせていただきます。これ以上、殿下のお時間を奪うわけには参りませんので!」
必死に学業を盾にして、殿下の隣という「特等席」から、一刻も早く「背景」へと戻りたい一心で距離を取ろうとする私。しかし殿下は、私の退路を断つように一歩、距離を詰めてきた。
「……ふむ。そんなに早く戻りたいのか。俺と過ごす時間よりも、講義の方が大切だと言うように聞こえるな」
「そ、それは……! 学生の本分は学業にありますから! 殿下も、次の講義がおありでしょう!?」
「……ふふ、そう焦るな。分かっている。お前は昔から、そういう生真面目なところがあったな」
殿下は私の必死なフォローを「生真面目さ」として片付けると、慈しむような手つきで私の髪を耳にかけた。そのまま、熱を帯びた指先が私の頬をなぞり、顎をゆっくりと持ち上げる。
降ってくるのは、呼吸が触れ合うほど至近距離の翡翠の瞳。
吸い寄せられるように近づいてくるその唇に、私は反射的に目を閉じた。……けれど。
柔らかな熱が触れたのは、唇のすぐ隣。
あえて外された、けれど唇よりも熱く感じるような、執着の滲む口づけ。
「……本当の口づけは、婚約してからにしてやろう」
耳元で囁かれた低く甘い声に、心臓が跳ね上がる。殿下は、逃げ場をなくして硬直する私を見て、どこか楽しそうに目を細めた。
「こ、ん……やく……?」
思考が真っ白に染まり、酸素がうまく吸い込めない。
聞き間違いであってほしかった。けれど、至近距離で見つめる翡翠の瞳には、一切の冗談も妥協も混じっていない。
――背景として、誰にも見つからず平穏に生きる。
そんな私のささやかな人生設計が、この一言で跡形もなく吹き飛ばされた。
この御方と婚約するなど、目立つどころの話ではない。それはいつか王妃として、この国の未来を担う「国母」の座に就くことを意味している。国中の尊敬と、それ以上に鋭い羨望の視線に晒され続ける、もっとも眩しく、もっとも過酷なステージだ。
「……む、無理……無理です、殿下。私のような背景の女が、そんな大役……っ」
必死に絞り出した拒絶の言葉は、熱を持った殿下の指先に唇をなぞられ、呆気なく霧散した。
「無理ではない。俺が決めたことだ。……逃げられると思っているのか?」
その歪なほどに深い独占欲に当てられ、私は指先一つ動かせなくなった。
せめて、これは夢であってほしい。そう願いながら、震える唇を噛み締めた、その時だった。




