翡翠の瞳と禁断の一口
殿下が慣れた手つきでサンドイッチを一口かじると、満足げに目を細めた。
その優雅な咀嚼をぼうっと見つめながら、私は体内の感覚に意識を向ける。
……よし、巡ってきたわね。
前世の知識をフル動員し、この貧弱な消化器官に合わせて調合した自作の常備薬。食前にこれを服用し、薬効が全身に行き渡るのを待ってから食事を摂る――それが、今世の私が編み出した「生きるための儀式」だ。
じわじわと胃の重みが消え、内壁が温まる感覚。ようやく受け入れ態勢が整ったことを、本能が告げていた。
目の前には、殿下がわざわざ私のために用意してくださった至れり尽くせりの食事が並んでいる。本来なら、殿下の心遣いに感謝しつつ、迷わずこちらを手に取るべきなのだ。
けれど。鼻腔をくすぐるのは、殿下が手にしている「それ」の、暴力的なまでに芳醇な、揚げ物特有の香ばしい匂い。
……美味しそう。
せっかく用意してもらったスープがあるのに、なんて不敬で食い意地が張っているのか。そんな理性を、薬で万全になった胃袋が軽々と飛び越えて、かつて講義の合間に頬張った「あの形」をしたご馳走を求めていた。
「……ふむ。薬が効いて、ようやく食欲が追いついてきた顔だな」
私の微かな変化を見逃さず、殿下が低く囁く。
図星を突かれて肩を揺らした私に、殿下は「いい傾向だ」と口端を上げた。そして、あろうことか、自分が今かじったばかりのかつサンドを、私の唇へと差し出したのだ。
「ほら。お前が前世で頼りにしていたあの味は流石に再現できていないが。……食うといい」
「えっ……でも、それは殿下が……っ」
いわゆる、間接キス。
高貴な身分の方としてあるまじき奔放な振る舞いに、私の理性が警鐘を鳴らす。けれど、薬で絶好調になった胃袋は、目の前の誘惑に抗えなかった。
「嫌か? 毒見は済んでいるのだ。安心しろ」
試すような、いたずらな瞳。
私は逃げ場を失い、半分は羞恥、半分は絶好調になった胃袋に突き動かされて――反射的に、その断面をハムッとかじり取ってしまった。
「…………っ!」
瞬間、口の中に広がったのは、暴力的なまでの「幸福」だった。
サクッとした衣の食感、じゅわっと溶ける極上の豚肉の脂。前世の、あのソースの味が濃いコンビニのかつサンドとは系統こそ違うものの、殿下が「似た形」を追求して王宮の最高級食材で作り上げたそれは、驚くほどの調和を見せていた。
「……おいしい……っ」
あまりの美味しさに、警戒心も、スープ達への申し訳なさも、すべてが吹き飛んでいく。
私は無意識に頬を緩ませ、とろんとした熱い溜息とともに、その味にうっとりと酔いしれてしまった。
……あ。
ハッと我に返ったときには、もう遅い。
目の前では、殿下が手に持ったかつサンドを止めたまま、一瞬呆然とした後、射抜くような鋭い視線で私を凝視していた。
「…………ほう」
殿下は手元のかつサンドを皿へ戻すと、私の頬にそっと手を添えた。
その指先が、脂で微かに光る私の下唇を、検分するようにゆっくりとなぞる。
「……これほど無防備な顔が見られるとは、思ってもみなかったな」
その声は、驚くほど静かで、けれど逃げ場のない熱を帯びていた。
先ほどまでの軽やかな挑発は消え、そこにあるのは、獲物の急所を見つけた観察者のような、あるいは愛おしい玩具を慈しむような昏い光だ。
「弱っていたとはいえ、目の前に男がいる自覚が足りないのではないか? ……それとも、俺になら何をされても構わないという誘いか」
「な……っ、そのようなつもりは……!」
慌てて否定しようとした私の唇を、殿下の親指が強引に塞ぐ。
殿下の顔が、吐息が重なるほどの距離まで近づいた。翡翠の瞳が、私の狼狽を一点の曇りもなく映し出している。
「これ以上、俺の理性を試すのはやめておけ。……お前が望まずとも、強引に奪いたくなる」
殿下はこともなげにそう告げると、私の顎を指先でクイと持ち上げた。
拒絶を許さない、絶対的な「管理」の視線。
心臓の音が、かつサンドのソースの香りよりも濃く、私の頭を支配していくのを、ただ黙って受け入れることしかできなかった。




